第4話 血の灯火

 夜が明けた。

 霧のような朝靄が、砦の木柵と石壁を薄く包んでいた。風は冷たく、乾いた血と火薬の臭いが鼻につく。昨日の戦いの痕跡が、まだ地に色濃く残っていた。


 広場には血の染みと、砕けた武具が散らばっている。誰もそれを片付けようとはせず、兵たちは壁際や空き小屋に腰を下ろしていた。

 疲労と空腹、そして喪失感。それが一様に兵士たちの顔に影を落としていた。


 オズベルもまた、その一人だった。


 背中にはいつもの槍。握る手はまだ震えている。血に濡れた革巻きは乾いて固まり、そこにこびりついた泥がひび割れていた。


「……よく、生きてたな」


 誰ともなく、誰かがそう呟いた。答える者はいない。生き延びた者の顔に、誇りはなかった。ただ、死んでいないという事実だけが、そこにあった。


「オズ、お前……昨日のアレ、見たぞ」


 ロイが言った。目の下にくっきりと隈ができ、声も掠れていた。


「……何のことだ?」


「お前が、敵を吹っ飛ばしてたやつ。あれ、マジで化け物かと思ったわ」


 オズベルは小さく息をついた。

 それは「槍の技術」でも「戦場の勘」でもない。ただ、怖かった。死ぬのが怖くて、腕任せに振り回した。結果的に敵を薙ぎ払い、仲間が生き残った。それだけだ。


「……ハンメルの分まで、生きないとな」


 そう言ったロイの言葉が重かった。

 ユーグは黙って俯いていた。ノルトは、まだどこか遠くを見るような目をしていた。昨日の戦場で、何かが壊れたように。


 そんな沈黙の中、甲高い声が砦に響いた。


「新兵ども! 立てッ! 今日からは“砦の兵”としての務めを叩き込んでやる!」


 砦の門から現れたのは、鎧の上に薄汚れた軍衣を羽織った男だった。顎には無精髭、目の奥には疲労と苛立ちが滲んでいる。

 背後には、同じく武装した数名の兵士が続いていた。いずれも、明らかに“新兵”とは違う、場数を踏んだ空気を纏っている。


「俺はガルベリオ。ここの中隊副長だ。今日から貴様らの尻を叩く役目を仰せつかった。光栄に思え!」


 反応はなかった。

 それでもガルベリオは構わず続ける。


「まず教えてやる。貴様らは“戦で生き延びた”からって、何も偉くねぇ。昨日の戦で生きて今日ここにいるのは、たまたま運がよかったか、前に出なかった臆病者か、あるいはたまたま“でかかった”奴だけだ!」


 言葉に含みがあった。

 明らかに、オズベルを見ながら言ったものだった。


「だが、運だけじゃ生きられねぇ。これから先は“汚い戦”が続く。お貴族様が語るような綺麗事はここにはねぇ。犬みたいに食らいつき、泥水啜ってでも生き残る。それが“砦の兵”ってもんだ!」


 吐き捨てるように言い、彼は命じた。


「まずは掃除だ! 広場の死体を片付けろ! 遺品は兵舎へ、武具は修理係へ持っていけ。使えるもんは全部使う。ここでは“死者の持ち物”も生きた兵の糧になる!」


 新兵たちの顔色が変わる。


 オズベルは静かに立ち上がった。槍を背に、歩き出す。

 目の前の現実は、もう“戦場”というだけではなかった。

 ――生きるとは、こういうことなのか。


 死体の処理は、朝の仕事だった。


 戦の痕が残る広場に集められた兵士たちは、まず遺体の区別を命じられる。味方か敵か、軍章の有無、武具の質、金目のものを身につけていないか。ひとつひとつ、血と泥にまみれた肉塊に手を伸ばして確認していく。


「うげ……鼻が……」


 ユーグが顔をそむけた。死臭に慣れていない者の反応だ。だが、それも時間の問題だった。


「慣れろ。慣れなきゃ、生き残れねぇぞ」


 ロイがつぶやきながら、斬られた胴の遺体を抱え、担架に乗せる。骨が砕けているのか、肉の下でぐしゃりと嫌な音がした。


 オズベルは言葉もなく、それを見ていた。


 死体は、もはや人ではなかった。泥と同じだった。ただの“後片付け”だった。

 だが、それを見てなお、自分が昨日“そこにいた”ことを否定することはできなかった。


 彼の手もまた、血にまみれている。


「オズ、お前……大丈夫か?」


 ロイがそっと問いかけてきた。


「……大丈夫だ」


 短く答えて、オズベルは担架を引きずった。

 重い。骨ばった肩に食い込む縄の感触が、やけに現実的だった。


 昼前には、砦の裏手にある共同埋葬所に到達した。


 浅く掘られた土の穴に、布を巻かれた遺体が投げ込まれる。名も、家も、誰かの涙も、そこにはなかった。

 それが、戦で死ぬということだった。


 オズベルは、最後の一体を運び終えたあと、じっと地面を見つめていた。

 その中に、昨日、自分が突いた兵がいたのかもしれない。

 名も知らず、声も聞かず、ただ一度の刃で命を絶った誰か。


「終わったぞ! 飯の前に点呼だ、走れ!」


 ガルベリオの怒鳴り声が響く。

 新兵たちは、疲労と共に足を引きずりながら戻っていく。


 オズベルもまた、黙ってそれに続いた。


 砦の生活は、死と労働の繰り返しだった。

 戦わない日も、命は削れていく。

 その中で、彼は確かに“変わって”いった。


 だが、それは強さではなかった。

 ただ、“戦場に馴染んでいく”ということだった。


 砦の飯はまずかった。

 乾いた豆と、ぬか臭い麦粥。味らしい味はなく、鍋の底には煤が混じっていた。

 それでも食う。食わねば倒れる。食わねば戦えない。


「……ったく、こんなもん、犬にでも喰わせてろっての」


 顔をしかめた兵が、飯盆を地面に叩きつける。粥が土に染み、犬が寄ってくる。

 その犬を追い払ったのは、後ろにいた中隊兵だった。


「もったいねぇ真似すんな。腹が膨れりゃ、それでいいだろ」


「は、ケチくせぇ。前線の連中はもっとマシなもん喰ってんだろ」


「文句は上に言えよ、アホが」


 兵たちの会話は日常だった。乱暴で粗雑で、だが、戦場の現実を語る声でもあった。


 オズベルは、その輪には加わらなかった。

 兵舎の隅で、冷めた粥を黙って口に運ぶ。目を伏せ、ただ咀嚼する。

 味がするかどうかは問題ではなかった。


「おい、そこのデカブツ。てめぇ、昨日よくも勝手に前に出てくれたな?」


 声をかけてきたのは、二十代後半と思しき古兵だった。

 左頬に刀傷のような痕があり、片眉が欠けている。

 装備も布鎧ではなく、革に補強を加えた軍装だった。


「俺たちゃな、命令に従って動いてんだ。てめぇみたいに勝手に暴れられちゃ、列が乱れて困るんだよ」


 周囲の兵たちが、気まずそうに視線を逸らす。

 だが、止めようとする者はいなかった。


 オズベルは、ゆっくり顔を上げる。

 だが、言葉は返さない。ただ静かに相手を見た。


「なんだ、無口か? それとも、何か言い返してみろや」


 古兵が足で粥の盆を蹴った。中身が跳ねて、オズベルの脛にかかる。

 そのとき――。


「やめとけ、ルザール。そいつ昨日、三人ぶち殺したって噂だぞ」


 横から別の声が割って入った。

 痩せた中年兵が、苦笑まじりに言う。


「ああ見えて、槍を振り回すだけで敵を吹っ飛ばしたとか、隊長がびびってたって話だ」


「ふん、偶然に助けられただけさ。技術もなけりゃ、頭もなさそうだ」


 ルザールはそう吐き捨てると、去っていった。

 オズベルは微動だにしなかった。


「悪く思うな。あいつ、前の戦で仲間を一人亡くしててな。新顔には当たりがきついんだ」


 中年兵が苦笑して言う。

 オズベルは首を横に振る。


「……構わない」


 それだけの声。

 食べかけの盆を拾い、腰を上げる。

 彼の槍は、今も背にあった。


 ただ、その“振るい方”が、まだわからないままだった。


 翌朝、空がまだ鈍く曇る頃、砦に号令が響いた。


「第三分隊、装備を整え、十五分以内に集合! 斥候任務だ!」


 怒鳴るような声に、兵士たちがあわただしく動き出す。

 指定された分隊には、オズベルとロイ、ノルト、ユーグも含まれていた。


「なあ、オズ。斥候って……つまり、先に行って様子を見てこいってやつか?」


 ロイが不安げに尋ねる。

 オズベルは頷いた。だが、口を開くことはなかった。


「やっぱりな……」

 ユーグがため息をつき、革紐のゆるんだ草鞋を縛り直す。

 斥候任務は、名ばかりの“囮”になることも多かった。

 敵地を探りに行った兵が、そのまま戻らないことなど、日常茶飯事だったのだ。


 集められたのは、十名の斥候班。

 指揮を執るのは、あのルザールだった。


「……さて、昨日の英雄様もいるようだな。槍を振り回すのは結構だが、俺の指示には従えよ」


 皮肉を込めた言葉に、周囲が気まずくなる。

 だがオズベルは頷くだけだった。


 向かうのは、砦から西に三里ほど離れた丘陵地。

 そこに、アルベルン王国の野営跡があるとの報告があった。

 既に撤退したとの情報もあれば、未確認の小部隊が潜伏しているという噂もあった。


「敵が残っていたら?」


 ノルトが問う。

 ルザールは笑った。


「馬鹿か。見つかったら逃げろ。斬り合うのは前線の仕事だ。俺たちの役目は、死ぬ前に報告を届けることだ」


 その言葉が冗談ではないと、全員が理解していた。

 斥候とは、死の匂いを探る仕事なのだ。


 草むらをかき分け、足音を殺しながら丘を登る。

 鳥のさえずりさえない沈黙の中で、彼らは慎重に進んだ。


 やがて、丘の上から、廃れた野営地が見えた。

 焚き火の跡、踏み荒らされた土、割れた盾。

 新しい……いや、数時間も経っていない。


「まだ近くにいるかもしれん」


 ルザールが手で制止を示す。

 そのとき――。


 風が吹いた。

 草が揺れ、何かが動いた。


 すぐにそれとわかる――敵兵だった。


 二、いや三人。

 弓を構え、こちらを狙っていた。


「伏せろッ!」


 ルザールの叫びと同時に、矢が飛んだ。

 一本はロイのすぐ横に突き刺さり、もう一本はノルトの腕をかすめた。


「ちくしょう――!」


 誰かが叫ぶ。だが、斥候は戦う部隊ではない。

 ルザールは叫んだ。


「逃げろ! 全員、砦へ戻れッ!」


 オズベルは一瞬だけ迷った。

 背後でユーグが足をもつれさせて倒れる。


「ぐっ……!」


「ユーグ!」


 すぐに駆け寄り、片腕を抱きかかえる。

 矢が腿を貫いていた。走れる状態ではなかった。


「オズ……置いてけ……!」


 だが、彼は言葉を無視した。

 肩を貸し、体を支えながら走り出す。


「ロイ、援護しろ!」


「了解だッ!」


 矢が追ってくる。草がはじける。足がもつれる。

 それでも――走る。


 そして、ようやく砦の射程内に戻ったとき、背後から聞こえた。


「追撃、止んだぞ!」


 矢の雨が途絶え、代わりに砦の上から警鐘が鳴った。

 味方の弓兵たちが、すぐさま反撃に出たのだろう。


 斥候班の半数は傷を負いながらも帰還した。

 ユーグはすぐに衛兵詰所に運ばれ、治療を受けた。


「……すまねぇ、オズ」


「喋らなくていい。……死ぬな」


 オズベルはそう言い残し、ゆっくり立ち上がる。

 背中には、槍があった。

 戦いでは使わなかったが、それでも、確かに――命を守った。


 この槍が、あったからこそ。


その晩、砦の広場では焚き火の炎がいくつも揺れていた。

 斥候から戻った者たちに対し、特に称賛も、叱責もない。

 ただ、帰ってきた。それだけのこととして扱われる。

 命を賭して戦場の端を覗いたことさえ、“日常”に埋もれていくのが、この地だった。


 オズベルは、兵舎の端に腰を下ろしていた。

 草履の紐を解き、土と汗で固まった足を揉み解す。

 足の裏は豆だらけで、潰れた皮膚の間に泥が入り込んでいる。


「まったく……お前、どんな化け物だよ」


 ロイが苦笑しながら隣に座る。

 傷はないが、全身が疲れ果てていた。肩を上げ下げするたび、鎧が軋む音を立てる。


「普通、あれだけ走ったら、一人で担いで帰るのは無理だろ」


「……重くはなかった」


「は?」


「助けるって、決めたから」


 短くそう言い、オズベルは黙った。

 ロイは肩をすくめる。


「変なやつだな。……まあ、助かったのは確かだ。ユーグもな」


 そう言って、火の向こう側を見る。

 そこでは、ノルトが布包みに包まれた水袋を握り、ユーグの看病をしていた。


 足に受けた矢は、筋を避けて貫通していた。

 幸い、切断や壊死の心配はないという話だったが、しばらくは戦線に立つことはできないだろう。


「……なあ、オズベル」


 ロイが少し声を潜めて言った。


「お前ってさ、前の戦いのとき、槍……ちゃんと振ってたよな?」


「……ああ」


「やっぱ、怖くなかったのか?」


 しばらく沈黙が続いた。


 オズベルは火を見る。

 焚き火の中で、父の言葉が蘇る。


 ――まっすぐ突け。人でも、獣でも、迷わずにな。


 彼は、少しだけ目を細めた。


「……怖かったよ。けど、突かなきゃ死ぬ。……それだけだった」


「……そうか」


 ロイも、火を見つめた。

 誰もがそれぞれの恐怖を抱えていた。

 だが、その恐怖を口にすることで、少しずつ分かち合っていた。


 その夜、兵舎では静かな寝息が続いた。

 訓練や任務、斥候、補給――どれも過酷だが、今は戦場から離れた束の間の静寂。


 オズベルは、父の槍を壁にもたせかけ、その隣で横になった。

 眠りに落ちるまでのわずかな時間、手を伸ばせばそこにある“それ”の重みを、ずっと感じていた。


 やがて夜は更け、砦の鐘が遠くで鳴る。

 それは、戦の時を告げるものではなかったが――次なる“命令”が、すでに刻まれていることを、誰もが感じていた。

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