道の上のスライム
置きftz
第1話 前編
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王都から北東へのびる道を随分と歩くと大きな沼がある。慈悲の神殿の南東、そう言われてもピンとくる人は少ないかもしれないが。その沼には何十何百というスライムが暮らしていた。そのなかの誰かが分裂してワシが生まれた。
いまでは遠い昔の話だが、このときのワシはまだ、ごく普通のスライムだった。
- 2 -
スライムの知能は人間に比べれば僅かだが、コミュニケーションは成立している。なかには意味不明なことを言うやつもいるが、普通のスライムはそんなやつの相手をしない。ただぼんやりと沼を眺めながら、変わらない毎日を過ごすのだ。
この物語はワシが非日常的スライムに関わった所から話は始まる。
そいつは「世界の不思議を一日一個食べると何日で食べ尽くせるかなぁ」そう、毎日のように聞いて回る変わったヤツだった。スライムにはちょっと難しい内容だ。さらに言うと、世界の不思議は美味い食べ物でもない。相手をするやつがいるはずもなかった。
思い返すと、スライムの日常は本当に不条理だった。例のヤツはもちろんのこと、人間の視点から眺めれば、沼のスライムすべてそうだ。そんなこと、沼にいたときには考えもしなかったのだが。
あの日は、今日のように、めまいするような暑い一日だった。
ワシはいつもと違った反応をした。ヤツの問い掛けに、ワシは返事をしたのだ。そしてワシだけがスライムロード(Slime Lord, スライムの上位種)になった。たったそれだけの話。
ヤツはそそくさと行ってしまい、他のスライムに話し掛けていた。
すぐ隣にいた緑色したスライムが二つに分裂した。ワシのいた場所を埋めたのだ、と直感的に理解した。
沼はいつもと変わっていない。ワシだけがひとり変わってしまったのだ。
- 3 -
スライムの視機能は色の判別ができない。
そのくせスライム自身は色とりどりの体組織をしている。他の生物のように類推すれば、繁殖時の求愛のためかもしくは天敵から身を守るためかだが、どちらも正しくない。
種の保存は、唯一分裂のみで、そもそも雌雄の区別がない。
天敵といえば人間だけだ。確かにどこの沼も汚染されて以来、奇妙な生物が住み着くようになったが、ワシらは折り合いをつけて上手くやっていたと思う。
例の変なヤツがいつもと同じように問い掛けてきたあの日…それまで見慣れていた灰色の沼がゆっくりと濃い緑色に変わっていった。そのときワシは色覚というものをはじめて知った。
ただ、人間とスライムの本質的相違という点からすると、色覚の有無は非常に些細なことである。この両者を決定的に分けるものは思考ではないだろうか。それはスライムロードとスライムとの違いでもある。
ワシはあの日以来、どちらかというと人間に近い存在になっていた。
- 4 -
ワシは思考するときしばしば人間のかたちをとる。比喩ではなく現実に実体として、という意味である。なぜそんなことが可能なのか、スライムロードとは実に不思議な存在だと、いつも思う。
人間のかたちとは思考しやすいようにできているのだと随分感心した。軽く瞼を閉じ、眉間から前頭部にかけて意識を集中する。そうするとつなたい我が身でも思考することができるのだ。
「やれやれ、どうしたものか」
あの日、ワシは沼を遠巻きに眺めながら、そう呟いた。毎日をぼんやりと過ごした居心地のよい沼には、もはや居場所がなかった。
スライムでも人間でもないワシはしばらくの間、変わらない沼を眺め続けた。
- 5 -
ワシは人間のかたちで旅をした。その方が何かと都合が良いのだ。天敵の人間に襲われることがない。色々な話を聞くことができる。そして思考することができるからだ。
あるとき、立ち寄った酒場でこんな話を聞いた。「そう、世界の果てには…」
この言葉のあとに続いた台詞はなんだったか。随分と昔のことで忘れてしまったが、そのときワシは、ワシなりの『世界の果て』を想像していた。
世界を聞いて見て回った。そう、何年も旅をしているうちに辿り着いた…ここが『世界の果て』だと思った。
細い岬の先にひっそりと立つとても大きな灯台。そばを通りかかる船は一隻もない。噂話を聞いてイメージした通りの光景だった。
正面の扉を開けて小部屋に入ってみた。奇妙なくらい音のしない空間だった。
机の上にはペンの一本もなく、どの引出しにもメモの一枚もなく、床には埃すら積もっていなかった。なにもないことが、実に不思議…だった。
めまいがして、意識が薄まる予感とともに床にしゃがみこんだ。
ワシは、この世界の不思議が最後に流れ着く場所、それが『世界の果て』で、そこには日の目を見ない不思議が手付かずのままうずたかく積み上げられている光景をずっと想像していた…のだ。
どうやら、そういうことではないらしい。
いまとなってはなぜここにいるのかも判らなくなっていた。
…なぜ旅をしていたんだろう。
あの頃は何も知らなかった。ここが沼であることも、自分がスライムであることも。生きることも、死ぬことも。
意識が朦朧とするなか、遠い昔に出会った変なヤツの顔を思い出していた。
『世界って何?』
あの日、ワシはそう返事をした。無表情だったヤツは、その一瞬だけ笑顔を見せた…気がした。
ワシの体は崩れ落ちた。
- 6 -
わたしには両親の記憶がない。より正確に言うと、ある時点から以前の記憶が全くない。それは仕方ないことだった。この町の人達はいい人ばかりで、そんなわたしの世話をよくしてくれた。
あるとき酒場にきた船乗りに聞いた。「この世界は丸い」のだと。想像がつかなかった。どうして丸いのか訊ねたが理由は判らなかった。「ただ丸い」そういうことだった。
わたしは、この道を行けばひたすらに平らな地平が広がっていて、そしてその果てには何かがあるのだと、ずっと想像していた。それはゴールのようなもの。
もしかすると失われた記憶かもしれないし、いなくなった両親かもしれない。
わたしの心の水底から一つの泡が浮かんで、そして消えていった。そんな気がした。
それから何年も過ぎた。大きくなったわたしは両親を探すことよりも、ただそこにあるスライムの研究に没頭した。
「なぜ、スライムについてなのか」
それはたぶん、失われた以前の記憶に答えがあるのではないだ
ろうか…なんて言うと夢見がちな記憶喪失少女みたでちょっといいかもしれない。
実際のところ、スライムはかなり興味深い生物だ。色、食性、能力など個性豊かだし、歴史など調べると結構悲劇的でもある。あとなにより、何を考えている
か判らない表情が最高にいい。だからスライムについての本を一冊書き上げた。たったそれだけのことである。だが満足だった。
明日になったら、宿屋のお爺さんに読んでもらおう。あと酒場のおじさんとか、通りで人に売ったりして…それから…それから……。
「ふぁぁあ、眠い」
一瞬、昔どこかで見た…灰色の景色に色彩が加わっていく…そんな光景が目の前に映ったような気がしたがすぐに通りの喧騒に掻き消された。
わたしはゆっくりと瞼を閉じた。じきに、無音で真っ暗な世界が訪れた。
- 7 -
世界の果てだと思っていた場所は、あとかたもなく消えていた。 長い夢を見ていたのか、気がつくと夕日が道の上に長い影をつくっていた。
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