魔法使いは夢から醒めた

@hokaai

第1話

赤い実が雪の上で爆ぜている。


それが舌の上に乗ればしゃりしゃりと崩れるのをキルケは知っていた。はるか昔に、掌の温かな人が教えてくれた事だ。もう顔も思い出せないほど遠い昔にその人はキルケの隣に確かにいて、キルケを守っていた。


キルケもかつては「ただの魔法使いの少年」だった。

今思えばとんでもない事だが、キルケはその時まだ世界で最も強い魔法使いではなかった。でも限りなく強かったから、きっと油断していたのだ。師匠から事づけされて、師の屋敷を出て直ぐのことだった。

キルケは魔法使いの徒党に勝負を挑まられ、戦いに負けた。しかし、屍にはならなかった。代わりに木の人形のように雪の中に落ちて、何もかも白い紙になってしまったみたいに全て忘れてしまったのだった。

それを人間の女に拾われた。穏やかで物をよく知っていて、でも世の中のことは何も知らないそんな女だった。家族もなく、名前もなく、何も持たなかったが手のひらがとても暖かかったのをよく覚えている。


__



これは夢なんだと思った。


広がる雪原の中、私は一人たたずんでいる。手足がひどく冷えていて、このままだと死んでしまうのでは?と漠然と感じた。どこか暖かい場所へ行かなくては足を動かせど動かせど、どこにもつく当てもなく体から熱が逃げていくのがわかって辛かった。もうダメかもしれない、と思ったその時に目に映ったのは林の中に一羽のカラスが落ちてきた姿だった。


生き物の気配にどこか安堵を覚えて見にいくと、そこにはカラスではなく傷ついた少年が横たわっていた。美しい黒い髪を白い雪の中に散らばせたらその子は、まだ15.6の頃に見え、傷だらけで意識もないようだった。息を確かめるとひどく暖かくて驚く。まだ、生きている。この子は神様が遣わした天使なのかもしれない、と死に瀕した頭がぼんやりと呟いていた。


その時ふと、林の上空から怒号が飛び交う。荒々しい声達が「キルケはどこだ」と叫んでいた。

なぜだか確証を持って、私はその声たちが探しているのはこの子のことに違いないと感じ、思わずその子が見えぬように覆い被さった。

音が聞こえなくなるまで息を潜めている間、自分が死ぬかもしれないことよりも傷だらけのあたたかなこの子供が死ぬことの方が恐ろしくて汗が吹き出した。この子は私のものだ。私がきっと守らなくちゃならない。夢の中の私は、不思議と確かにそう感じていた。きっとこれはただの夢だ、だけど夢の中で役割があるのだとすれば私はこの子を守るためにここに来たのだと。


人というのは不思議で熱さえあればなんでもできるような気がするのだ。背中から感じる彼の体温が、普通の社会人である私には出せないような馬力を生み出す。雪をかき分けて掻き分けて、1時間ほど歩いて、私はようやく廃屋を見つけたのだった。


__

魔法使いたちとの戦いで気を失って初めて目を覚ました時、キルケは何も覚えていなかったように思う。


ただ漠然と死への恐怖が胸を掠めて、怖い恐ろしいという感情だけがそこにあった。だがそれと同時に、精霊たちが彼を宥める様にあたりをそっと守っているのも感じた。精霊たちはキルケと共に小屋に眠っていた女には目もくれなかった。だから、キルケも気を払うことはなかったのだが、女は違ったようだった。

目を覚ますとキルケが起き上がっているのを見て笑い、元気になった?と尋ねてきた。

キルケはこれを無視することもできたが、何しろ何もかも忘れていたから会話に応じたのだ。これが師に拾われる前の彼だったのなら違ったのだろうが、この頃にはキルケは人並み以下とは言え世界のことを少しは理解していたのだ。


「ここはどこだ、なぜ私とお前はここにいる?」


問いかけた言葉に女は苦い顔をする。女もまた、自分がどこから来たのか、なぜここにいるのか、それを知らないのだと言った。


「ごめんね、ここがどこか分からないんだ。気づいたらここにいて、寒くって死んじゃうかと思って……でも君が暖かかったからね、私は助かったんだよ」


ありがとうね、と笑う女はそれでも一つだけキルケに大切なことを教えてくれた。キルケが「キルケ」であるということだ。名前らしきものがあるのはひどくキルケを安心させた。女にも名を尋ねると私も知らないのだ、と笑っていた。


「私はね、蝶の見ている夢みたいなものなんだと思う。だから名前なんて必要ないよ」


とんと脈絡のないおかしな話だったが、小屋には二人きりだった。キルケは「おい」と呼べば女は「なに?」と答えた、確かに名前はなくともそれで十分だとキルケも感じた。


__

不思議なことに廃屋は風や吹雪をものともしなかった。まるで妖精か何かに守られているような心地になるほどに寒いけれど安心できる場所だった。

そしてまるっと一日中寝込んで、少年「キルケ」はやっと目を覚ました。ただ、目覚めると赤い宝石のような瞳に怯えを滲ませて両方の腕で自分を抱きしめていて、それが可哀想で、でも起きてくれたことにひどく安心して私は彼に話しかけた。


そして困ったことに、「キルケ」は何も覚えていないらしかった。私もまた夢の中の世界のことは何も分からず、二人で途方に暮れたが「キルケ」に名前を伝えてやるとそれだけで彼は少し落ち着いたらしかった。彼は私の名前を尋ねてくれたけどぼんやりしていて思い出せなかった。

そして名前ではなく故事をなぜか思い出す。これは夢なのだ、とてもとても長いけれど目を覚ましたら数刻しか経っていないような。だから仕方ないことだと思って気にしないで、と彼に告げればキルケは烏の濡れ羽色の髪を揺らしてこくんとうなづいた。


雪が降る外よりもはるかに小屋の中はマシだったけどそれでも寒くてキルケと私は身を寄せ合っていた。ふと、彼は何か気づいたように不思議な言葉を呟くと壊れかけていた暖炉に火が灯った。

突然のことに驚いた私よりもそうしたキルケの方が余程驚いたように自分の口を押さえてこちらを見ていた。赤い瞳が火に照らされて花のように燃えている。


「魔法があった、忘れていた……」


ぼんやり呟くキルケに、なぜか私の驚きはふっと消える。そうか、この子は魔法使いなんだ、と不思議と直ぐに受け入れていた。

夢だもの、そんなことくらいあるよねと思いながら私も念じてみる。小屋よ直れ、なんて。でもダメだった、私がどうやらおかしな顔をしていたらしくて、キルケは静かに首を振る。


「お前は人間だから無理だ、精霊は人間には従わないのだから」


そう言うものか、というのもなんだか合点が言って残念だけどそうか、と受け入れた。


そこから、奇妙な共同生活が始まった。魔法使いである彼が家を整えて、私は彼に魔法で寒さを凌ぐ魔法をかけてもらい辺りを歩いて散策し食べられそうなものを持ち帰る。生き物を狩るのはキルケの仕事で捌いて肉を焼くのは私の仕事だった。


__

女との共同生活は穏やかだった。キルケは小屋を直しながら時折魔法で狩りをし、女は木の実を集め獣を捌いて焼く。誰かと共にただ生きるだけの暮らしは、思い返してみればキルケの一生の中であの時だけの物だったかもしれない。


キルケは自分が魔法使いである事を思い出し、魔法を使う度に少しずつ記憶を取り戻していった。何か理由があって自分が追われていた事やしなくてはいけないことがあるはずだということまでは思い出していた。女にはそれを話さなかった。理由はあまりその時のキルケは理解していなかったけれど、今思えばあの生活が気に入っていたからなのだろう。そして女は不思議なことにキルケの為ならばなんでもするような危ういところがあった。記憶のない名前のない女の世界はキルケを中心に回っていて、それがキルケには幸せであり恐怖でもあった。


記憶を鳥もどふとき、いつもキルケは夢を見た。それは大抵恐ろしい夢で、その日見たのは魔法を使おうと掲げようとした杖が崩れていく夢だった。悪夢を見て目を覚ますたび、精霊たちがキルケをそっと慰めてくれるのだが、その日は精霊たちの慰めを持ってしても体が思うように動かなかった。情けないことに夢の影に怯えている自分がいるとキルケは認めざるを得なかった。


寝台からぼんやりと窓の外を眺めるキルケを見た女が突然立ち上がり1人、森に入っていった。加護の魔法もかけぬまま飛び出していったからキルケは驚いて心配で怖くてたまらなかった。


そんな心配をよそに女は嬉しそうな顔をして柘榴の実をとってきた。熟した実はパックリと割れて中から赤い果肉が小さく宝石箱のように粒々と輝いている。


「見て。キルケの目に似てるでしょ、綺麗だから取ってきた」


女は少し不器用な動きで手にした実を力強く二つに分けた。そうして、よくを目を細めて少しだけ大きい方をキルケに差し出すのだった。


「食べな」


なぜ突然そんな事をする、危ないから私の魔法をかけてから出ろ、なんて言いたいことが山ほどあったはずなのに女が嬉しそうに手を差し出すものだから、キルケは何も言えず渋々受け取りその実に齧り付くしかなかった。口を赤く濡らすキルケを見て女は破面する。


「食べれるならきっと大丈夫。直ぐに元気になるよ」


その日を境に、キルケの夢は変わっていった。恐ろしい夢は減り、代わりに過去の断片が浮かぶようになった。師の屋敷、魔法の力を持つものとしての驕り、そして魔法使いの徒党たちからの襲撃の瞬間。そして、試練についてだ。

キルケは、師からの試練でこの森へ来ていた。単なるお使いでもなんでもない、立派な一人前の魔法使いとして巣立つための試練。


「これは試練じゃ。お前がそれをできた時、屋敷からは出してやれるじゃろうて」


それが一体なんだったのか、キルケの記憶はまだそれを取り戻せなかった。しかし、キルケはただこの暖かいだけの生活を守るのは不可能だと気づいた。試練のタイムリミットが終われば、師はキルケを連れ戻しにくるだろう。そうすれば女はこの森にキルケの加護もなく取り残される。そんなことになったら、ただの人間はすぐに死んでしまうに違いない。それだけは嫌だった、早く師の試練を乗り越えて一人前の魔法使いとなり女を守ってやらなければならない。


そんなふうに考えているキルケをよそに、冬が深まってきているからか女は眠る時間が長くなっていった。起きているときはぼんやりし、時折遠い目をしてキルケを眺めている。

そうして、深深と雪が積もる頃には女は小屋でほとんど眠っているようになった。

キルケは人間のことはよく知らない、でも熊や栗鼠は冬の間長い眠りにつくのだ。そういうものなのだろうと、考えているがそれでもよく笑いキルケを構う女が静かなのは不安だった。

前、キルケが動けなかった時のように女がしてくれた事を思いだし、魔法で柘榴の実が作った。

割ってくれとせがむと女は力なくそれを割って両方キルケに差し出すのだった。


「私はどちらも好きだからお前が先に選べ」

「ううん。もうすぐ夢が終わるんだと思う、だから私にはもう必要がないんだ」


そう笑う女は屈託なく幸せそうでキルケの胸に峠に吹き上げる風のようなものがざわめいた。人間は物を食べなければならないのではなかったのか?食べれば大丈夫といっていたのはお前ではないのか?言いたい言葉らしいものがキルケの心を吹き荒れて、でも言葉にした疑問は一つだけだった。


「お前は人間だ、もうすぐ死ぬのか?」

「魔法使いは死なないの?」

「私は人間ほど簡単には死なない」

「それはなんだか、嬉しいかも。でも私も死ぬわけじゃないよ、夢から覚めるだけ。だから大丈夫だよ」


大丈夫なら、食べろ。とキルケはいいたかったけれどいつの間にかキルケの手を握ったまま女が眠っているのに気づいて何も言えなかった。暖かな手のひらだった。


__

夢に怯え傷ついていたキルケは、いつだったか瞳に似た果実を見つけて一緒に食べた日から徐々に元気を取り戻していった。彼の赤い瞳は、傷ついた少年のものではなく、いつしか魔法使いの威厳に満ちていた。


キルケが元気を取り戻すのを見ているうちに私はこの夢での自分の役割を本当に正しく理解した。

私は彼を偉大な魔法使いへと導くため、遠い別世界から呼ばれたのだ。

類稀な才能を持つ孤独な魔法使いの少年に「心」を知って欲しいと願った師匠が別の世界から見つけた「平凡で暖かい大人」、それが私だった。私も面白そうだからと夢でうなづいて始まったキルケの師が紡いだ幻の存在、試練のを紐解く鍵。それが本当の役目だったんだ。


でもそう自覚したら徐々に夢が覚めていくような感覚に襲われるようになった。目が覚める前の短い夢ように断片的に場面が切り替わり、それはキルケから見ると起きている時間が短くなったと感じているようだった。


でも悲しむことはないのだと、以前ともに食べた実を割ってやる時に告げたら彼はひどく傷ついた顔をしていた。

それがなんだかとても可哀想で、初めて会った傷ついた少年に戻ってしまったみたいで悲しく、どうにか力を振り絞って実を一緒に取りに行こうと次の日告げてみた。黙っている彼に緊張しながら視線を上げると、驚きに見開かれた瞳が見えた。その赤のなんと美しいこと。私はこの子を守るために夢を見ていて、それはきっともうすぐ成されるのだというのが悲しくてでも嬉しかった。こんなに綺麗な物を守れるのであれば夢を見る甲斐がある物だ。


__

2人は連れ立って森を歩いた。

初めて会った頃のように広い雪原の寒さは厳しかったが、魔法で体は暖かくキルケも女も穏やかに歩いていた。

あと少しで冬でも柘榴の実がなる森の奥につくと言う時だった。木立の間から魔法使いの徒党が現れる。キルケを襲った魔法使い達にとうとう見つかったのだ。


女を守りつつ魔法の雷撃でキルケは徒党を迎え撃った。ほとんどの魔法使いを屍にして、あと1人という時に森で一番大きな柘榴の木に術をかけようとする敵の姿が見えた。大方魔法人の中心にでもしていたのだろう、とわかっているのにそれを見て何故だかキルケは一瞬その木へ雷撃を撃つことができなかった。

木の根元に、女の面影が揺らめいた気がした。彼女の笑顔、温かな掌、柘榴の実を割る不器用な仕草――すべてが木に宿っているようだった。


息を呑んだ一瞬、後ろにいたはずの女が走り出した。なぜだかわからない、女は木を守ろうとしていた。


「行くな!」


キルケの叫びも虚しく、敵の魔法が木を赤く燃やし、女は倒れた。キルケは一拍遅れて雷撃を放つ。薄暗い森の中が閃光を受けてまるで真昼のように白んで、鼓膜を破かんばかりの雷鳴がとどろいた。光が止むと、そこにはが黒い煤が舞うばかり。戦いは終わったのだ、しかし柘榴の木は赤く燃え、もう元には戻らない。女もまた生きてはいたが息も絶え絶えだった。


「何故だ!私のそばにいればよかった!」


激昂するキルケ見て女は悲しげに笑う、何か言いたげに口を動かしているのに何も聞き取れなかった。ただ、握りしめていた柘榴の実を彼の手にコロンと落とした。

不思議なことにそれでキルケは全てを思い出していた。これが師から課せられていた試練だったことも全て。


「徒党を組む魔法使い達を追い払い、柘榴の実を取ってきなさい。それがお前への試練じゃ」


呆然としたキルケに女の声がやっと届いた。 


「これでもう大丈夫」


サラサラと風に乗ってその体は消えていった。キルケの手に残ったのは最後まで握っていた手のひらのあたたかさと、柘榴の実だけだ。


しばらく、そのままたたずんでいたキルケの元に師が現れる。


「よくやったのう、合格じゃ」


キルケの手から柘榴の実をそっと取り去り満足げにうなづいた師は、それでもぼんやりとしたキルケに少々怪訝な顔をした。


「どうした?嬉しくないか?」


少年は掌をじっと見つめ呟いた。


「いや、夢から覚めてしまっただけだ」


__

「赤い瞳のキルケ」といえば、この大陸でもっとも強い大魔法使いだ。

彼は夜を流し込んだような黒い髪と宝石めいた赤い瞳を持ち魔法使いとして長い時を美しい青年のまま過ごし、その偉大な力を持って人々を助けてきた。

気難しく物静かだが、心に暖かさを持つと近しい者たちは皆口を揃えて言う。

そんな大魔法使いは今日も北の国の王の依頼を受けて、弟子と共に雪原を箒で駆けていた。


一番末の弟子が疲れたからと森の中に一行は降り立つ。そこは、柘榴の木が群生していたようで、地面にじゃらじゃらと転がったよく熟れた柘榴の実を見てキルケは目を細めた。


「キルケ様、柘榴の実ですね」


一番弟子の青年がキルケの視線を追って微笑んだ。


「本当だ!キルケ様はあれが好きなのですか?」

「……ああ、そうだな」

「では取ってきましょう!」


真ん中の弟子が短い腕いっぱいにが柘榴の実を取ってくるとキルケは力を入れてその実をわってやった。


「まあ、なんと綺麗な実なのでしょう」

「キルケ様、なぜこの木の実が好きなのですか?」

「……様々な訳はあるが、昔これが私の目に似ていると言った者がいた。それが一番かもしれない」


弟子達は興味深げにその話を聞きながら、キルケにに渡された柘榴の実を口にする。それを見ながら、キルケもまた柘榴の実を口にした。舌に乗った実がしゃりしゃりと崩れ、甘酸っぱい味が口に広がる。あの頃と好みは何も変わらない。

末の弟子はそれはそれは柘榴が気に入ったのか二つ目の実を一生懸命に食べていた。疲れたとへたった顔が嘘のように嬉しそうでキルケはそれを見て微笑んでしまう。


「それだけ食べれるなら大丈夫だな、直ぐに元気がでるだろう」


それもそうですね、と一番弟子の青年が笑うと恥ずかしそうに末の弟子は微笑み返したのだった。

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