第34話 兄弟喧嘩②
――春陽。どこだ、春陽!!
黒島が、ラボに向かう廊下をひた走る。心臓が跳ね、自分の鼓動が鼓膜に響く。冷え込む夜だというのに、奪ったジャケットとボトムしか身につけていないのに、汗が絶えず首筋を伝う。連戦のためもあるだろうが、それ以上に焦りと混乱があった。
――探してどうする。春陽を見つけたら…どうする…
戦場で錯乱した者をどうすればよいのか。正答は一つだ。動きを止めること。上手く取り押さえられれば、鎮静剤や体術で意識を失わせることもできる。しかし、意識を失った者を連れて戦場を回れるのか。共倒れになる可能性が高い。しかも、腕の立つ春陽が相手では取り押さえることさえ難しいかもしれない。そのときは、この手で…?
いっそ、俺の方が春陽の手に掛かって死ねば良い、などとも思い、次にはその惰弱さに自分を張り倒したくなる。愛する妻が大事にしていた仲間を手に掛けて晩節を穢す前に、自分の手で幕を下ろしてやらねば、とも思い、次には春陽の生命に対する己の尊大さにぞっとする。
ふと、黒島が足を止めた。嫌な鼓動が収まってきて、温かな心地が広がる。窓の外には、暗い海を静かに照らす月。漆黒のビロードのような波の上に映る光が揺らめき、散る様に、黒島が見惚れる。あまりに美しく崇高な真理が垣間見えた気がした。一条の涙が頬を伝う。
それが、熱ではなく冷たさであることに違和感を覚えた。
――馬鹿な。今さら何に感動している?
黒島の爪が、がり、と頬の傷を掻いた。醜く爛れたケロイドの感触で、浮き上がるような心地を現実に引き戻す。この傷を受けたときの痛み。この傷のために舐めた辛苦。この傷と共に駆け抜けてきた戦場の記憶。脳内に闘争心が吹き出す。
「そこだ!!」
黒島が銃を振り抜いて、天井の隅を撃った。ずるり、と這うように天井を伝う影がスルスルと立体を為していく。
「…寛いでくれてて良いのに」
月光のようなプラチナブロンドを右分けにした男が、ゆったりと笑った。
「何の用だ」
黒島が油断なく銃を構えて、睨みつける。
「お前は、今晩だけで俺達の兄弟を10人、殺した」
後からも同じ声が聞こえてくる。振り向くと、プラチナブロンドを左分けにした、1人目と瓜二つの男が立っていた。
「…初めて見る顔だが」
黒島が冷ややかに返す。10人。管理室についていた獣人兵達のことか。
「顔は虎や豹だが、皆、H.B.R社のラボで生まれ変わった“兄弟”だ」
“右分け”――オピウムが、ふぅっと微笑む。
「俺とオピウムは、ラボの試験管で生まれてラボで育った。H.B.Rが俺達のホームだ」
“左分け”――プワゾンが黒島を睨みつけている。
「兄弟を殺された。ホームが荒らされている。”何の用だ“は、こっちの台詞だ」
「――プワゾン、それ、返してあげて」
オピウムがのどかな調子で口を開いた。プワゾンが黒島の足元に剣を放り投げた。没収されていた、黒島のフランベルジュだ。
「取れ。剣を抜け。正々堂々、勝負だ」
経皮毒が塗られているかもしれない。黒島が、指先で慎重に柄を持ち上げる。特に刺激などは感じないことを確かめてから、柄を握り込んで構えた。
「兄弟の仇ィッ!!」
プワゾンがアーミーナイフを突き込んでくる。がちりと金属音がして、黒島の剣がナイフを受けた。そのまま押し返しながら飛びすさる。ナイフ戦の腕前自体はそこそこだ。さしあたり、獣人兵よりも人間らしい範囲内の腕力。黒島が、ひゅ、と息を吸って蹴り出そうとした刹那。
「がは…ごぶっ!」
急激に胃がせり上がってくるような感触。黒島が身体を折って屈み込む。嘔吐するかと身構えたが、昼食・夕食と、おあずけされた胃の中は空っぽらしく、苦い胃液が数滴垂れただけだった。そこに、プワゾンが猛然と斬り込んでくるのを、すんでの所で転がって避ける。黒島は、ぐっと腹に力を入れて飛び起き、距離を取った。
「は…何をした?」
息を荒げてプワゾンに問うた。正々堂々が聞いて呆れる。
「何も…?プワゾンの呼気は毒なんだ。俺の呼気は薬だよ」
オピウムに後ろを取られた。黒島の細腰を包むように腕を回し、ふう…と息を吹きかけてくるのを、黒島が顔を背けて突き飛ばす。
「薬なわけあるか。気分だけ良くする…麻薬みたいなものだろう?」
さっきのおかしな心地は、こいつの仕業に違いない。
「はは、当たり」
オピウムは、こともなげに笑った。
「俺は、ホームを守るッ!」
プワゾンが突っ込んでくるのを、黒島は大きく転回して距離を取る。とはいえ、ナイフ戦で近づかないのではお話にならない。大きすぎて曲げていた左袖を延ばす。気休めでしかないだろうが、大きく余った袖で口と鼻を覆った。慎重に息を吸い込み、呼吸を止めてプワゾンに斬り込んだ。ナイフと剣がぶつかり合い、高い金属音を立てる。また跳びすさって距離を取り、息継ぎする。
人間、何分間呼吸を止めていられるものか。世界記録では20分だ、24分だとあるが、あれは静止状態での話。激しく戦闘しながら、そうそう止められるものではない。まして、U.B.セキュリティ・サーヴィス社の戦闘技術は独特で、呼吸と動きを連動させるように訓練されている。息を止めた状態では、苦しいよりもまず、動きにくいのだ。
「今度の諜報員は特殊部隊クラスと聞いたが…この程度か!?」
プワゾンが、らんらんと目を輝かせて飛び込んでくる。黒島は跳びすさって後退した。
「そらそら!逃げ回ってばかりか!?」
さらにプワゾンが踏み込んでくる。
「やかましい」
跳びすさった黒島の手元がバンと閃光を発し、プワゾンが腹を押さえて倒れ込んだ。床に血溜まりが広がる。
「プワゾン…ッ!」
オピウムが駆け寄って、プワゾンを抱き起こす。口を開けさせ、呼気を吹き込んだところで、爆発音と共にオピウムの頭が消し飛んだ。
「ひ…卑怯だ!!卑怯だぞ!!銃を使うなんて…!」
オピウムの呼気の効果だろう、腹を撃たれて瀕死のはずのプワゾンが元気に喚き散らす。
「毒ガス撒き散らされたら接近戦は無理だからな。卑怯はお互い様だ」
黒島が弾倉を取り替えた。
「俺が毒を吐くのは生まれつきだ!どうしようもないんだ!それを卑怯なんて言うのは差別か!?差別だな!?やっぱり俺たちにはホームしか居場所はないのか!」
「じゃあ、俺の身勝手で構わない。毒が出るのは生まれつきでも、それを使って俺を殺しに来ているのはお前の意志だ。一方的に正義を語るな、寒気がする」
黒島の瞳が冷ややかに光り、銃声と共にプワゾンの頭も炸裂した。
「へえ…人質クン、綺麗な顔して非情だねぇ」
男のハイトーン・ボイスに、黒島が銃を構えて振り向く。蒼い月影から湧き出るように、黒マントのレイヴンが立っていた。
「お捜しのお姫様は、こちらかな…?」
レイヴンがマントを広げると、明るい栗色が零れ落ちる。春陽の瞳が揺蕩うように黒島を捉えた。
――春陽!!
声にならない叫びが、黒島の喉元でせき止められた。
〈つづく〉
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