第27話 火蓋①
――ばつん。
何か強烈な光を当てられて、黒島は意識を引き戻された。開かれた色違いの双眸が、眩しげに歪められる。
「あは。やっぱり芭蕉だわ。この顔、絶対忘れない」
逆光の中に、細身の女が立っていた。
「光を落として」
――誰だ…。
ちかちかと瞬く視界を懸命に落ち着かせる。艶やかな黒髪。くっきりとした鼻梁。薄い唇。長い睫毛の下で翳る瞳は…
「…莉子…?」
ぼんやりと揺蕩う眼差しを愛でるように、女が黒島の顎をつまんだ。
「…今は、“茉莉花”っていうの」
だんだん、前後の記憶がはっきりしてきた。西貢のホテル前で虎人間達とやり合って、それから…。
「お前、これまで何をして生きてきたの?綺麗な顔にこんな傷をつけて。もったいないわ」
茉莉花の指が、頬の傷をなぞる。払いのけようとして、後ろ手に拘束されていることに気がついた。
「触るな!!お前が触っていいものじゃない」
低く唸る。前後の脈絡からすると、ここが天国だの地獄だののわけはない。目の前に現れた姉は、H.B.Rの関係者なのだろう。
「やぁね、男のコは。ちょっと大きくなると、これだもの」
茉莉花が、ふんと鼻で笑った。
「なぜ、お前がこんなところにいる?H.B.R社の裏アジトに」
「ここが私のお城だもの。今では香港支局長よ」
甘く仄昏い、香水の香り。この女こそが、T部隊の作戦対象というわけだ。
「劉。始めてちょうだい」
ダークスーツを身に着けた初老の執事が、黒島の手枷を外す。手を振り払おうとすると、脇にいた黒服の男が、サブマシンガンを突きつけた。
「抵抗なさいませんよう。武器を隠し持っていないか確認できるようにしただけですので」
「は…。武器はとっくに取り上げてあるだろうが」
銃も、愛刀も、すでにどこかへ奪われている。
「他に隠し持っていないか、確認します」
執事が冷ややかな一瞥をくれた。黒島が、チッと舌打ちをしてシャツを滑り落とす。横で見ていた茉莉花が、ひゅうと口笛を吹くように唇をすぼめた。小柄で華奢な印象は昔と変わらないが、服を脱ぐと無駄なく鍛え抜かれた身体だということが見て取れる。しなやかな筋肉を滑らかな肌が包む裸体は、猫科の獣のようだ。執事がシャツもボトムもひっくり返し、調べ終わると黒島に向き直った。
「壁に手を付いて、脚を開いてください。下着内も検査します」
ぎり、と黒島が忌々しげに歯を食い絞めて、壁に手を付き、尻を突き出す。
「――莉子、本当にこんな」
その瞬間、黒島の尻っぺたを乗馬鞭が打ち据える。
「抵抗なさいませんよう、申し上げましたが」
2色の双眸が屈辱への怒りに燃えて執事を睨み付けた。
「まだ反抗的でいらっしゃる」
「かはッ!」
執事が黒島の背中に鞭を打ち付けた。その衝撃に胃が痙攣し、えづく。嘔吐しかけたのを、黒島は無理やり呑み込んだ。
「そうそう、吐けばご自分の口で片付けていただきますからね…」
執事は慇懃な口ぶりのまま、黒島の背中に鞭を振るい続ける。象牙色の滑らかな肌が、見る見るうちに赤く線状に腫れ上がっていく。
「ぐ…」
黒島の呻き声を聞いて、執事の顔は微かに歪んだ愉悦を浮かべた。美しく、気位の高い男は好きだ。優美な眉が顰められ、薄い唇を噛んで堪える顔は、息を詰めて強張るせいで仄紅く染まり、淫らな連想を誘った。
「いけませんね…実に、けしからん」
執事の鞭が大きく振るわれ、風音を立てる。
「う、ぁッ!」
排尿筋が収縮し、下着に尿が滲んだ。噛みしめる唇には血が滲み、黒島は、わなわなと肩を震わせる。
「おもらしですか。躾が悪いですね。トイレット・トレーニングからやり直しますか?」
執事の鞭先が、黒島の尻をなぞった。ひくりと震える背中を見て、執事は笑みを深めた。象牙色の肌に走る赤いミミズ腫れを満足げに撫でながら、再度、黒島の尻を叩く。黒島はギュッと目を瞑って耐えた。
「茉莉花様。確認致しました。身体からは、何も発見できません」
「そう。なら、芭蕉を部屋へ案内して」
茉莉花が椅子から立ち上がる。
「おい、服を返せ」
せめて、屈辱的な鞭痕を隠したい。
「だめよ。服を着たら暴れたり外に出たりしてしまうでしょ。何か隠し持たれても困るし。せっかく美しいのだから、そのまま下着姿でいなさいな。邸内を散歩したって構わないわよ。…そうね、ビジューは、お似合いだからそのまま着けてていいわ」
翡翠を模したイヤーフック型の通信機。
――気づいていないのか、それとも本部隊と連絡させて傍受するつもりか。
「部屋で休んでらっしゃい」
茉莉花が扉を開けて出ていった。黒島は、周囲を見回した。殺風景なコンクリート壁の上部に小さな窓が開いただけの倉庫のような部屋。この部屋に座り込む理由もないので、執事について部屋を出る。ここよりマシな部屋ならばよいが。
「こちらへ」
執事が一礼してドアを開けたのは、邸内と同様、エレガントな調度の寝室だった。つかつかと中へ入って、クローゼットを開く。せめてガウンぐらいは、と思ったが、中には替えのシーツやタオルが置いてあるだけだった。半裸で邸内を歩かされる間、通りすぎる警備員やスタッフにじろじろと見られるのは結構な苦痛だったのだが。
「申し訳ございませんが、衣類の用意は致しておりません」
執事の言葉に、黒島が盛大な溜息を吐く。恥をかかせて萎縮させるのが虜囚への戒めというわけか。
「では、失礼いたします」
慇懃な態度で一礼すると、執事はドアを閉めた。
執事の足音が遠ざかるのを待って、黒島は、身体にシーツを巻き付けた。大人しく休む気などさらさらない。散歩していいというなら、してやろうじゃないか。黒島は、そっとドアを開け、アジト内の探索に乗り出した。
家屋内の見取り図は、戦闘部門にいた頃の癖で、頭に叩き込んである。見るべきは、構造というよりも警備装置や人員配置。客用寝室を出て、廊下をまっすぐいくと、エントランス・ホールに出る。監視カメラは、当然作動中だ。警備員は出てこない。
黒島はぶらぶらと歩く風を装って、小さな階段室に入った。船着き場からホールへは通常エレベーターを使っているようだが、突入するなら階段を使った方がいいだろう。建物の高さはそれほどないから、兵員が消耗することもない。非常階段を下ってドアを開けると、海の匂いがした。海蝕洞とつなげてあるのだ。海蝕洞の奥を覗き込んで、黒島は息を呑んだ。表の機関銃だけではなかった。コンクリートで成形された壁一面に大量の砲眼が開いている。壁の中に埋め込まれるように銃口が光っていた。表はランチャーで吹き飛ばせても、コンクリート壁に守られた奥の機関銃までは破壊できないだろう。それに、ボートから兵士が降りたところを狙って、時間差攻撃を受ける可能性もある。
――やはり、中の管理室からシステムを止めた方がいい。
幸いなことに、H.B.Rの方から黒島をアジト内に招き入れてくれた。インナー・オペレーションには、うってつけだ。黒島は、そっと非常階段に戻った。
エントランスに上がったところで、黒服の男と鉢合わせた。
「…おい。何をフラフラ歩き回っている?」
男は、銃口を黒島に向けている。軽く両手を挙げて降参ポーズを取った。どのみち、シーツを巻き付けたままでは動きづらくて戦えない。
「散歩だ。お前達のボスが歩き回ってもいいと言っていたからな」
「ちっ、言葉の綾に決まってるだろ。部屋で大人しくしてろ」
背中に銃口をつけられて部屋に戻る。結局、ドア前に見張りを1人、配置されてしまった。
右耳に手を遣る。耳後ろには、小指の長さほどのシュティレット・ナイフ。鞘にイヤー・フック型のアームを備えた特注品で、戦闘時はいつも耳に掛けて、髪で隠している。さしあたっての武器は、これだけ。あとは、タイミングが来るまで大人しく休んでおこう、と決めた。
〈つづく〉
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