第15話 空の蒼②
色鮮やかな大粒のビーズが転がる。薄汚れたカーペットの上で、2人の子供が座り込んで、熱心にビーズを拾っていた。揃いの艶やかなロングヘアが肩から滑り落ちる。
「そっちよ。紫色がいいわ、芭蕉」
気の強そうな少女が、指差す。くっきりと人形のように整った顔立ち。芭蕉と呼ばれた少年は、細い指を伸ばして紫のビーズをつまんだ。ビーズを受け取った少女は、それをゴム紐に通す。端を結び留めて、できあがり。少女は、少年の華奢な手首にビーズの輪っかを通した。
「見て、お揃いよ」
埃に煤けた鏡に、映してみせる。少女と少年は瓜二つ。窓から射し込む陽光が舞い上がる埃を照らし、一条の光の筋となって美しい子供達を照らし出していた。
「莉子…」
黒島の唇が微かに動く。ふ…と長い睫毛が震え、2色の双眸が開いた。――あのビーズのブレスレットは…?何処へやっただろう。
寝た気がしない。枕元の時計を確かめると、まだ夜中の2時だ。
「くそ…」
薬はもう限界量まで使っている。本当は作戦中に薬で無理やり眠るのも不安なのだが、このところのストレスは睡眠にも影響していた。目を閉じて、呼吸を深くする。あえて頭を麻痺させるように、意識をぼかして。
昏い天井。うねるような祈りの声。ああ、またあの夢だ。神様の名の下に口を裂かれたあの日。幸せな記憶だけ数えて、綺麗なビーズだけ繋ぎたいのに、血に塗れたその記憶は何度でも黒島の目前に転がってくる。
薄汚れた山荘の、奇妙な共同生活。たった1人、教祖だけが大人の男で、あとは女の信者と子供達、合わせて30名あまりが同居していた。大人の女達は修行とやらに忙しくて、下働きのように山荘の生活を支えていたのは男の子達だった。水を汲み、火を熾し、飯を炊く。子供の未熟な手では洗濯も大きな山荘の掃除も追いつかず、ときどき、あまりの汚さにヒステリーを起こす女達に殴られて、言いつけられた分だけ掃除の真似のようなことをしていた。
当然、衛生状態は悪く、赤ん坊や幼い子供から弱っていく。黒島が覚えているだけでも数名が死んだ。
だいたい、始めは下痢をし、血も含んだ便が止まらなくなる。そのうち、衰弱して水も飲めなくなって、カサカサに小さく萎んで死んでいくのだ。生まれてすぐに死んだ嬰児なら、もっといる。
教祖は次々と女達に手を出し、女達は孕んでは産み捨てるようなことを繰り返していた。黒島と双子の姉は、少し大きく丈夫になってから母に手を引かれてこの山荘に連れてこられたので、まだ生き延びられたのだろう。
母も姉もとびきり美しく、山荘では特に優遇されていた。姉と瓜二つの黒島も髪を伸ばし、教祖の晩酌時には、ひらひらのドレスを着せられて、姉と対の人形のように並べられていた。男の子の中では破格の扱いで、顔だけは殴られることもなかったし、普段の仕事も、決まっている役割は神狼様のお世話だけ。姉が遊び相手を所望すれば、辛い家事労働から解放されて遊ぶことが出来る。母に絵本も読んでもらえた。聡明な姉弟は、早くから文字を覚え、2人だけで絵本の世界に夢を遊ばせた。
虚しく輝く教条と理不尽な現実。埃まみれの山荘で、姉の笑顔と2人きりの時間だけが色鮮やかに輝いていた。
ふと、目を開ける。微睡む程度は出来ただろうか。なんだかもう、寝転がっているのも馬鹿馬鹿しくなって、黒島は身を起こした。一人寝が続くと、こうなるのだ。うつらうつらと悪夢と現実を往き来して朝が来る。
――トイレに行って、少し顔でも洗ってみよう。そろりと部屋を出る。夜間シフトや水商売勤めの住人が出入りするため、夜中になっても共用部分は常に明るく電灯がついていた。
キッチンを通ると、小鍋でインスタント麺を煮込む女が胡乱げな目を向けてくる。入居してから、まだ顔を合わせていない住人も多い。にこりと笑顔を作って敵意のないことを示したが、女は何かブツブツ呟きながら鍋に目を戻した。トイレでは、隣の部屋のご主人とすれ違った。スーパーで魚介類の仕入れを担当しているので、毎朝この時間に出勤して競りに行くという。なんだか、ここでは夜中眠れないことなんか、どうでもいいような気がしてくる。住人の生活時間はばらばらだ。まっとうな生活時間なんて決まっていない。
洗面所で顔を洗う。顔を上げると、鏡に映る頬の傷。そっと触れてみる。忌まわしくて、以前は常にマスクを着用して隠していた。
訓練校時代、何人もの男と寝て「ビッチ」などと呼ばれていても、マスクの下を晒すことはなかった。大抵の人間は、見ない方がいいと言われれば見ないものだ。
そのマスクを剥ぎ取ったのは、宇津木だった。懲罰房で一緒になったのをきっかけに親しくなり、一緒に寝るようになった。面白がりの悪戯小僧は、黒島の鉄壁の防御にも関わらず――というかガードされればされるほど、その下の素顔を見たがった。
「阿呆が」
ふ、と黒島が微笑する。今日のアフタヌーン・ティーだって、頬の傷を見咎められないようなカジュアルな店でいいと言ったのに。ヤツは男の勲章だ、気にするな、などと呑気なことを言って、名門ホテルに黒島を掠ったのである。
「強引なのは、変わらんな…」
もっとも、そうでなければ黒島は頑として素顔を晒さなかったであろう。鎧の下の柔い心に触れられる悦びも知らぬまま――…。
消灯後の寮の一室。
ほんのりと灯る常夜灯の明かりを受けて、ベッドに流水のように乱れ、流れる艶やかな黒髪。銀髪の少年がその髪をそっと掬ってキスをした。
「お前、最高だな!さすが、“ビッチ”」
いつもの軽口。だが、声の底には素直な関心が宿っていた。
「うるさい、下手くそ」
返す黒島もいつもの調子だ。だが、ふと振り返った黒島の顔を見て、宇津木は心臓を掴まれた気がした。意地っ張りな口は失礼この上ないが、マスクの上にのぞく瞳は潤み、目尻を仄紅く染めている。優美な形のよい眉が切なげに寄せられ、吐く息の熱が、どこか泣き出しそうに震えている。
――もっと。もっと…。
もっと、どうしたいのだろう。もっと近くに。もっと抱き寄せて。それではまだ足りない気がした。宇津木がそっと黒島の顔のマスクに指を伸ばす。もっと、知りたい。全部、欲しい。
「顔、見せろよ…」
途端に、激しく手を打ち払われた。とろりと潤んでいた黒島の瞳が、冷ややかに光る。
「触るな…取らないって言っただろう、馬鹿が」
いつもご機嫌な宇津木も、さすがにムッとした。
「お前なぁ…」
宇津木が小さく舌打ちし、苦笑混じりに呟く。一瞬沈黙が流れて、でもあえてふざけた調子で切り出した。
「出し惜しみすんなよ。こんな時くらい、マスク取れって」
「なんでだ。嫌だと言っているだろうが」
宇津木が軽く溜息をつき、気楽な調子を装ったまま、すっと身を寄せる。
「じゃあ…チューしてやる。特別サービスな」
「要らん!!」
「意地張るなって」
「要らんと言っている!!」
バタバタと押し問答が続く。
だが宇津木の目は真剣だった。ぽこすこと殴り、払いのける黒島の手首を捉え、ぐっと押し倒す。
「よっしゃ、俺の勝ち。格闘技は俺の方が成績イイからな?」
宇津木の瞳がニヤリと黒島の瞳をのぞき込む。その目はふざけているようで、でもちゃんと見ていた。黒島の震え、戸惑い。
「フン…。で、どうする気だ。片手でも離せば反撃するぞ」
格闘技の授業ならこれで判定勝ちだが、今の目的は黒島のマスク。双方とも両手が塞がった状態では膠着するばかり…のはず。
「んー…じゃあ、舌技で勝負するか。俺様の十八番」
ふざけた調子は相変わらず。けれど――
そのまま、舌でそっと、黒島のマスクのゴム紐に触れる。優しく、いたわるように。
びくりと黒島が震える。怖かった。頬の傷跡は、薄汚い山荘で殴られながら育ち、口を裂かれて虫に喰われるままにされていた「人間以下」の存在であることの証明のような気がしていた。これを晒せば、今自分に向けられている愛情も友情も期待も、何もかもが手指の間から零れていくような気がして。足下が砂の器のように崩れていく恐怖に、ただ震えるしかなかった。
「“ビッチ”が処女みたいに震えてんなよな。可愛すぎンだろ♪」
宇津木は、いつもの軽口で。でもそれは、怖がらせないための優しさだ。マスクが取られる。宇津木の次の顔は見たくなかった。黒島がギュッと目を閉じる。
「ふは。何だ、お前。かっけェじゃん」
…は?
黒島が、おそるおそる目を開けると、宇津木はニカッと笑った。いつも通り悪戯っぽい、まっすぐな笑顔で。
「…醜い、だろう?」
ふいと、長い睫毛が伏せられた。此奴はいったいどこを見ているのか。
「ばァか。“男の勲章”だろ」
傷跡にチュッと熱い唇を当てられて、今度はこそばゆさに震えた。宇津木は、傷跡を辿って丹念にキスを落としていく。
――ああ、こんな奴もいるんだ…
全く、どこまでノーテンキな奴なんだ。こわばっていた身体の力が抜けていく。
「…っ…」
柔らかく解けた身体は、ふ、と低く吐息を漏らした。珍しい黒島の反応に、宇津木が一瞬、目を丸くした。
「ンだよ…可愛い声、出るんじゃん…」
嬉しそうに、唇を重ねる。ついばむようなキスは、次第に深くなる。その唇をひたすらに受け入れながら、黒島は気を許すという、初めての快楽に溺れていった。
蒼い想い出に、思わずほろ苦い笑みが漏れる。訓練校にいた2年間と、W部隊に実戦配備されてから1年ほどはよく一緒に寝ていたが、いつの間にか忙しくなるにつれて、それもなくなった。そのうち、黒島は春陽と出会い、その明るさに心臓を射抜かれるように恋をして「俺の女神」に忠誠を誓い、宇津木も年下の愛らしい配偶者を得た。…あっという間の10年だ。
「気付いてもいないだろうな、お前は」
埃っぽい薄汚れた山荘に心を縛りつけられたままだった黒島を、この街のネオンのように、ど派手に燦めく色鮮やかな世界に引きずり出した。恋だの愛だのと呼ぶのは少し違うかもしれない。けれど、お前と歩いてこられて良かったと思う。
〈つづく〉
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