第35話 姉妹
日が落ちると、離宮の窓には燭台の明かりがちらちらと揺れていた。
召し抱えの侍女がリヴィアの身支度を整え、上質な緋色のドレスの裾を整える。まるで“飾り物”のような扱いが、王都に戻ってきたのだという現実をじわじわと突きつけてくる。
(久しぶりの、晩餐会……)
リヴィアは深く息を吸った。緊張というより、警戒。
ただ食事を共にするだけのはずなのに、胸の内は穏やかではいられない。
案内の女官に続いて、長く磨き上げられた回廊を歩く。天井には壮麗なシャンデリア、壁には歴代王の肖像画――かつて見慣れた光景が、今はどこか異国のように感じられる。
扉が開かれる。
広間の奥、長い晩餐卓の主座に、アレクシスがいた。隣にはセレスティアの姿も見える。
深い色味の上着にゆるく巻かれたストールを身にまとったその姿は、国王としてはかなり軽装だったが、その堂々とした立ち居振る舞いからは揺るぎない王者の風格が滲み出ていた。
そこにいるのは、かつてリヴィアが淡く想いを寄せたシリウスとは似ても似つかない、まったく別人だった。
「……久しいな、リヴィア王女」
アレクシスは静かな声で言った。
「お久しぶりです。本日はお招きいただき、ありがとうございます、国王陛下」
リヴィアは深く一礼し、臣下の礼を尽くす。そんな彼女を見て、アレクシスはくつくつと笑みをこぼした。
「そう、そんなに畏まるな。なぁ、王妃よ」
その言葉に呼ばれたセレスティアが穏やかな微笑みを浮かべながら声をかける。
「えぇ、そうね。リヴィア、こちらにおいで。顔を見せてちょうだい」
促されて、リヴィアは少し緊張しながらも、国王夫妻のもとへゆっくりと近づいた。
「王妃陛下、ご機嫌麗しゅうございます」
リヴィアが丁寧に挨拶をすると、セレスティアは立ち上がり、その手を取り強く握りしめた。
「ああ、リヴィア。会いたかったわ。ずっと心配していたのよ。少し痩せたみたいね。フェルシェルの水が合わなかったのかしら? 今度ヴァルトに会ったら、とっちめてやらないとね」
嵐のように言葉をまくし立てるセレスティアは、リヴィアが想像していた“完璧な姉”とはまるで違っていた。
「怖い思いをしたのではなくて? ずっと連絡できなくてごめんなさいね。陛下ったら、わたくしに手紙をなかなか出させてくれないのよ。たった二人の姉妹なのに……酷いと思わない?」
完璧な王女、女神のような美貌。そう称えられた異母姉セレスティア。
だが、リヴィアの目の前で淀みなく話し続ける彼女は、ずっと羨望と嫉妬の対象だったはずなのに、その印象は音を立てて崩れ落ちていった。
(何だろう、この、なんとも言えない残念な生き物は――)
そう心の中で呟かずにはいられなかった。
「その辺でやめておけ。リヴィアが困っているだろう?」
アレクシスの声が割って入り、静かな場に緊張が走る。
「まぁ、アレクシスったら、ほんとうにひどいわね。わたくしとリヴィアの仲を、どこまでも邪魔するおつもり? あの時だって、わたくしがフェルシェルへ行こうとしたのを、必死に止めたじゃない。やっと、やっとリヴィアに会えたのよ? いい加減、邪魔するのはやめてちょうだい」
嘆くように言いながらも、どこか楽しげなセレスティアの声。対するアレクシスは、呆れたように薄く笑った。その様子は、まるでいつものことといった風だ。
「……あの、フェルシェルへ来ようと……?」
リヴィアが尋ねると、セレスティアはすぐに頷いた。
「ええ。リヴィアが賊に襲われたって聞いたとき、いてもたってもいられなくて……。そのまま馬に飛び乗って向かおうとしたの。でも、この人が全力で止めるのよ」
「身一つで、夜に馬に乗って行こうとするからだ。せめて護衛と装備くらい整えてからにしてくれ」
「そう言って、三時間も説教するのよ? ひどいと思わない?」
口を尖らせるセレスティアと、それを受け流すアレクシス。夫婦のやり取りはもはや漫才のようで、リヴィアは思わず脱力してしまった。
(……茶番もいいところだわ)
小さくため息をついたそのとき、セレスティアがパッと笑顔になって手を引いた。
「リヴィア、わたくしの隣に座って。大丈夫、今日は家族だけの晩餐会よ。遠慮なんて要らないの」
「えっと……わかりました」
セレスティアの勢いに押されるようにして、リヴィアはアレクシスの反対側――セレスティアの隣に腰を下ろした。
「はい、リヴィア。あーん」
差し出されたフォークに、リヴィアは目を丸くする。
「王妃陛下、おやめください。自分で食べられますから」
「お姉様と呼んでほしいわ。ほら、こっちのお料理もとっても美味しいのよ?」
まるで子どもに接するような優しい声。だが、その距離感の近さにリヴィアは戸惑いながら、ぎこちなく笑った。
しばらくそんな和やかなやり取りが続いていた頃、部屋の扉が軽く叩かれた。女官が静かに入室し、一礼する。
「ルシアン殿下がお目覚めになりました」
「まあ、ありがとう。連れて来てちょうだい」
間もなくして連れてこられた王子は、目覚めたばかりだからか、柔らかなブロンドの髪を少し乱しながら、ぼんやりとセレスティアの顔を見上げていた。
「この子がわたくしの息子、ルシアンよ。ほら、ルシアン。こちらは叔母様よ」
優しく語りかけながら、セレスティアはふわりとリヴィアの前にルシアンを差し出した。
「抱いてあげて、リヴィア。平気よ、大丈夫」
突然の申し出に戸惑いながらも、リヴィアは恐る恐る手を伸ばし、ルシアンを受け取った。
小さな体は驚くほど軽く、ふわりと胸に収まった瞬間――。
彼女の鼻先をくすぐったのは、赤子特有の、ほんのり甘いミルクの香りだった。
「……あったかい」
思わず漏れたその言葉に、自分でも驚く。
その体温は、生まれたての命が確かにここにあることを教えてくれていた。
ルシアンは泣くこともせず、ぱちぱちと大きな瞳を瞬かせてリヴィアを見つめている。
どこか――懐かしい目だった。姉に似た、やさしく澄んだ色をしていた。
リヴィアは知らず、微笑んでいた。
腕の中でぬくもる小さな命が、ただそこに在るだけで、胸の奥がじんわりと満たされていく。
「……可愛いわ」
ふと、隣からセレスティアの声が聞こえた。
「ルシアンの瞳の色、わたくしたちによく似ていると思わない?」
“わたくしたち”という言葉が自然に口からこぼれたことに、リヴィアは少しだけどきりとした。
容姿はあまり似ていない姉妹だが――瞳だけは、昔から驚くほどよく似ていた。
「……ええ。でも、私の目は母譲りだと、ずっと……」
「そう。あなたの母――ミラ様は、わたくしの母と同じ瞳をしていたのよ」
セレスティアはゆっくりと微笑みながら、ルシアンを覗き込む。
「だからね、わたくしは一度もあなたを“異母の妹”だと思ったことはないの。血筋とか、立場とか、そんなものより――この瞳があるでしょう?」
アメジストのように透き通る紫。
それは、彼女たちが“姉妹”であることを、誰よりも強く示していた。
「この瞳は、わたくしとあなたが確かに“姉妹”である証。わたくしはそう思って生きてきたわ」
リヴィアは、声もなくその言葉を胸に受け止めた。
――初めて、聞いた。
自分の母がどんな人だったのか。
姉が、ずっとそんな風に思ってくれていたということ。
心の奥に、ふわりと灯るような、あたたかい感情が広がっていく。
(わたし……ずっと、“血のつながり”に引け目を感じていたのに……)
姉の言葉は、幼い頃の勘違いすら優しく包み込んでくれた。
王妃エレーナの肖像画を見て、「この人がお母様だったらいいのに」と願った日。
鏡の中の自分の瞳を見て、同じ色に心細く安堵した日。
それらすべてに、答えをくれたようだった。
晩餐会が終わると、セレスティアはまるで子ども時代に戻ったように笑って、リヴィアの手を取った。
「まだ寝ないで。ちょっとだけ、わたくしと遊びましょう?」
王妃であり、母でありながら、少女のような笑顔。
気づけば二人は人形を並べ、役を演じ合っていた。
やがて、セレスティアがリヴィアを自らの膝に寝かせた。
「リヴィア。わたくしが本を読んであげるわね」
革装丁の絵本を手に取り、セレスティアはそっと開く。
恥ずかしくもあった。
でも、姉がこんなにも嬉しそうに笑っている姿を見ていると、何も言えなくなった。
――家族って、こんなにあたたかいものだったの?
知らなかった。知ることさえ許されないと思っていた。
けれど今は、この時間が永遠に続いてほしいとさえ願っていた。
*
リヴィアは寝台の上で膝を抱え、そっと腕輪に触れていた。
アメジストの宝石があしらわれたその細やかな細工の腕輪は、姉セレスティアから贈られたものだ。
この国では古くから、姉妹のどちらかが結婚する際、もう一方に腕輪を贈る風習がある。
結婚が「家を出ること」や「遠く離れること」を意味した時代の名残で、時に姉妹にとっては今生の別れになることもあった。
だからこそ、別れの前に絆の証を手渡す――それが「姉妹の腕輪」だった。
セレスティアは別れ際に静かにリヴィアの腕にそれをはめた。
優しく微笑みながら、少し涙ぐんだ瞳で言ったのだ。
――「わたくしはいつだって、あなたの味方よ。たとえ離れていても、それだけは忘れないで」
リヴィアは指先でアメジストの冷たい輪郭をなぞりながら、そっと目を伏せた。
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