第33話 不可触の女神

 ヴァルトはリヴィアから部屋を奪っただけでは飽き足らず、彼女がこれまで手伝ってきた仕事までも取り上げた。


「補佐官の真似事は、もうおやめください」


 冷たくも穏やかな口調で、そう言い渡されたときのことを、リヴィアは忘れられない。


 代わりに彼が提案してきたのは、孤児院への慰問や、各地の貴族への挨拶状の作成といった“王女らしい”務めだった。

 それも、一人では動けない。外出時には必ずマルセルかベルトランを護衛として付き従わせる。


 今までとはまるで違う、守られた生活。だが、それは同時に、自由を失ったということでもあった。


 心の奥に、静かに息が詰まっていくような感覚が広がる。


 *


「リヴィア王女殿下、お越しくださりありがとうございます」


 マザー・セラフィナは、変わらぬ穏やかな笑みでリヴィアを迎え入れた。その笑顔は、今やリヴィアにとって、数少ない安らぎだった。


 リヴィアが王女に復位したという知らせはすでに領民の間にも広まっており、これまでの関係もあって、おおむね好意的に受け入れられているようだった。


 この日、リヴィアは孤児院で子どもたちに絵本を読み聞かせ、刺繍を教えて過ごした。柔らかな笑い声に囲まれた時間の中で、ようやく心がほぐれていくのを感じる。


 やがて子どもたちがお昼寝の時間に入り、リヴィアはそっとマザー・セラフィナの隣に腰掛けた。そして、胸の内に渦巻く思いを打ち明けた。


「……私、どうしてこんなに苦しいのでしょう。あの部屋も、仕事も、全部……もう必要とされていないみたいで」


 セラフィナは静かに頷き、リヴィアの手を包み込むように握った。


「殿下のお気持ち、よくわかりますよ。ですが――領主様のお気持ちも、理解して差し上げなくてはなりません」


「……領主様の?」


 リヴィアが問い返すと、セラフィナは少し考えるように目を伏せ、それから言葉を紡いだ。


「たとえばの話です。もしも――セレスティア王妃様がお産みになった王子殿下を、リヴィア殿下が一時的に預かることになったとしたら。殿下は、その王子をこの子たちと“まったく同じように”扱えますか?」


「それは……」


 言葉に詰まる。いくら孤児たちに愛情を持っていても、それは無理だ。王子はこの国の未来であり、守るべき希望だ。同じように扱うのは――不可能だ。


「領主様も、きっと同じなのですよ。殿下のことを、心から“王女”として敬っておられる。その敬意があるからこそ、これまでのようには接することができない。拒絶に見えるのは……その誠実さゆえではありませんか?」


 まるで頭を木槌で殴られたかのような衝撃だった。そこまで考えが至っていなかった自分を恥じ、同時に情けなさも覚えた。


「……マザー・セラフィナ、ありがとうございます。おかげで、目が覚めました」


 リヴィアは、王女だ。

 それは、どれだけ否定しようと逃げようと、変えようのない事実。ならば受け入れなければならない――かつてのように誇りとしてではなく、責任として。


 (また逃げるところでした……)


 王女としての立場が、自分を孤独にしているのではない。周囲の態度が変わったのではない。ただ、リヴィアの“立場”が変わったのだ。それを、受け入れるだけの覚悟が自分にはまだ足りていなかったのだと、ようやく理解した。


 寂しさが消えたわけではない。けれど、それでも逃げないと決めた。


 決意を胸に、リヴィアはマザー・セラフィナに感謝を告げ、孤児院を後にする。


 領主邸に戻ったリヴィアは、用意された正装――ヴァルトが手配した王女のドレスに袖を通し、自ら姿勢を正して広間に姿を現した。


「……皆さま」


 部屋の空気がふっと静まり、視線が彼女に集まる。


「わたくしが間違っておりました。王女であることから逃げ、皆さまを困らせるような我儘を申し上げたこと、心よりお詫びいたします」


 その声は澄んで、よどみがなかった。堂々と胸を張り、背筋をまっすぐに伸ばしたその姿に、かつての虚飾にすがる王女の面影はなかった。


 ――これは、真に“誇り”を捨て、“責任”を選んだ王女の姿。


 そして、誰よりもそれを理解していたのは、執務机のそばにいたヴァルトだった。


 静かに歩み寄った彼は、何も言わず、右膝を折り、深く頭を垂れる。


「……王女殿下。リヴィア・ミレイユ・エルセリオ様」


 その姿は、かつて彼がどんな高官や貴族にも見せなかった、絶対の敬意を込めた臣下の礼だった。


 リヴィアの喉の奥がわずかに熱を帯びる。


 けれど――もう、涙は見せない。今の自分には、それよりもなすべきことがある。


「顔をお上げなさい、フェルシェル候」


 自分の口から、そんな言葉が出るとは思わなかった。


 けれど、ヴァルトはその言葉に従い、ゆっくりと顔を上げた。まっすぐに見つめ返すその瞳には、もはや迷いも戸惑いもなかった。


 ただ、誇らしげに――己の仕えるべき主君を見つめる騎士の目をしていた。



 *


 ――けれど、予備のインクは見当たらなかった。


 「たしか……」


 リヴィアは思い出す。先日、インクを使い終わったヴァルトが、引き出しの中にケースごと移していたのだ。


 彼の机に手を伸ばし、そっと引き出しを開ける。中には確かにインクケースがあった。手を伸ばしかけた瞬間、奥に見覚えのある銀の鎖が目に入った。


 「……これって」


 間違いない。ヴァルトが肌身離さず身につけていたあのペンダントだ。


 そっと引き出すと、繊細な装飾が施された小ぶりなペンダントが現れた。それは武骨な彼に似つかわしくない、どこか女性的な雰囲気を纏っていた。


 「……開く、のかな」


 留め金を押せば開く仕組みのようだった。だが、リヴィアの指先は寸前で止まる。これは、まるでパンドラの箱――一度開けば、もう元には戻せない予感がする。


 「やめよう……見なかったことに」


 リヴィアはそっとペンダントを元の位置に戻そうとした――そのとき、留め金が引っかかり、カチリと音を立てて自然とペンダントが開いてしまった。


 中には一枚の小さな肖像画。


 描かれていたのは、誰あろう――セレスティア王妃だった。


 リヴィアは一瞬で理解した。


 ――あのときの言葉。


「その汚らわしい口を閉じろ。お前ごときが、あのお方の御名を軽々しく口にするなど……吐き気がする!」


 あれは怒りにまかせた言葉だった。だが今ならわかる。あの時、ヴァルトの瞳の奥には、抑えきれない感情――恋情が潜んでいたのだ。


 ヴァルトの想い人は、セレスティア王妃。


 美しく、聡明で、慈愛に満ちた誰もが讃える女神のような存在。


 最初から、勝てるはずなんてなかった。

 比べることすら、許されるものじゃなかった。


 リヴィアは気づけば、手紙を持ったまま呆然と立ち尽くしていた。姉から届いたばかりの優しい手紙。ついさっきまで心が温まっていたはずのそれが、今はひどく色褪せて見える。


 どうやって自分の部屋に戻ったのか――覚えていなかった。


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