第31話 無主の姫
――あれ以来、ヴァルトが再びペンダントに口づけする姿を目にすることはなかった。
だが、ちらりと襟元から覗く銀の鎖は、あの夜見たペンダントのものに違いない。
よくよく観察してみると、ヴァルトは日中も夜も、それを肌身離さず身につけているようだった。
――そこまで大切にしているのなら、きっと特別な意味があるのだろう。
やはり家族から贈られたものだろうか。
ヴァルトはかつて戦場に身を置いていた騎士だ。
戦場へ赴く息子の無事を願って、母や姉妹が贈ったお守り――そう考えれば、いかにも自然な話に思えた。
リヴィアにじっと見つめられることにも、どうやらヴァルトは慣れてきたらしい。最近では何も言わなくなった。
「リヴィア、この書類の確認を頼む」
「分かりました」
リヴィアの方も、以前のように戸惑うことなく返事を返せるようになっていた。
目を逸らさずに済む。それだけで、少し自分が強くなったような気がした。
「リヴィア。今度、美味しい料理を出す屋台ができるらしいんだ。一緒に行かない?」
そんな調子で、マルセルは今日も変わらず軽い口調で誘ってくる。
「どちらの場所ですか? 皆で行けると楽しそうですね」
社交辞令のように微笑みながら返しつつ、リヴィアはそっとヴァルトの方を窺った。
もちろん、彼は何も言わず、書類の束に目を通しているだけだった。
「皆じゃなくて、二人で行きたいんだよ。俺と君で」
マルセルは笑っていたが、その目はどこか真剣だった。
いつもなら冗談めかして流すだけの彼が、今日は妙にしつこい。
「……仕事中だ、マルセル」
ヴァルトの低く抑えた声が静かに割り込んだ。
その口調には穏やかさが残っていたが、わずかに冷えた温度を孕んでいる。
マルセルは肩をすくめて笑う。
「失礼、領主様。でも、食事くらいなら許されると思ったんだけどな」
リヴィアは何も言えずに、ただ手元の書類に視線を落とすしかなかった。
*
「あんた、最近よくマルセルと一緒にいないかい?」
イザベラがパンをちぎりながら、何気ない口調でリヴィアに尋ねた。
「マルセルさん?……そうでしょうか?」
リヴィアは首をかしげた。確かに最近、マルセルに声をかけられることが増えた気がする。差し入れ、気遣い、さりげない誘い――それが頻繁すぎて、少しだけ戸惑う。
「誘われても断ってるんですけど……。それでも毎日のように来るんです」
「そりゃあ、よっぽど気があるんだろうねぇ」
「えっ?」
リヴィアはぽかんと目を見開いた。その様子に、イザベラは唇の端を上げて苦笑した。
「……あんた、本当に気づいてないんだね」
「気づいてないって……?」
「やれやれ。あの男、あんたのこと気にしてるのさ。けど、あんたの視線はいつだって――ほら、別の誰かに向いてる」
イザベラはわざと意味ありげに眉を上げてみせる。
リヴィアは、ハッと息をのんだ。
ヴァルトのことを考えていた。今朝の態度、あのペンダントのこと、あの時の口づけの意味――頭の中は、ずっと彼のことでいっぱいだったのだ。
「……そんなつもりはないんです。ただ、領主様のことは……いろいろ、気になって」
「気になるねぇ。恋だねぇ。あーあ、可哀想にね。マルセル」
イザベラが肩をすくめ、からかうように笑った。けれど、その口ぶりに含まれるのは単なる茶化しではなかった。
「……まったく、あの子もいい男なんだけどねぇ。顔も悪くない、性格も明るい、周囲の空気もよく読む。普通なら文句なしで『当たり』なんだけどさ」
スープの鍋をかき混ぜながら、イザベラはちらとリヴィアを見やった。
「でもあんた、もう他の人なんて見てないもんねぇ。ほんと、男ってのは哀れなもんさ」
その言い草にリヴィアは居心地悪そうにうつむいた。
「……早めに引導を渡してあげるのも、優しさだよ」
イザベラはそう言って、静かに火を弱めた。鍋から立ち上る湯気の向こうに、彼女のまなざしが少しだけ寂しげに見えた。
*
マルセルの巡回が終わったのを見計らい、リヴィアはそっと彼を呼び止めた。
廊下の片隅、通りすがりの人がほとんどいない時間帯を選んでのことだった。
振り返ったマルセルの瞳に、一瞬だけ淡い期待の光が宿る。リヴィアはそれに気づき、小さく息を吸って覚悟を決めた。
「マルセルさん。……少し、お時間いただけますか?」
その声があまりに真面目で、いつになく柔らかくて――マルセルも思わず背筋を伸ばした。
「最近、いろいろと助けてくださって……ありがとうございます。荷物のこととか、いろんな場面で……本当に、嬉しかったです」
リヴィアは丁寧に言葉を選んでいた。心からの感謝を、誠意を込めて伝えようとしているのが、彼にも伝わった。
けれど、その温かな言葉のあとに続いたのは、残酷な事実だった。
「でも……私は、あなたのそういうご厚意に、ちゃんと応えられていないと思います」
「……リヴィア?」
彼女はほんの少しだけ俯き、それから意を決したように顔を上げた。
「私は……この地に流された身です。王族という立場も、過去も、すべて背負って、ここにいます。だから――誰かと未来を語る資格は、ないのです」
それは自分自身に対しても言い聞かせるような、切ない声だった。
「それは……領主様とも?」
その問いは、あまりにも真っ直ぐで、リヴィアは一瞬だけ言葉を失う。
けれど、すぐに、ゆっくりと首を縦に振った。
「――はい。誰に対しても、です」
マルセルはほんの少し目を細めて、視線を逸らした。だが数秒の沈黙の後、いつものように明るく笑ってみせる。
「……そっか。そう言ってくれてありがとう。なんとなく、分かってたよ。でも、はっきり言ってもらえてよかった。変に期待し続けるのは、俺にはできそうにないし」
彼の笑みは少しだけぎこちなく、でも誠実だった。
「困ってるときは、これからも手を貸すよ。礼なんていらないさ。もう、そういうのには慣れてるしね」
リヴィアは胸が締めつけられる思いでその言葉を聞いた。
けれど、それでも――ちゃんと向き合えてよかったと、心から思った。
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