第12話 何も出来ない王女
リヴィアは少年に導かれ、小さな小屋の前に立った。
木製の扉はかろうじて閉じられているが、かろうじて麻ひもで縛られているだけだった。壁には所々に隙間が空き、風が冷たく吹き込んでいる。
扉を押すと、きしむ音を立ててゆっくり開いた。
中は薄暗く、埃っぽい空気が重くのしかかった。床に敷かれた藁の上に、一人の女性が横たわっている。
その顔は青ざめ、まるで息が絶え絶えのようだった。唇は乾き、目は虚ろ。動く気配はなかった。
少年はそっと母の手を握り、震える声でつぶやいた。
「お母さん……」
イザベラはそっと女性の額に手を当てた。
ひんやりと冷たい体。熱はない。だが、全身の力が抜けているのがわかる。
イザベラは静かに周囲を見渡し、悲しげに首を振った。
「これは……もう……」
イザベラはみなまで言わなかったが、それだけで目の前の女性がもう助からない事実を雄弁に語っていた。
「痛みをとる薬草を煎じよう。あんたはこの人に粥を作るんだ。わかったね」
リヴィアは深く頷き、少年の手を優しく握り返した。
「すぐに温かいものを持ってくる。待っていてね」
領主邸に戻ったリヴィアは、たったひとりで厨房に火をおこしていた。
普段なら「愚図だの、ノロマだの」と口うるさいイザベラも今はおらず、誰にも頼れない。
すべてを自分でやらなければならなかった。
手にした一掴みの大麦を軽く水で濯ぎ、かまどの炭を掻き起こす。火種に息を吹きかけ、湿った薪に火をつけるのに苦労しながらも、なんとか炎を保った。
水瓶からは、いつもより多めに水を汲んで鍋に注ぎ、洗った大麦を入れる。
煮立つまでの間も、目を離さずに何度もかき混ぜた。
――次は、何だったか。
イザベラが言っていた。薬草を入れるように。
だが、焦れば焦るほど頭は真っ白になっていく。
(思い出して。イザベラは……何て言ってたの?)
「カモミールの薬草を一緒に入れて煮込んでおくれ」
(そうだ、カモミール!)
リヴィアは慌てて食糧庫の薬草棚に走り、『カモミール』と書かれた束を探し出す。
かさり、と乾いた音を立てて薬草を手に取ると、鼻を近づけた。
ふわりと、やさしい甘い香りが鼻先をくすぐる。
(この香りなら……お母さんにも、きっと優しい)
イザベラからは「薬草は一種類だけ。混ぜると効き目がぶつかる」と言われていた。
その教えを守り、カモミールだけを丁寧に鍋へ入れる。
薬草が湯の中に沈むと、すぐに香りが広がり始めた。
湯気に混じって立ち上るやさしい匂いに、リヴィアは少しだけ肩の力を抜いた。
(これで……少しは楽になるかしら)
火加減を調整しながら、焦げつかせないように粥を混ぜる。
ぐつぐつと煮えていく鍋を見つめながら、手を止めず、リヴィアはそっと両手を胸の前で組んだ。
(お願い。せめて、痛みだけでも和らぎますように)
やがて粥がとろりと仕上がるころには、彼女の額からは汗が流れ落ち、ほつれた髪が頬に張り付いていた。
手近にあった陶器の鉢に注いだ粥を、リヴィアは古びた麻布で丁寧に包み、そっと胸に抱いた。
そして、少年の家へ向かおうとしたそのとき──。
遠くから馬の蹄が乾いた地面を力強く叩く音が響き、次第に近づいてくる。風を切る音とともに、馬の荒い息遣いが混じり合った。
リヴィアが視線を上げると、疾風のごとく駆ける一頭の黒馬の背に、鋭い眼差しを持つ男の姿があった。
ヴァルトだ。彼は堂々とした佇まいで馬を制し、リヴィアの目の前でぴたりと止まった。
「乗れ! イザベラは無事に薬草を見つけ、今ちょうど届けてきたところだ」
ヴァルトは馬から飛び降りると、騎士らしいゴツゴツとした無骨な手を差し伸べ、リヴィアを軽々と抱きかかえて馬の背に乗せた。
リヴィアは緊張で一瞬息を呑んだが、その温かな腕に安心感を覚え、静かに身を委ねる。
やがてヴァルト自身も馬に跨り、蹄の響きを轟かせながら勢いよく駆け出した。
夕日は地平線の彼方へと沈み始めている。
その橙色の光は、まるで少年の母の儚い命の灯火のようで、リヴィアは胸元の壺をぎゅっと抱き締めた。
(――神よ。どうか、どうか、間に合わせてください)
道中、リヴィアは祈りを絶やさず、ただひたすらに願い続けた。
夕暮れの風が、そっと頬を撫でていく。
ヴァルトの馬が少年の家の前で静かに立ち止まった。
リヴィアは胸元の麻布に包まれた粥の器を大切に抱き、慎重に馬から降りる。
ヴァルトも手綱を引きながら、彼女とともに家の中へと足を踏み入れた。
「……領主様」
不安げに瞳を揺らす少年は、ヴァルトの姿を見るなり、ほっとしたように目を伏せた。
「よく頑張ったな。遅くなって、すまない」
ヴァルトは少年の頭を軽く撫で、そのままイザベラのもとへ向かう。
「どうだ?」
「鎮痛薬が効いたようです」
イザベラが静かに答えた。
虚ろだった母の表情は、わずかに穏やかさを取り戻していたが、痩せこけた頬と年齢にそぐわない皺が、これまでの苦しみを物語っていた。
「粥を持っておいで。少しでも、食べさせてあげて」
リヴィアはそっと器を渡す。
イザベラは慎重に匙を取り、粥をひと匙、母の口元へと運んだ。
食べられたのは、ほんの数口だった。
それでも、母の顔にかすかな安堵の色が浮かぶ。
「……お母さん」
少年の震える声が、静かな空間に落ちた。
その傍に、リヴィアがそっと膝をついて寄り添う。
外はすっかり夜に染まり、月の光が窓から差し込んでいた。
母はかすかに唇を動かした。
「……ごめんね……」
その一言に込められたのは、まだ幼い息子を残していく無念、守りきれなかった後悔、ただただ彼を愛する想いだった。
少年は涙を堪えながら、母の手をしっかりと握る。
「そんなこと……言わないで……」
――置いていかないで。
――一人にしないで。
声にならない願いが、少年の震えた肩から、痛いほど伝わってくる。
リヴィアの胸にも、鈍い痛みが広がっていた。
――最期まで愛されることのなかった自分の父。
――顔も知らぬまま亡くなった母。
少年の姿が、自分と重なって見えた。
彼の悲しみは、かつての自分の孤独と同じ色をしている――そう感じた。
少年の母は、翌朝、静かに天へ旅立っていった。
ヴァルトは近隣の人々に協力を求め、小さな葬儀を執り行い、小さな墓を建てた。
少年には身寄りがなく、唯一の親族だった母を失ったことで、孤児院に入ることが決まったという。
手続きのすべては、ヴァルトがひとりで整えてくれたらしい。
リヴィアにできたのは、葬儀の間、泣きじゃくる少年のそばにそっと寄り添うことだけだった。
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