第9話:母との距離

三月の夕暮れ、事務所の窓から見える桜並木は、散り始めた花びらが風に舞っていた。クロベエが窓際で丸くなって昼寝をしている横で、私は昨夜の母との会話を思い返していた。


「ユウナ、最近帰りが遅いけど、どこに行ってるの?」


母の声には普段の優しさの奥に、隠しきれない心配が滲んでいた。看護師として働く母は、人の痛みや危険をよく知っている。だからこそ、私が探偵なんて危険なことをしていると知ったら、きっと猛反対するだろう。


私は曖昧に答えるしかなかった。友達と図書館にいると嘘をついた自分が情けなくて、今でも胸が痛む。


階段を上がってくる足音で我に返る。リョウの軽やかな足音だった。最近、彼は時々事務所に顔を出すようになっている。


「お疲れさま」とリョウが入ってくると、クロベエが小さく鳴いて挨拶した。


「元気ないね」


リョウの観察眼は相変わらず鋭い。私の表情を見ただけで、家族のことで悩んでいると看破された。


「親には内緒でいろいろやってるから、気持ちは分かるよ。でも皆瀬さんの場合、お母さんに心配かけてるのが辛いんじゃない?」


その通りだった。探偵業そのものより、母を心配させ、嘘をついていることの方がずっと辛い。


「親って、子供が思ってるより子供のことを信じてくれるものだと思うんだ」


リョウの言葉が胸に響いた時、階段から複数の足音が聞こえてきた。


ドアをノックする音。「どうぞ」と答えると、中年の女性と小学生の男の子が入ってきた。女性は四十代前半、疲れた様子だが上品な印象。男の子は俯いたまま顔を上げない。


「皆瀬探偵事務所でしょうか?」


私が名乗ると、女性は少し驚いたような顔をした。高校生の私に依頼するのを躊躇している様子だったが、意を決したような表情で話し始めた。


「西村と申します。こちらは息子の翔太です。実は、翔太がいじめに遭っているんです」


私は身を乗り出した。西村さんの声には切実さが込められていた。


「学校に相談しても取り合ってもらえません。翔太も詳しく話してくれなくて...」


翔太くんがようやく顔を上げた。目が少し赤い。


「お金を要求されるんです。最初は百円だったけど、だんだん金額が大きくなって。今は毎日三百円」


私は拳を握りしめた。完全な恐喝だった。相手は同じクラスの田島と山田という生徒。でも証拠がないため、学校側は取り合わない。警察への相談も躊躇している状況だった。


「分かりました。お引き受けします」


西村さんの顔がパッと明るくなった。翔太くんも少しだけ表情が和らいだ。


いくつか確認すると、翔太くんは桜ヶ丘小学校の六年生。いじめが始まったのは二月の終わり頃、算数のテストで学年一番になった発表の翌日からだった。動機ははっきりしている。


「校舎の裏で呼び出されるけど、時間はバラバラなんです」


翔太くんの説明を聞きながら、私は作戦を練っていた。


翌日の放課後、私は桜ヶ丘小学校の近くで待機していた。リョウが貸してくれた小型の録音機器を手に、翔太くんからの連絡を待つ。


事前の打ち合わせでは、翔太くんには普段通りに行動してもらい、呼び出されたら私にメールで知らせてもらうことにしていた。西村さんも学校の外で待機している。


小学校の校舎は古く、放課後になると人影もまばらだった。校庭では野球部の練習が行われているが、校舎の裏側はひっそりと静まり返っている。


午後四時を過ぎた頃、携帯が震えた。翔太くんからのメールだった。「呼び出されました。校舎裏に向かいます」


私は急いで学校の敷地に入った。守衛さんに声をかけられそうになったが、「忘れ物を取りに来た卒業生です」と咄嗟に嘘をついて通り抜けた。


校舎の裏側は確かに死角になっている場所が多い。体育館と校舎の間の狭いスペースは、外からは全く見えない。いじめには格好の場所だった。


物陰に隠れて様子を窺うと、翔太くんが二人の男子生徒に囲まれているのが見えた。一人は体格が良く、髪を茶色に染めている。もう一人は小柄だが態度が横柄で、制服を着崩している。どちらも翔太くんより二歳年上に見えた。


「今日も持ってきたよな?」


体格の良い方、おそらく田島が威圧的な声で言った。翔太くんは小さく頷いて、震えながら財布から三百円を取り出した。


その瞬間、私は録音機器のスイッチを入れた。音量を最大にして、確実に会話を録音する。


「いい子だ。でも明日からは五百円な」


山田が薄ら笑いを浮かべながら言った。翔太くんの顔が青ざめる。


「そんなの無理です...お小遣いは一日百円しかもらってないんです」


「知るかよ。親にでも頼めばいいだろ」


「親には言えません」


「なら他から盗んでこい」


田島の言葉に、私は怒りがこみ上げてきた。これは単なる恐喝を超えて、犯罪の教唆だった。


「無理?じゃあ今度は殴るぞ」


田島が拳を振り上げた瞬間、私は物陰から出た。


「そこまでです」


三人が振り返る。田島と山田は明らかに動揺していた。翔太くんはホッとしたような表情を見せた。


「なんだよ、姉ちゃん。関係ないだろ」


山田が生意気な口調で言った。


「関係あります。君たち、今の会話は全て録音させてもらいました」


私は録音機器を見せた。まだ録音ランプが点滅している。


「返せ!」


田島が手を伸ばしてきたが、私は素早く身を引いた。


「これは証拠です。警察に提出します。恐喝と暴行未遂、それに犯罪の教唆。君たちがやったことの重大さ、分かってるでしょうね」


二人の顔が青ざめた。特に山田は震え始めていた。


「ちくしょう...覚えてろよ」


田島が捨て台詞を残して逃げようとした時、校舎の角から西村さんが現れた。


「逃がしませんよ」


西村さんの迫力に、二人は完全に動きを止めた。


翔太くんは泣きそうな顔で私を見上げていた。


「もう大丈夫ですよ。これで終わりです」


私は優しく声をかけた。その時、携帯が鳴った。母からの着信だった。時計を見ると、もう七時を回っている。


「もしもし、お母さん?」


「ユウナ、今どこにいるの?もう七時よ。夕飯の支度してるのに」


母の声は心配と苛立ちが混じっていた。


「ごめん、すぐ帰る」


電話を切ると、翔太くんが申し訳なさそうに私を見ていた。


「お母さんに怒られちゃいますね。僕のせいで」


「大丈夫よ。これが私の仕事だから」


でも本当は大丈夫じゃなかった。また母に嘘をつくのかと思うと、胸が締め付けられるような思いだった。家に帰ったら、どんな理由をつけて遅れたことを説明すればいいのだろう。


翌日、西村さんと一緒に学校を訪れた。校長室で録音した証拠を提示すると、校長先生の態度は一変した。


「これは...確かに田島くんと山田くんの声ですね」


録音を聞いた校長先生は深刻な表情を浮かべた。すぐに両名が呼び出され、担任の先生も同席して事情聴取が行われた。


最初は否定していた二人だったが、証拠の前には言い逃れできなかった。特に「盗んでこい」という部分を聞かされると、完全に観念したようだった。


「申し訳ありませんでした」


二人は翔太くんに土下座して謝罪した。見ていて気持ちの良いものではなかったが、これで翔太くんは安心して学校に通えるようになる。


両親も呼ばれ、厳重注意を受けた。田島の母親は泣きながら謝り、山田の父親は息子を睨みつけていた。家庭でも厳しく叱られることだろう。


「本当にありがとうございました」


西村さんは深々と頭を下げた。翔太くんも初めて見せる本当の笑顔で、私にお礼を言ってくれた。


「これからは安心して学校に通えますね」


「はい!算数も頑張ります」


翔太くんの元気な返事を聞いて、私も嬉しくなった。成績優秀なことは誇るべきことなのに、それが原因でいじめられるなんて理不尽だった。


依頼料をいただき、事務所に戻ると既に夕方になっていた。クロベエが窓際で待っていて、私を見ると嬉しそうに鳴いた。


「ただいま、クロベエ」


猫の頭を撫でながら、私は今日の出来事を振り返った。事件は無事解決したが、私の心は複雑だった。母との関係がこのままでいいのだろうか。


時計の針は既に六時を回っている。母は夜勤明けで疲れているはずなのに、きっと私の帰りを待っているだろう。いつものように「図書館にいた」と嘘をつくのかと思うと、胸が重くなった。


リョウの言葉が頭に浮かんだ。「親って、子供が思ってるより子供のことを信じてくれるものだと思うんだ」


私は立ち上がった。もう決心は固まっていた。


家に帰ると、案の通り母がリビングで待っていた。夜勤明けで疲れているはずなのに、私のために夕飯を温めて待っていてくれる。


「お帰りなさい。夕飯温めてあるから」


母の声はいつも通り優しかったが、その奥に疲れが感じられた。申し訳なさでいっぱいになった。


「お母さん、話があるの」


私は意を決して母の前に座った。母は箸を止めて私を見つめた。


「実は...私、探偵の仕事をしてるの」


母の動きが完全に止まった。しばらく沈黙が続いた後、母が口を開いた。


「探偵?」


「京介お兄ちゃんの事務所を継いで。困ってる人を助けてるの」


私は翔太くんの事件のことを詳しく説明した。どんな依頼で、どのように解決したのか、なぜ遅くなったのか。全てを正直に話した。


母は長い間黙って聞いていた。私は母の反応が怖くて、途中から俯いてしまった。


「ユウナ」


母が静かに私の名前を呼んだ。


「顔を上げて」


恐る恐る顔を上げると、母は複雑な表情をしていた。怒っているようでもあり、悲しんでいるようでもあり、それでいて少し誇らしげでもあった。


「なぜ黙っていたの?」


「心配かけると思って...危険だし、きっと反対されるから」


「心配かけるのが嫌で嘘をついたの?それの方がよっぽど心配よ」


母の言葉が胸に刺さった。確かにその通りだった。


「でも...」


「ユウナ、あなたは京介と同じ道を歩もうとしてるのね」


母は深くため息をついた。どこか懐かしそうな表情だった。


「お兄ちゃんも反対されてたの?」


「最初はね。でも京介は自分の意志をしっかり持っていた。なぜ探偵になりたいのか、何をしたいのか、きちんと説明してくれた」


母は私の手を取った。その手は看護師として多くの人を救ってきた、温かくて優しい手だった。


「あなたはどう?なぜ探偵の仕事をしてるの?」


私は少し考えてから答えた。今日の翔太くんの笑顔を思い出しながら。


「困ってる人を助けたいから。それに、お兄ちゃんの帰る場所を守りたいから」


母の目に涙が浮かんだ。


「そう...あなたも京介と同じね。人を助けたいという気持ち」


「反対するの?」


母はしばらく考えていたが、やがて口を開いた。


「条件があるわ」


母は真剣な表情で私を見つめた。


「一つ、危険なことには首を突っ込まないこと。二つ、必ず報告すること。どんな依頼でも事前に相談して。三つ、学業を疎かにしないこと」


私は大きく頷いた。


「それと...もう嘘はつかないで。心配するのが母親の仕事なんだから」


母の言葉に、私は涙があふれそうになった。


「ありがとう、お母さん」


「全く、親子三人とも心配性を心配させるのが得意なんだから」


母は苦笑いを浮かべた。親子三人という言葉に、私の胸は温かくなった。京介お兄ちゃんも含めての家族なのだと、改めて実感した。


「でも約束よ。本当に危険だと思ったら、すぐに警察に相談すること」


「分かった」


「それと、今度の依頼の話、詳しく聞かせて。どんな子だったの、その翔太くんって」


その夜、私たちは久しぶりに母娘でゆっくりと話し合った。母は私の探偵としての活動について、詳しく質問してくれた。どんな事件を解決したのか、どんな人たちと出会ったのか。


私は第一話の田中さん夫婦のことから、商店街の桜屋さんのこと、美術部の絵美里ちゃんのこと、図書館の林田司書さんのこと、そして最近のリョウくんとの出会いまで、一つ一つ丁寧に話した。


「随分といろいろな人と出会ったのね」


母は感心したような声で言った。


「みんないい人たちよ。最初は一人で不安だったけど、今は支えてくれる人がたくさんいるの」


「そう...それなら少し安心ね」


母の表情が和らいだ。


「でも本当に気をつけてよ。何かあったらすぐに連絡して」


「うん、約束する」


私たちは約束を交わした。これからは隠し事をせず、何でも相談すること。危険な依頼は受けないこと。そして家族としてお互いを支え合うこと。


「ところで」


母が思い出したように言った。


「京介のことなんだけど...」


私は身を乗り出した。


「お兄ちゃんのこと、何か知ってるの?」


「いえ、そうじゃないの。でも時々、あの子からメッセージが届くのよ」


私は驚いた。


「メッセージ?」


「手紙じゃないの。もっと...不思議な方法で」


母は少し困ったような顔をした。


「例えば、私が落ち込んでいる時に、好きな花が玄関に置いてあったり。京介が好きだった本が郵便受けに入っていたり」


それは確かに不思議だった。でも京介お兄ちゃんなら、そんなことをしそうな気もする。


「お兄ちゃんが生きてるってことよね」


「そう思いたいわ。そして、きっとあなたのことも見守ってくれてるはず」


母の言葉に、私の胸は温かくなった。見えないところで、お兄ちゃんが私たちを気にかけてくれているのかもしれない。


「だから無理しちゃダメよ。あなたはあなたのペースで、できることをやればいいの」


「ありがとう、お母さん」


私は改めて母に感謝した。理解してくれて、支えてくれて、そして京介お兄ちゃんのことも一緒に心配してくれて。


その夜、私は久しぶりに安らかな気持ちで眠りについた。隠し事をしている重荷から解放され、母との距離も縮まった気がした。


翌朝、学校に向かう途中で桜並木を通った。散り始めた花びらが風に舞って、新緑の若葉が顔を出している。季節は確実に移り変わっている。


私も変わっていかなければならない。探偵として、娘として、一人の人間として。


教室に入ると、絵美里ちゃんが声をかけてきた。


「おはよう、ユウナちゃん。なんだか今日は明るい顔してるね」


「そうかな?」


「うん、すっきりした感じ。何かいいことあった?」


私は少し迷ったが、素直に答えた。


「家族と話し合えたの。とても大切な話」


「そっか。それは良かったね」


絵美里ちゃんは嬉しそうに微笑んだ。彼女も家族の大切さを知っている一人だった。


午後の授業が終わると、私はいつものように事務所に向かった。今日はリョウが先に来ていて、パソコンで何かを調べている。


「お疲れさま」


「あ、皆瀬さん。昨日はどうだった?」


「無事解決したよ。それと...お母さんに全部話した」


リョウは手を止めて私を見た。


「そうか。どうだった?」


「条件付きだけど、認めてくれた」


「良かったじゃない。やっぱり親は子供のことを信じてくれるんだね」


リョウの言葉通りだった。私は彼にアドバイスをくれたことへのお礼を言った。


「でも、これからは責任重大だね」


「そうね。お母さんとの約束を守らないと」


私たちは今後の活動について話し合った。より慎重に依頼を選び、必要に応じて大人の助けも借りること。そして何より、学業を疎かにしないこと。


「そういえば」


リョウが思い出したように言った。


「次の依頼、もう来てるよ」


彼は机の上の封筒を指した。


「今朝、郵便受けに入ってたんだ。皆瀬探偵事務所宛て」


私は封筒を手に取った。差出人の名前はない。中には一枚の便箋が入っていて、丁寧な字で依頼が書かれていた。


「老人ホーム『さくらの園』で起きている不可解な出来事について、ご相談したいことがあります」


私とリョウは顔を見合わせた。新しい事件の始まりだった。


でも今の私は、前とは違う。支えてくれる家族がいて、信頼できる仲間がいる。そして何より、自分の選んだ道に対する責任と覚悟を持っている。


窓の外では、新緑の季節が始まっていた。私たちの新しい章も、今まさに始まろうとしている。


クロベエが窓際で鳴いた。まるで「頑張れ」と言っているみたいに。


私は微笑んで、新しい依頼の手紙をもう一度読み返した。困っている人がいる限り、私たちの仕事は続いていく。


そして京介お兄ちゃんも、どこかで私たちを見守ってくれている。そう信じて、私は次の事件に向かう準備を始めた。

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