消えた片翼
周囲を漂う光が、ようやく収まった。
虚ろな空間のざわめきが消え、千穂の視界に広がったのは、狭い石の通路だった。
四方を押し固められたような、息の詰まる狭さ。
壁面には手のひらほどの窪みが点々と開いていて、そこに無数の小石が詰め込まれていた。
まるで──人柱を閉じ込めるために掘られた穴のように。
いや、そもそもここは……そのための場所なのだから当然だ。
千穂は息を呑んだ。
すぐ横には石塚が見える。
ここが、人柱の座に直結する通路だと理解した。
だが──澪はいなかった。
「……み、お……」
声にならない声を漏らしながら、千穂は這い出した。
石塚の周囲を探し回るつもりだった。
服は土埃にまみれ、擦り切れ、腕や膝には血が滲んでいたけれど。
「千穂さん!」
呼ぶ声に振り返ると、駆け寄ってくる影があった。息を切らせて目を見開いているのは、叔父さんだった。
服はボロボロ、酷い顔をしている。
その顔に安堵の色が浮かぶ。
すぐに駆け寄ってきて、千穂を起こしてくれた。
「無事で……! いや、無事じゃないな……澪は、澪はどこだ?」
力強い腕に支えられた途端、張り詰めていたものが切れ、千穂は泣きじゃくった。
「澪が……いないの……!さっきまでいたのに! 一緒だったのに!」
涙で視界が滲む。
訴える千穂を、叔父さんはぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だから……澪もすぐ見つかるよGPSがあるから」
だが千穂の目に、ふと遠くの山が光を放つのが映った。
夕暮れの紫を裂くように、一瞬、青白い光が走ったのだ。
「今の……! あの山だよ、あそこ! 絶対に澪がいる!」
必死に指を伸ばす。
叔父さんは視線を追い、首をかしげた。
「……あっちの山はダムのあるあたりだ。巳沢村の旧跡が沈んでいる場所だけど──さっきまで一緒だったなら、この近くに……」
「だから行こう!今すぐ!澪が──」
言葉の途中で千穂は咳き込み、その勢いで血まじりの泡を吐いた。
鉄の味が口の中に広がる。
「──千穂さん!?」
叔父さんが慌てて背を支える。
千穂の身体は震え始め、息は苦しく視界の端が暗く染まっていった。
叔父さんは千穂に口を開けさせ、ポケットから細いライトを取り出した。
(……眼科のやつ?なんで持ち歩いてるの……)
瞳に光が差し込み、千穂は思わず目を背けた。
「口は切ってないね。ごめんね、上向いて……右も。次、左」
「叔父さん、澪探して」
「……だめだ、まず診療所へ。君をこのままにしておけない」
「ちが、澪が……澪を……!」
「もちろん澪も探すよ、かわいい甥っ子だからね。でも今は君の優先度が高いんだ」
必死に拒もうとするが、力が入らない。
叔父さんは迷わず千穂を抱き上げ、小学校の駐車場に停めてあった車へ駆け下りた。
裏手の里山には、数人の村の老人たちがいた。
「伊藤の総領娘じゃないか!」
「あらまあ、血だらけで……!」
ざわめく声に、叔父さんは短く叫んだ。
「店の斎藤さんに伝えてください! 千穂さんを診療所に運びます、すぐに来るようにと!」
老人たちがうなずくのを確認するより早く、車に乗り込みエンジンをかけた。
──視界が揺れる。
千穂は自分がどんな状態で車に乗っているのか、把握できないでいた。
(助手席か後部座席か──早く迎えに行ってあげないと)
車が急加速し、里山を離れていく。
「……ダム……行って……」
震える声で千穂は訴えた。
叔父さんがどこにいるのかもわからない。
叔父さんは誰と話しているの?
「はい、高橋です。患者は十五歳女性。全身打撲で意識混濁、血性痰あり。呼吸二十二、脈拍百三十。外傷性ショックを疑います──」
(……なにを言ってるの……叔父さん……叔父さんは……)
「到着は五分後。搬送地点は隣町診療所。受け入れ準備と、ドクターヘリ要請をお願いします……はい、直通で。指定は高校グラウンドで」
(違う、探すのは澪だよ……)
「千穂さん。よく聞いて。見に行くのはね……」
「……」
「僕が適任なんだ。僕の仕事、知っているだろう?ほら、フィールドワークだよ。調査許可証があるから立入禁止区域も車で入れる。だから、僕ならすぐ行けるんだよ」
(良かった、すぐ行ける──)
言葉が通り過ぎていく。
だが次の瞬間、強い声で続いた。
「けれど君は違う。今、君は怪我人。まず診察、それからだよ」
「……いや……やだ……私も……」
「大丈夫、大丈夫。僕は山歩きのプロだからね。宝探しも得意なんだよ」
涙が溢れた。
(何を言っているんだろう、ダムまでもうちょとなのに)
──車が止まった。
車からおろされる時、千穂は気付いた。
ここはダムじゃない。
知ってる、ここは隣町の──
「いや……! ちがう! なんでここなの! 澪のところに行かなきゃ!」
暴れようとした。
腕を振り、身体を起こそうとする。
だが看護師に押さえられ、ストレッチャーに固定される。
「落ち着いて! 息ができなくなるよ!」
「いや! 澪! 澪が──!」
泣き叫ぶ声は嗚咽に変わり、千穂は咳とともに再び血を吐いた。
視界の端で、慌てて駆け込んでくる斎藤のおばちゃんの姿が見える。
「千穂!」
おばちゃんは手を伸ばしたが、ストレッチャーはもう動き出している。
千穂は手を伸ばした。
「光ってる……山に……おね……が……」
だが声は掠れ、誰も聞いてはくれない。
医師が指示を飛ばす。
「鎮静を! すぐに点滴ルート確保!」
冷たい針が刺さり、身体の力が抜けていく。
耳に届くのは断片的な会話だった。
「肺からの出血……肋骨も折れてる……」
「搬送は間に合わない、ドクターヘリを──」
「直線距離なら十五分だ、ここからなら高校のグラウンドが使える!」
おばちゃんに説明する声も聞こえる。
「ここから救急車で行くと二時間以上かかります。ヘリなら十五分。照明がある高校のグラウンドに着陸させます」
(……違う……澪のところに……勝手に決めないで)
千穂は力なくストレッチャーに横たえられたまま、救急車に運び込まれた。
サイレンの音。遠ざかる景色。
グラウンドに着いた時には、すでにヘリのローター音が夜気を震わせていた。
強烈な風が吹きつけ、突き刺さる光が千穂を覚醒させる。
(ヘリならすぐ着く……澪を……)
担架ごと運ばれ、医師と救急隊員の声が飛び交う。
おばちゃんの必死な声も聞こえた。
「私しかいません、同乗させてください!」
「わかりました、乗って!」
千穂はその声に、少しだけ安心を覚えた。
──でも。
(ダムに……澪の……ところに……)
最後の力で心の中だけで呟いた。
その瞬間、視界が闇に沈んだ。
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