心の軌跡


千穂は⎯⎯風鈴の話で少し不安だったし、落ち着かない雰囲気ながらも考える余裕が出来てきていた。

外からは虫の声がするのに、不思議と遠い。

まるで厚い膜に包まれているようで、自分の耳がおかしいのかな?とさえ思える。


「お茶でも淹れてくるかね」


おばちゃんが立ち上がり、隅に寄せたちゃぶ台へと歩く。


「今日は小さい電気つけっぱなしでいいよ、足元危ないから」


(おばあちゃんも、小さい電気って言ってたなぁ……)


その何気ない声に、千穂は一瞬だけ緊張を解かれた。


⎯⎯⎯⎯だが。


《──ちーほ……》


呼ばれた。

胸の奥が震えた。


(……おばあちゃん?)


聞き間違いじゃない。

幼い頃から聞き慣れた調子。

夏の夕暮れ、遊び疲れて帰るときにかけられた声そのものだった。


隣を見る。

叔父さんはノートに鉛筆を走らせている。

おばちゃんは茶碗を拭いていて、タカミオはじっと黙っている。

誰も反応していない。


《──ちーほ、どこにいるんだい》


もう一度。

今度ははっきりと。


(おばあちゃん……? でも……)


言葉が喉に引っかかる。

問いかけたいのに、声が出ない。

祖母は亡くなったのだ。

でも、祖母の声を、もう一度だけ聞きたい。


(返事をしてはいけないんだ、これは地獄の口の作戦だ)


千穂は、自分が思っているより『祖母』を渇望していた。

一言、周囲におばあちゃんに呼ばれた……そう言えば、みんなが守ってくれる。

だけど⎯⎯本当に、そうだろうか?

おばあちゃんは、私を心配して見に来てくれただけなんじゃない……?


《──ほら、帰るよ》


決定的な響きだった。

胸の奥を強く揺さぶる、懐かしい言葉。


(ずっとおばあちゃんと生きてきたんだもん。おばあちゃんが見に来てくれるほうが、よっぽど信じられる……)



だってそうじゃない?

私の、私だけの大好きなおばあちゃんだもの。

継母の理不尽から、いつだって守ってくれた。

今回だって守ってくれる。

千穂は気づけば布団から立ち上がり、畳を踏んでいた。


「トイレかい?」


おばちゃんが笑って声をかける。


「今日はトイレも電気つけっぱなしでいいからね」


その言葉で、大人たちは誰も警戒しないまま千穂を見送った。


足はまっすぐに玄関へ向かっていた。

震える指で引き戸に手をかける。

ガラリと音を立てて開け放つと、夜の冷気が頬を撫でた。


──おばあちゃん。


小花模様の着物を着たおばあちゃんが、玄関の正面に立っていた。

懐かしい笑み。


《そんなところにいたのかい?もう行くよ》


次の瞬間、『おばあちゃん』は千穂に背を向けて歩き出した。


「待って! 待ってよおばあちゃん! 置いていかないで! 迷子はもう嫌ーー!」


千穂は絶叫し、裸足のまま飛び出していた。


月明かりに照らされた夜道を、必死に駆ける。

祖母の背中を追うが、距離は縮まらない。


(嫌だ、嫌だ!離れるわけにいかない!おばあちゃん、おばあちゃん、おばあちゃん⎯⎯)


喉が裂けそうになるまで叫んだ。


「待ってぇ! おばあちゃん!」


その時、背後から呼ぶ声。


「千穂!」


タカミオだった。

すぐ後ろまで迫ってきている。


(邪魔しないで、おばあちゃんが行っちゃう!)


「──っ!」


身体が前に倒れる、その腕を強く掴む手があった。


「千穂!」


タカミオだった。

抱き止められた瞬間、周囲で空気が弾けた。


バチッ。

雷のような閃光が走り、祠の前の闇が引き裂かれる。

湿った夜風が一気に渦を巻いた。


千穂は必死に暴れた。


「離して! おばあちゃんが! おばあちゃんが行っちゃう!!」


だが腕はびくともしない。

祠の前で再び閃光が炸裂し、千穂の体から力が抜けていく。


「……祓われた……!」


追い付いた叔父さんの声が震えた。


千穂はその直後、視界が白く揺れて意識を手放した。




痛みで目を開けたとき、畳の匂いがした。


「……千穂!」


おばちゃんが声をかける。膝の上には薬箱。


自分の両足に、赤黒い傷が無数についている。

おばちゃんの手が、丁寧に消毒して左足に包帯を巻いていた。


「痛い」


「ひどい傷だよ。裸足で走るから……」


「……おばあちゃんが……私……」


千穂はかすれ声で言った。

覚えているのは玄関を開け、祖母がいたこと。それ以降は、霞がかかったようにぼんやりとしか思い出せない。


「そこから先は覚えてないんだね」


おばちゃんの声は沈んでいた。


叔父さんがノートを抱えて座り込み、低く言った。


「千穂さん。確かに年配の女性は見えた。だがな……俺たちに見えたのは、正面を向いたまま遠ざかる姿だった。人間じゃあり得ない動きだった」


(……正面のまま……遠ざかる?)


千穂の胸が冷たくなった。


おばちゃんが不安そうに続ける。


「あれは……私と揃いで作った着物だったし……あの姿。よっちゃんだよ、確かによっちゃんだった」


「だが、澪が千穂さんに追い付いたときに周囲に雷みたいな光が走って⎯⎯千穂さんは、覚えているかい?」


叔父さんが静かに千穂に問う。

千穂は首を振って、正直に答えた。


「いいえ。おばあちゃんに置いていかれたら困るって思って、必死で⎯⎯自分が走ってたのかどうかも、あやふやで……」


「あんなに速く女の子が走るなんて、俺にも信じられないよ。祠の近くで千穂が転びそうにならなかったら⎯⎯追い付けなかった気がする」


タカミオが、真剣な眼差しで千穂を見つめた。

目をそらしたくて下を向くと、タカミオの手にも傷がある……。


(引っ掻き傷と歯形……?私がやったの?)


「その傷」


「ん?ああ……気にしなくていいよ」


「ごめんなさい私が⎯⎯」


「覚えてないだろうし、そんなに痛くないからいいよ。千穂を失うわけにはいかないんだ。大事なものを失ったら、俺も⎯⎯うまく言えないけど、わかるんだ」


「ふむ」


叔父さんが満杯になったノートを閉じ、新品を取り出した。


「叔父さんがいう『祓い』が起きたとき、俺にはやつらの一部が壊れて消し飛んだのがわかった。⎯⎯それが高御尾だというなら、俺にはその力が……」


⎯⎯確かにある。

タカミオは、そう呟きそれっきり押し黙った。


「千穂さんがいう『おばあちゃん』は、光が走ったときに消えたんだ。姿を借りる悪しきものが、あの光で祓われたと思うんだよ」


千穂は言葉を失った。


(わかってる。おばあちゃんは死んじゃってるんだ。なのに、なんで)


「……怪異の怖いところは、一番欲しいものを提示してくるところなんだよ」


叔父さんが、呟いた。


右足の消毒を始めたおばちゃんが、ピクリと手を止めて顔を上げた。


「右足の痣が……消えてるよ」


「え……?」


千穂は慌てて足を見る。

汚れていて見えにくいが確かに、あの目立つ青黒い痣がない。


(どうして……?)


手をつこうとしたとき、視界の端に青黒いものが映った。

自分の──左手の甲。


そこに、タカミオと同じ痣が浮かんでいた。


「……!」


声が出なかった。

叔父さんが震える手で鉛筆を走らせ、呟いた。


「……痣の移動?あり得ない。だが実際、動いている⎯⎯そんな事例はないけど……これは」


茶の間に沈黙が落ちた。

千穂はただ、左手を胸に当てて深く震えていた。


「研究者としては⎯⎯ああ、もういいや。降参する。これは奇跡だよ、奇跡なんだよ」


全員が一斉におじさんを見つめた。


「奇跡……?」


(よく聞く言葉だけど実際はなんなんだろう?痣が移動したのは本当。でも、どうして⎯⎯)


「だって、物理的に細胞が変異した⎯⎯色素沈着した痣なら、移動するわけ無いじゃないか。

だったら、そもそも元からある痣だって肉体由来しているわけがない」


「聞いたことも無いしね」


おばちゃんが呟いた。


「二人の痣。コピーしたみたいに同じ位置、同じ部位……『意味がある』としか言いようがないんだよ。こういう不思議な現象は昔から畏怖を込めて、奇跡と呼ばれてきた」


叔父さんが震える手で新品ノートに鉛筆を走らせ、呟いた。


「さっきも言ったけど……痣の移動なんてあり得ないんだよ。だが実際、動いている。そんな事例は、文献にも残っていない」


茶の間に沈黙が落ちた。

おばちゃんが、手の上で千穂の左手を包む。

タカミオはただ、同じ位置に浮かぶ自分の痣を見つめていた。


叔父さんは小さく息を吐き、眼鏡を外した。


「研究者としては、説明できない。だけど……記録もないような昔から、世界各地で人はこういう不可思議を『奇跡』『ミラクル』と呼んできた。──いま目の前で起きているのは、まさにそれだ」


その言葉に、おばちゃんは黙って頷き、タカミオは深く目を伏せる。

じんわりと胸に広がっていくのは、恐怖や混乱だけじゃなかった。

確かにいま、自分たちは「何か大きなもの」に触れている。


だから、これも、奇跡だよ⎯⎯そう続けるおじさんの声は徐々に遠くなっていき、千穂はまた意識を手離した。


(キセキ……)

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