想い

朝、目が覚めたときにまず耳に入ってきたのは、田んぼの向こうを渡っていく音だった。

自転車の金属がこすれる、あの特有のきい、という細い音。

続けて、子どもの笑い声が風に乗って弾んだ。

登校の時間だ。

窓から覗いても道は畑と杉でちょうど見切れてしまって見えないのだ。


ノロノロと窓際を離れると、足の裏が畳のひんやりを吸い上げた。

思いがけない冷たさに千穂は小さな声をあげた。


「起きたかい。お湯わかしてあるよ」


台所に行くと、斎藤のおばちゃんが味噌汁の蓋を少しずらしていた。

湯気が白く立って、魚の出汁の匂いが鼻の奥をくすぐった。


「学校は?」


「……今日も、やめておく」


「よろしい。明日は土曜日だしね」


おばちゃんはそれ以上なにも言わない。

言わない代わりに、千穂の前に小さなお椀と、おにぎりを置いた。

海苔がまだ、ぱりっとしている。

噛むと、しょっぱさの向こうに米の甘さが来て、急にお腹が空いたことを思い出した。


「おばちゃん」


「なんだい」


「あの、あのね。おばあちゃんの朝ごはんも、おにぎりだったの。あったかくて、パリパリしてて」


「よっちゃんも私もそうやって育ったからね」


「うん、うん……わ、わたしもそうやって育ってて」


千穂の心を抑えていた、なにかが壊れた。

祖母の葬式でも泣かなかった千穂なのに。


千穂は、おばちゃんに背中をさすられながら、声をあげて幼児のようにワンワンと泣いた。


しばらくして、落ち着いた千穂はおばちゃんに話しかけた。


「叔父さんは?」


「朝一で出たよ。役場に古い地図があるって、見せてもらいに。昼には戻るだろうってさ」


昨夜、壁を叩く約束をした右手の指先が、卓袱台に触れる。

あの夜の擦れる音は、夢じゃない。

千穂は指で木目の段差をなぞって、三回、間をおいて二回、そっと叩く真似をした。


すっかりしなしなになったおにぎりを食べ終わると、流しで器を洗わせてもらった。

手を動かしていると、少し落ち着く気がするから。


携帯は家に置いたまま。

おばちゃんにお願いして取りに行けないかと、喉のあたりまで出かかったけれど、飲み込んだ。

昨日の「線を増やさない」の一言が、まだ胸の前に立っている。


午前は店の帳場の隅で、叔父さんが置いていった写しに付箋を貼った。古い字は、慣れてくると少し読める。

読めるような気がする、が正しいのかもしれない。

紙の端が乾いていて、触ると柔らかな音がした。

さわ、という小さな音。

「観音女」の幼名は、何度見ても不思議だった。

貴族でもないのに幼名。


(本当ってどこに隠れているのかな。観音女だってあとからこじつけたものかもしれない)


どうにも落ち着かない。

アレコレ言われてはいるけれど、アザだって特に変化があるわけでもないし。



正午が近づくころ、店の戸が開いて近所のお婆さんが豆腐を買っていった。

会釈して笑ったら、「ほんに色の白い子だねぇ」と言われた。

返す言葉が見つからず、また笑った。

笑い方が、いつもと違うのはどこかで力が入っていて、肩の骨が上がるからか。


昼は、白菜と油揚げの煮浸しと麦茶。

箸を止めると、遠くの校舎のチャイムが風に揉まれて届いた。

ほんとうに、ここから学校まで一本の道でつながっているのか、疑いたくなるくらい遠く聞こえる。

千穂の時間だけ、ずれてしまったみたいだ。


「午後も、ちょっとだけ店番を手伝ってもらえるかい」


「うん」


レジ横の割り箸をそろえながら、頭の中で文字を書いた。澪、って紙に書くと、とたんに距離が近すぎて照れくさい。

だから「タカミオ」って書く。

これなら少し冗談が混じる。ノートの端に、そのまま書いてみた。


──タカミオへ。

ここにいるよ。


書いてから、ページを破らずに閉じる。

渡すあてなんてないのに、手紙の形だけ先に出来上がった。

紙ってなんだかおかしいものだ。

書いた瞬間、存在してしまうから。

口にしたら消えてしまいそうな気持ちが、黒い線になる。


午後三時、少し風が出た。

どこかの風鈴が、チリリと鳴る。

店の前の砂利に、細い蛇が一筋の影を落として横切っていった。

昨日よりも小さい。

千穂は思わず玄関の敷居の前で立ち止まった。


「出ない」と自分に言い、唇を噛む。

おばちゃんが奥から出てきて、蛇を横目に見てうなずいた。


「塩、もう一度撒いとくかね」


おばちゃんは商品の塩の袋を豪快に破り、バサバサと撒き散らした。


叔父さんは夕方に戻ってきた。地図と、鉛筆の芯の粉で黒くなった指先。


「昔の川筋が、今とだいぶ違っていてね」と言いながら、ちゃぶ台に広げる。

私は少し離れて、その線を眺めた。


「明日も、ここだよ」地図を丸めながら、おばちゃんが言った。


「取りに行きたい気持ちはわかる。だけど、今は我慢だよ」


日が落ちるのは夏に比べると、まだ少し早い。外の色が薄い紺になって、家の中の明かりのほうが濃くなる。

千穂は風呂の湯船でドクダミの香りに包まれながら、湯の中で右足をそっと撫でた。


「呪いじゃないなら、なんなの」


湯気にまぎれて出た声は、自分でも驚くほど小さかった。

返事なんて、もちろん無い。

水面が小さく揺れて、天井の灯りを崩しただけだ。


布団に入る前に、窓の鍵を確かめる。

障子の角をなぞって、壁の位置を指で覚える。昨夜の合図の場所を、数センチ単位で確かめ直す。音のない練習。

横になると、遠くでまた自転車の音がした。

誰かが部活を終えて帰る音。

これも、ここでは見えない。


(おやすみ、って言ったら届くかな)


目を閉じると、薄い水色が広がった。

昨日と同じ池の色。

今日は、波紋がひとつだけ。

輪が、静かに大きくなっていって、やがて見えなくなる。

その中心に、名前を置いてみる。

タカミオ……音にすると照れくさいから、心の中で字だけ。

水に沈めるみたいに、そっと沈める。


胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。


(大丈夫。明日になれば、土曜日だからきっと来るよね)


眠りが落ちてくる直前、外で風鈴が一度だけ鳴った。

返事みたいだと思ったけれど、起き上がらない。

手紙はノートの中だし、携帯は家。

今はそれでいい。

ひとつずつ、線を結ぶ前に、ほどけない結び目になっておきたい。

見えない近さを抱えたまま、千穂はまぶたの裏で薄い水色を感じながら、眠りに落ちた。

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