想いが武器になる世界で、ただ俺は君を守りたい。それだけだった。

黒宮ミカ

1話 世界が壊れた日、隣に君がいた

あれは、俺が生まれるよりずっと昔の話だ。

「人類最後の戦争」と呼ばれた大戦によって、この世界は壊れた。――死者が歩くようになったのは、そのとき使われた兵器の影響だ。正直、俺なんかが偉そうに語るのもおこがましいけど…これが現実だ。


それは、核や毒とは違い、人の「想い」と「意志」を増幅・制御する技術を用いた兵器。だがその暴走によって、死者の魂が肉体に縛られ、意思を持たぬまま歩き回るアンデッドが生まれた。誰が作ったのか、どうやって使ったのかは、いまや誰にもわからない。ただ結果だけが、時を止めたように今も残っている。


旧チェコ領にある都市──かつて「プラハ」と呼ばれた場所は、今では“黒の塔”と渾名される巨大なダンジョンになっている。塔では、死んだ者たちが、まるで意思を持つように這いずり回っているらしい。彼らはゾンビ、アンデッド、屍人(しびと)──呼び名は色々だ。けれど、どれも「病原性はない」。それが共通点だ。つまり、噛まれても感染しない。ただ、くさい。風呂にも入らず、何年も歩き続けてるんだ。当然だ。


それでも、生き残った人間は彼らとどう向き合うかを考えねばならなかった。逃げるか、戦うか、あるいは――利用するか。


「プリオン病に気をつけりゃ、食えるらしいぞ」そう言ったのは、俺の父さんだ。村の衛兵をしている。日本人で、この地に流れ着いた一人だ。かつて戦地で医者として前線に立っていたらしい。そして――ゾンビを狩っていた。


父さん曰く、アンデッドは干せば匂いが減る。燻せばもっとマシになる。プリオン病のリスクはあるが、加熱と部位に気をつければ……食える、と。


俺は食ったことがない。たぶん。……でも、最近、気になることがある。村には、羊が27頭しかいない。人口は76人。一頭あたりの可食部は18キロ程度だから、総量は486キロ。一年365日で割れば、1日あたり約1.33キロ。それを76人で割ると……一人あたり17.5グラム?


でも俺の家では、毎日100グラム以上の肉が出ている。しかも……めちゃくちゃ硬い。あの肉、本当に羊か?それとも、別の――いや、やめよう。考えるのはやめておこう。




その日、クヴィルダ村は一年で最もにぎやかな日を迎えていた。ライ麦の収穫を祝い、山羊乳でつくったチーズを神に捧げ、地下室で熟成された塩漬け肉を持ち寄って、村人たちは焚き火のまわりに集まった。空は雲ひとつない晴天だった。


けれど、俺はどこか落ち着かなかった。風が流れず、木々のざわめきもない。そのせいか、空の青さが妙に重たく見えた。


「ほらレイ、もっと食べなさい。育ち盛りなんだから」

焼きたてのライ麦パンを手渡してきたのは、近所のおばさんだった。その手は少し皺があったけれど、いつも温かかった。


「おばさん、もう三つ目だよ……さすがにもう無理」

「いいのよ、あんた昔から痩せすぎなんだから。もっと太らなきゃ!」


苦笑しながらパンを受け取り、俺は干し草を積んだ山の上に腰を下ろす。視線の先では、子どもたちが木剣を振り回しながらはしゃいでいた。女たちは煮込みをかき混ぜ、男たちは酒を酌み交わしている。誰かがハーモニカを吹き始めた。


だが、その平穏の中にも、不自然さがあった。鳥の鳴き声がしない。空を見上げても、羽ばたくものは何一つなかった。そして、微かに漂う、腐った肉の匂い。


「……風向きのせいか?」

自分にそう言い聞かせながら、パンを口に運ぶ。熱と香ばしさに満ちた麦の味が広がり、少しだけ安心した。


そのとき、隣に誰かがそっと腰を下ろした。振り向くまでもなく、誰かがわかった。


「隣、いい?」

声は、少し恥ずかしそうに揺れていた。


「ミナ……来たんだ」

普段はこういう場に出てこない。人混みもにぎやかな雰囲気も苦手なはずだ。それでも、彼女はそこにいた。


膝に置いた手をそっと重ねるように、パンを持って、微笑んでいた。


「うん、でも……レイと一緒なら、たぶん大丈夫」

光をはね返すその瞳は、どこか昔と違って見えた。もう子どもじゃない。だけど、昔と同じように、あたたかかった。


俺は少し照れくさくなって、空を見上げた。すると、空気が少しだけざらついて見えた。目の錯覚か、あるいは何かの前兆か。それでも、俺は無理に笑ってみせた。


「来年もこうして、祭りに来ような」

「うん……。そのときは、もっと一緒に遊ぼう」


ミナの笑顔は、柔らかく、ほんの少しだけ不安を含んでいた。俺の胸に、なにか小さな違和感が芽生える。なぜだろう。こうして話しているだけなのに、まるで――別れの挨拶をしているみたいだった。




祭りのざわめきの中で、ミナと俺は並んで座っていた。干し草に背を預け、焼きたてのパンをちぎりながら、ふたりの会話はゆっくりと流れていく。


幼いころの話。小川に落ちて怒られたこと。裏山の崖でミナが泣いて、俺が手を引いたこと。あの頃は、ただ笑っていればよかった。世界がどれだけ壊れていても、子どもには関係なかった。


けれど――今は違う。


「ねえ、レイ」

ミナがふいに言った。声は小さかったが、耳に届いた瞬間、胸の奥にすっと入ってきた。


「もし、来年もこうして集まれたら……今度はもっと一緒に遊ぼうよ」


俺は、目を見開いた。ミナの瞳は、やさしく、でもどこか怯えていた。


「どうしたんだよ、急に」

「ううん、なんでもない。ただ……言っておきたかっただけ」


ミナは笑った。いつものように、静かで、強がりの笑顔だった。俺は黙って、ミナの手を握った。自分でも驚くほど、指が冷たかった。


「約束するよ。来年も――ここで、一緒に」

ミナはこくりとうなずいた。


その瞬間だった。「パキッ」と、乾いた音が空から降ってきた。耳の奥で木が折れるような、骨が割れるような音。


ふたりは同時に空を見上げた。空に、亀裂が走っていた。それは雲ではなかった。まるで、空そのものが裂けて、中から何かが覗いているかのような――赤い線。


「……なに、あれ……」

ミナが、かすれるような声で言った。


赤い線は、やがてゆっくりと開いていく。それはまるで、世界が泣き叫ぶかのようだった。


冷たい風が広場を吹き抜け、焚き火の炎が音もなく揺らぎ、やがて消えた。空気が、変わった。音が、歪んだ。祭りの笑い声が、何か遠くの音のように、ざらついて聞こえる。


「……ミナ、今の音、聞こえたか?」

ミナは、無言でうなずく。握った手に、強く力が込められた。


「うん、でも……レイと一緒なら、たぶん大丈夫」

ミナはそう言って微笑んだけど、俺だって本当は平気じゃない。


この空気の重さ、この変な匂い。何かが起こるのは分かってるんだ。でも口に出すのは怖い。みんなを不安にさせたくないから、つい強がってしまう。




俺の胸の奥に、冷たい汗が流れた。ああ、何かが来る。そう、本能が叫んでいた。


「任せろ。俺が、村ごと全部、守ってやるよ――!」

…なんてな。本当は震えてる。逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。


だけど、そんなこと口にしたら、自分が壊れそうだった。だから言った。「守る」って、カッコつけて言ったんだ。


言葉が口からこぼれたとき、俺はもう、逃げる道を捨てていた。


空が、ひび割れるような音を立てて、真っ二つに裂けた。赤い光が、村を包み込んだ。


誰かの笑い声が、悲鳴に変わる。誰かの歌が、絶叫に変わる。そして、地獄の門が開いた。




笑い声は悲鳴に変わり、叫びは熱風となって広場を焼き尽くした。老爺の体が内側から炎を噴き上げ、燃えながら崩れ落ちる。村人たちは正気を失い、狂ったように互いに襲いかかり始めた。


パンをくれたおばさんが、後頭部を殴られて倒れる。


「ミナ、逃げろッ!」

俺は露店の台を蹴り倒し、転がった刃物の中からナイフを二本拾う。


その瞬間、背後から――「っ!」青年が飛びかかってくる。祭りの準備を手伝っていたはずの男だ。だがその目は焦点が合わず、口元には泡が浮かんでいた。


「なんで……お前まで……ッ!」

ナイフを突き出すが、青年は理性を失い、腕を振り下ろす。


ナイフは弾かれ、俺の目元を強く打った。


「ふざけんなよ……俺が、お前なんかに負けるわけないだろ……!」

痛みに耐えながら、もう一本のナイフを握りしめ、体当たりで倒す。そのまま、胸に刃を突き立てた。


グシャッ、と鈍い音が響く。血の匂いと焦げた草の匂いが混ざり合う。耳鳴りの中、ミナの泣き声が聞こえた。村は、もう地獄だった。




倒れていたおばさんの顔は、もう笑っていない。ミナが駆け寄り、そっと俺の目に手を当てる。その手から、小さな光が滲み――祈るような声で、彼女は何かを呟いた。


俺の視界に静かな光が差し込み、痛みがゆっくり引いていく。完全に、見えるようになっていた。まるで――奇跡のようだった。


だがミナの顔は真っ青で、唇が震えている。


「……無理しすぎだ……」

「平気……じゃないけど……放っておけないから……」


俺は何も言えなかった。この力が、どんな代償を払っているのか――怖くて聞けなかった。


「……ごめん、俺……」

その一言すら、彼女の前では吐き出せなかった。


俺はまだ、何もできていない。ただ、言っただけだ。守るって。カッコつけて。


でも――立ち止まるわけには、いかない。ビビっててもいい。足が震えてても、前に出るんだ。


「行くぞ、ミナ……! 生き延びるぞ、絶対に!」


視界に滲んだ血がぽたぽたと地面に落ちる。背後では、村が崩れていく音が止まらなかった。




後ろから父さんの声が響いた。


「レイ! ここから逃げるんだ!」


あの声を聞いて、助けに行きたい気持ちと、動けない自分がせめぎ合った。俺はただ、後ろに隠れてしまった。意気地なしだ。


でもその声が、俺に強さをくれたんだ。


村の衛兵である父さんは、ゾンビの群れを食い止めながら、最後の力を振り絞って子供たちを守っていた。


「俺が食い止める。お前らは生き延びろ!」


医者としての知識と衛兵としての腕を駆使し、血と汗にまみれて戦う父さんの姿が、俺の胸に焼き付いた。


振り返ることはできなかったが、その声が、強く、温かく、鼓舞していた。


「絶対に生きるんだ、レイ!」


その言葉を胸に、俺はミナの手を引いて走り出した。後ろから聞こえる戦いの叫び声はやがて途絶えた。


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