愛の水声(すいせい)

羽翼綾人(うよく・あやひと)

【第一章】水面に投げられたもの

第0話:山崎佐奈子のひとりごと

 朝の光って、いつも正直だ。


 カーテンの隙間から差し込む細い光の筋が、部屋の埃をきらきらと照らし出す。あたしはそれを、しばらくぼんやりと眺めていた。


 まるで宇宙の縮図みたいだなって、そんなことを思う。


 キッチンに行くと、翔太さんが、静かに朝食の用意をして、姉さんの席にコーヒーを置いていた。


 翔太さんは、姉さんの旦那さん。大江翔太おおえ しょうた、あたしより二歳年下の二十四歳で、物流会社に勤めてる。


 姉さんは、あたしの双子の姉。大江日奈子おおえ ひなこ、小学校の先生ね。今日も、少し急ぐように朝食を摂っている。

 いつも落ち着いた雰囲気なんだけど、この時間だけは毎日慌ただしい。


 二人の光景は完璧な一枚の絵みたいで、あたしは、その額縁の外側に立っているような気分にさせられる。


「おはよう、姉さん。翔太さん」


 あたしが声をかけると、翔太さんは顔を上げて軽い笑顔を見せた。姉さんも「おはよう、佐奈子ひなこ」とパンを食べながら微笑む。

 居候いそうろうして二ヶ月近くになるけれど、二人とも遅起きのあたしに優しく接してくれる。


 二人が出かけると、広いマンションは急に静かになる。あたしはまず、残された食器を洗う。水の音だけが響く空間。それが好きだった。

 自分だけの音に包まれる時間。洗濯機を回して、掃除機をかける。

 家事なんて、離婚するまではろくにしなかったけれど、今は不思議と苦じゃない。身体を動かしていると、余計なことを考えなくて済むから。


 午前十時、自分の部屋でパソコンを開く。今日の仕事は、あるポータルサイトの生活カテゴリに載る美容コラム。専門はスペイン語系の文芸だった。でも、生活のため、質より量を求められる取材コストの低い無記名記事をやるようになった。

 慣れないからというのは言い訳になるけれど、ただ、消費されるための言葉の羅列を連ねていく。これが意外に気が休まる。キーボードを叩いている間、あたしは何者でもない透明な時間を過ごせるから。


 午後は、四時くらいにジムへ行く。汗を流して、筋肉が軋むのを感じるのが好きだ。自分の身体が、まだちゃんとここにあって、自分の意思で動くんだってことを確かめるみたいに。

 トレーナーには、少し痩せすぎですねって言われたけど、あたしは今のこの、余分なものが削ぎ落とされた感じが気に入っている。


 帰りはスーパーに寄って、今夜の夕食の材料を買う。今夜は生姜焼きにしよう。翔太さん、好きだって言ってたから。パックされた豚肉をカゴに入れながら思う。

 顔には出していないみたいけど、姉さんの疲れもきっと軽くなる。小学校の先生って、大変な仕事だからね。純粋なものを守るって、すごくエネルギーを使うはず。


 夕方、先に帰ってくるのはいつも翔太さんだ。

「ただいま」

 リビングに入ってくる彼の声は、少しだけ硬い。あたしは「おかえりなさい」って笑う。その短いやり取りの中、彼の視線がほんの一瞬、あたしのTシャツのラインをなぞって、すぐに逸らされるのを、あたしは見逃さない。気まずさの奥に隠された、熱っぽい何か。姉さんには決して見せない、男の顔。

 今夜、姉さんの帰りがいつもより遅くなったら、どうしようかな。

 冷蔵庫に豚肉をしまいながら、そんなことを考える。


 この家の壁は、それほど厚くない。

 だから夜中に、隣の寝室から聞こえてくる音に気づいてしまう。愛情深いがゆえの、長い、長い不協和音ふきょうわおん。抑えられた姉さんの声と、それに気づかず続くベッドの軋み。

 そして、それが終わったあとの、翔太さんの満ち足りていない時間。翌朝の、愛する人にすべてを捧げた姉さんの、隠しきれない倦怠けんたいの色。


 この原因に、いくつか思い当たることはあるんだ。

 少しだけ、あたしの責任でもある。


 あたしはぬるい生活が好きだけれど、熱いのも冷たいのも嫌いじゃない。そして、ぬるいだけの優しい時間は、大きな不幸を招くことがある。


 三人がゆるさに甘えて、見て見ないふりをしていたら、翔太さんも姉さんも、きっと深く傷つくことになるだろう。不安がすぐそこまで来ているのに、それをじっと待ってるだけの時間は、とても残酷だって思う。


 あなたは「愛」に、答えがあるって思う?


 あたしは、そんなものはないんじゃないかなって思うようになった。

 正しいとか間違ってるとか、そんなのは誰かが後から決めること。「応病与薬おうびょうよやく」って言葉があるように、万能薬なんてないんだよ。今のあの二人には、優しいだけのぬるま湯は、もう毒としか思えない。

 だったらあたしが、劇薬になろうかなって。


 この静かな水の中に、小さな石を投げてみたい。あたしが投げるのは、ただのイタズラじゃないよ。この淀んだ空気を変えるための、最初の波紋。どんな音が鳴るのか、どれだけの波が広がるのかは、やってみないとわからない。

 だから、どんどん投げちゃおう。その方が、何もしないでいるより、ずっといい。

 小石ならほら、もうあたしの手の中にある。一個や二個じゃないからね。投げ方によっては、ちょっとした演奏えんそうにもなる。

 これからのこと、最後までよく見てて。


 イタズラが、人を幸せにすることだって、きっとあるから。

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