人工知能によって語られたクトゥルー神話
小倉蛇
第1話「黒き星の遺産」
第1章:深海の地図
大英博物館の古びた書庫。冬の霧が煙るロンドンの朝、エドワード・ハーヴェイ博士は、埃をかぶった地図の束の中から一枚の異様な海図を見つけた。それは帆船時代のものとは思えぬほど正確で、しかも現代の海図には記されていない一点を指していた。南太平洋の、地理学的に「存在しない」島。
海図の隅にはかすれた筆跡でラテン語が記されていた——“Hic sunt tenebrae. Numquam revenies.”(ここに闇あり。決して戻れぬ。)
博士の心は異様な高鳴りを覚えていた。過去十年間、彼は世界中の神殿や墓所を渡り歩き、古代文明の謎を追い続けてきたが、今目の前にあるこの地図は、これまでに感じたどんな直感よりも強く彼を呼び寄せていた。
地図を抱えたまま彼は書庫を後にし、閑静な邸宅の自室へ戻ると、机の引き出しから一冊の書を取り出した。黄ばんだ革表紙には、読んではならぬとされる名が黒く刻まれていた——『ネクロノミコン』。禁断の知識が編まれたこの書の中に、まさにその座標と一致する記述があったのだ。
「黒き星の下、石の門は開かれ、形なきものは帰還するであろう。」
それがどの文明の残滓なのか、どの神の記憶なのか、ハーヴェイにはまだわからなかった。ただ、その「形なきもの」が彼を見ている、そんな錯覚すら覚えていた。
だが、彼は恐れなかった。むしろ、心の奥底ではそれを「待っていた」のかもしれない。人類の起源に迫る未知。言語を超えた記憶。時間の裂け目から這い出す何か。
こうしてエドワード・ハーヴェイは旅路を決意する。目的地は、南緯23度43分、西経131度12分——何の記録にも存在しない海の彼方。
その日の夜、彼は旅支度を整えながら、窓の外に瞬く星を見つめた。ひときわ暗く輝く、その星の名を誰も知らない。いや、思い出せないだけなのかもしれない。
第2章:黒曜の海にて
貨物船〈エミリア号〉は、静かに南へと針路を取っていた。霧の港を発ってから数日、乗組員たちの表情は徐々にこわばり始めていた。エドワード・ハーヴェイが目的地の詳細を明かさないまま契約したこの航海は、彼らにとっても不気味なほど静かだった。
船長のモリスンは、舵を握りながらぼそりと呟いた。
「ここいらはな…海図が正しいとは限らん。昔、この辺りで“影の波”に呑まれた船の話を聞いたことがある。」
「影の波?」と、エドワードが聞き返す。
「夜の波が、ふいに黒く膨らんでな。月明かりがあっても何も見えなくなる。ただ真っ黒な、ぬめるような闇が迫ってくるんだと。…まあ、ただの漁師の戯言さ。」
だがその言葉が冗談には思えないほど、船の周囲には奇妙な静寂が満ちていた。空には雲がなく、風も吹かず、波音だけが耳に沁みた。
そして航海六日目の夜、突如、嵐が訪れた。
南から迫る黒雲と雷鳴。波は狂ったように高く盛り上がり、船体がきしむ音が船内に響く。エドワードは必死に積荷を押さえ、何度も自らに言い聞かせた。「これも予兆だ」と。
夜半、嵐が収まると、船の前方に島影が現れた。
それは地図通りの位置にあったが、誰の口からもその名を聞いたことはない。潮風に削られた断崖、密集したジャングル、そして中央に異様な黒い影を落とす巨大な石柱群。
上陸を渋るモリスンを強引に説得し、エドワードは小舟に乗って島へ渡った。
陸地に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。湿った草の匂いの奥に、どこか鉄のような、血のような香りが漂っていた。ジャングルの奥で鳥が鳴き、音が一斉に止む。
海岸の片隅に、廃れた漁村の跡があった。石垣と崩れた小屋の残骸。その中の一つに、まだ辛うじて読める碑文があった。
「夜を越えてはならぬ。影は見る者を喰らう。」
突然、太陽が雲に隠れ、周囲が黄昏のように暗くなった。どこからか風が吹き抜け、草木がざわついた。エドワードはふと振り返る――誰もいないはずの森の縁に、何かがいた気がした。
彼の中で、何かが目覚めようとしていた。石柱が呼びかけるように揺れ、島そのものが脈打つように思えた。
黒き星の遺産が、彼の到来を待っていたのだ。
第3章:地下の遺構
島の中心部――黒曜のように鈍く輝く石柱群のただ中に、一本だけ他と違う意匠の柱があった。基部に描かれた曲線的な文様は、どの文明の記録にも一致しない。文字とも絵ともつかぬそれらは、まるで人間の思考を前提としていない存在が記した痕跡のようだった。
エドワードは手帳に素描を取りながら、注意深く柱の周囲を探る。何気なく足元の枯葉を払いのけると、そこには風化した石板があり、中央にうっすらと円形の彫り込みがあった。
彼がその窪みに触れたとき、不意に大地が微かに震え、低く鈍い音が地の底から鳴り響いた。数メートル先の茂みが崩れ、土の中から階段が露わになる。それは地下へと続く、黒く冷たい息を吐き出すような穴だった。
松明を手に階段を降りると、空気は異常なまでに静かで、音が吸い込まれるようだった。やがて視界が開け、彼は巨大な石造りのホールに足を踏み入れる。
そこはあまりにも非現実的な空間だった。
天井は高く、柱には捩じれた生物のような彫刻が施され、壁一面には流動するような曲線の記号が刻まれていた。明らかに人類の美的感覚や論理とは異なる構造――だがそれでも、言葉にできぬ“意味”がそこにはあった。
ホールの中央には円形の台座。その上に安置された黒曜石の球体は、まるで生きているかのように、光を吸い込みながら不規則に脈打っていた。
エドワードは引き寄せられるように近づく。球体の表面には、見る者の視線を滑らせるような錯覚の紋様が現れては消えた。その不定形な美しさに、彼は手を伸ばす。
触れた瞬間、球体が脈打つように震え、まるで心臓の鼓動のような振動が彼の掌を通じて全身に駆け巡った。
そして……世界がねじれた。
石造のホールが波打ち、天井が崩れる幻視の中、エドワードは別の何か――この宇宙の理に属さぬ存在の“記憶”に触れた。音も形もない、ただ蠢く意志の束が、彼の精神に干渉してくる。
突然、壁の奥から重く低いうなり声が響いた。それは言葉ではなく、存在そのものの圧力だった。彫刻された石の間から、影が染み出すように現れる。
それは影ではなかった。影のように見えたが、実際には**“形を拒むもの”**だった。見るたびに輪郭が変わり、肉体の論理を逸脱し、空間そのものを歪ませていた。
恐怖は理屈を超え、本能が叫ぶ。エドワードは球体を握りしめ、後ろも見ずに階段を駆け上がった。
地上へと飛び出すと、太陽は赤黒く染まり、空が歪んで見えた。しかしそれでも、あの“それ”の気配は追いかけてこない。ただ、どこかで世界の亀裂が開きかけていることを彼の身体は知っていた。
そして彼は球体を懐に抱え、あらゆる本能を無視して、島を離れる決意をした。
“あれ”は目覚めたのだ。
第4章:帰還と覚醒
ロンドン、1925年晩秋。厚い霧に包まれた街並みの中、エドワード・ハーヴェイは、無事に帰還したはずの自邸へ足を踏み入れた。しかし、そこはすでに「かつての自分が住んでいた場所」ではなかった。
黒曜石の球体は、書斎の棚の奥深くに厳重に隠された。それでも時折、夜更けにわずかに振動し、埃を巻き上げるのだった。触れずとも、視界の端で揺らめくその存在は、エドワードの心に爪を立てていた。
最初の異変は夢に現れた。
天幕のような黒い星空。その下にうごめく、形なき影の群れ。人ではない、しかし人の記憶を模したような姿で、彼に近づいてくる。言葉にならぬ囁きが耳に流れ込み、「戻せ」「記憶が目覚める」「我らは貴様を見ている」と、心臓の奥を叩いた。
目覚めれば、額には汗、耳にはまだ囁きが残響していた。
日が経つにつれ、現実と夢の境が曖昧になった。郵便配達員の顔が歪んで見えたり、街の壁に見知らぬ文様が浮かび上がったり、街角の影が異様に長く伸びていたり――どれも一瞬の幻と思い込もうとしたが、それらは確実に、何かの「兆し」だった。
夜、自室の時計の針が止まり、家全体が妙に静まり返るとき、彼は確信する。
黒き星はロンドンの空にも昇っている。
孤独に苛まれながらも、彼は球体を調査し続けた。拡大鏡で観察すれば、表面には極微細な動く模様が無数に刻まれている。まるで知覚できない速さで変化し、宇宙の裏側を記録しているかのようだった。
友人の心理学者に相談しようとしたが、口を開くことすらできなかった。何かが彼の言葉を封じている。むしろ、彼の声帯すら、もはや自分のものでないように感じ始めていた。
ある日、ロンドン塔の博物館で「星の下の神話体系」についての古文書展示を見ていた彼は、壁の一角に描かれた異形の図像に釘付けになった。奇怪な星の文様とともに刻まれた影の存在――
それは、夢に現れた“ものたち”そのものだった。
そして、その横に記された短い碑文:
「彼のものは形を持たぬ。名を問うな。名を知られれば目覚める。」
すべては繋がっていた。球体はただの遺物ではない。「門」だった。時間や空間、意識の膜を貫く、存在しないはずの向こう側へと通じる門。
その夜、彼の家の壁が音もなく蠢いた。
影が、生きていた。
第5章:肉のない肉
書斎の時計が午後11時44分で止まっていた。振り子は微動だにせず、部屋中の音が吸い込まれたように消えていた。風もないのにカーテンが膨らみ、壁紙の模様が静かに蠢いて見える。エドワードは机に向かい、ペンを握ったまま、自らの指先が白く冷えていくのを感じていた。
「影が来る」
それは夢の産物でも幻でもなかった。今夜、ついに「それ」が現れるのだと、彼の全細胞が理解していた。
黒曜石の球体は、もはや彼の意思とは無関係に活動を始めていた。棚の奥から赤黒い光を漏らし、低いうなりを発していた。それは呼び声であり、門であり、記録媒体であり、そして……肉を持たぬ“それら”の、もう一つの器官だった。
天井が軋み、壁がゆっくりと裂けていく。そこから「手」が現れた。
指というよりは、指の概念が肉体化したようなものだった。黒く、光を吸い込み、細胞の構造さえ理解を拒むそれは、壁を這い、机の脚を撫で、エドワードの背後に忍び寄った。
叫ぶことはできなかった。舌が粘土のように重く、喉の奥に“何か”が入り込んでいた。
本能が、彼に“球体を渡せ”と命じた。だが同時にそれを渡してはならぬと、もっと深い本能が拒絶した。
「星々の向こう側から奴らが来る」——その言葉が、脳裏に何度も反響する。
彼はふらつきながら机にすがり、手帳を開いた。そして手を震わせながら最後の言葉を綴った。
「あれは……影ではない、形のない肉なのだ!
奴らは見ることでこちらに届く。
私は……もう、見ることを……やめ……」
そこまで書くと、インクがページに滲んで途切れた。
翌朝、エドワード・ハーヴェイ博士の書斎は密室状態で発見された。ドアも窓も施錠されたまま。だが机に残された手帳の最後のページだけが、黒い染みでゆっくりと“食われる”ように崩れていたという。
球体は、どこにも見つからなかった。
ただ――その日以降、ロンドンの空には、決して星図に載らぬ黒点が浮かび続けている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます