消えた紙、望遠鏡で眺めた家

Case:1

「去年のフジロックぶりだなー、高崎来るの」

 十二月十三日。

 午後二時十八分。

 高崎駅。

 乗り換えのためにホームに降り立ち、周囲を見回す。

 昨年の七月末にフジロックへ行った際、近くの快活クラブで寝泊まりした。駅から最寄りのバス停までの最終バスには間に合わなかったので徒歩で向かったのだが、散々歩いた後だったので、かなり足腰に堪えたものだ。ある意味印象深い場所だが、一年経った程度では、駅の様子が大きく変わったりはしないらしい。

「フジロック行ったことあるの?」

「あるよ。人めっちゃ多くて、二時くらいから文字通りの雨霰になった」

 霰に降られたのはあの時が初めての経験だったが、わりと痛かったのを覚えている。お陰で可愛くキメて行った服装が濡れてしまった。

「いいなー。私はそういうの行けなかったからなー。いいなーいいなー」

「うざい………」

 お嬢様ということもあって、お祭り騒ぎのイベントに参加することを許可されなかったのだろう。確かこの女、超が四つくらいは付くようなサラブレットだったか。本来の性格がお嬢様とは真逆なのだから、相当息苦しい人生を送ってきたのだろう。目的地とタイミング次第では、この旅の最中に冬フェスに参加できることもあるかもしれない。だから服の袖を引っ張るな。伸びたらどうする。

 軽井沢に到着するのは、午後三時半頃になるだろうか。ホテルなど予約していないのでキャンプ場を使うことになりそうだが、シュラフは一つしかない。幸い、プリンスホテルの横にアウトドア用品の販売店があるらしいので、今後を考えて、泉の分を現地で購入するべきだろう。




    消えた紙、望遠鏡で眺めた家




 十二月十三日。

 午後三時三十九分。

 長野、軽井沢。

 駅前バス停。

 東京は晴れていたが、山間部ということもあってか、軽井沢の天気は曇り。気温もかなり低い。初心者の冬キャンは危険だって鳥羽先生が言ってたなー、と少々不安になり、スマホを開いて周辺のホテルや民宿などを調べて料金を表示する。そして一つ遠い目をしてみて、そっとスマホを閉じた。

 高い。分かってはいたが、やはり高い。キャンプ場で一泊することにしよう。

 それにしても、と周囲を見回す。軽井沢といえば日本でも屈指の有名所のはずなのだが、駅北側の景観は、以外にも普通の町、といった雰囲気だ。もっとこう、観光地然としているものだと思っていたのだが。

 しかし、マップを開いてみると、やたらとバーや喫茶店が多い。是非入ってみたいところだが、出費を抑えるのであれば、そんな贅沢をする余裕はないだろう。

 次に目を引くのは、やはり広大なゴルフ場か。ゴルフは社会人や政治家の嗜みらしいが、正直あれの何がそんなに面白いのか、私には理解できない。野球もそうだが、棒切れで玉っころを殴って吹き飛ばしているだけではないか。いや、私がスポーツ全般にまったく興味がないのが理由なのだろうが。格闘技なら多少は知識を持っているのだけど。

「それで、この後はどうするの?」

 キャリーバッグの上に座って、泉が私を見る。

 草津か軽井沢に行きたいね、と紅祢と話していたことでやって来たわけだが、軽井沢で何がしたいとか、何を見たいとか、そういう話はしなかった。なので正直、この後の予定というのも考えていないわけで。

「とりあえず、泉のシュラフ買いに行こう。南口の方に店あるっぽいから」

 二人で荷物を駅のコインロッカーに突っ込んで、南口へと抜ける。雰囲気はフジロックの会場である苗場とあまり変わらない。スキー場というのは、どこもこんな感じなのだろうか。紅祢が見たら、どんな反応をしただろう。

 スマホで開いたマップを見る。ここから最も近いキャンプ場は………八風平キャンプ場と、湯川キャンプ場の二つ。近くにコンビニがあることを考えると、市街地近くの湯川キャンプ場が最適か。時間も時間だし、山は日暮れも早く天気も変わりやすいので、シュラフを買ったらすぐにキャンプ場に向かうとしよう。色々と見て回るのは、明日でも問題無い。

 コールマンショップ軽井沢で泉のシュラフを購入し、バスが来るまでの一時間程を、周囲の散策で潰す。ショッピングプラザ裏手の池を眺めて、遊歩道を歩いていると、不意に渡月橋での会話を思い出した。何年か後などないと口にした紅祢の、紅葉とは対照的なあの表情も。

 胸に穴が空いたようだ。喪失感を表す最も一般的な表現である。しかし、実際に喪失感というものを抱いた人間からすれば、むしろ内臓が消えたようだ、と言い表す方が近いのではないかと思う。体の内側の、あらゆる臓腑から質量が消え去り、真空状態となって、それ故に冷たくなる。そんな感覚だ。

 もしも私がもっと踏み込めていたら、今月末くらいに、紅祢と二人でここを訪れていたかもしれない。或いはもう少し北上して、草津で温泉にでも浸かっていただろうか。私がまだ死んでいない理由、その答えは、少なくともこの池の畔には無いらしい。

 紅祢が死んだ理由については、答えのようなものは、初めから得ている。きっと、嫌気が差したのだろう。ただ、それが答えであったのなら────私の存在は、彼女になんら影響を与えることができなかったということで。私の好意も、紅祢の想いも、結局は夜景に融けて消える程度のものだったのだろうか。

 阿比留とスカイツリーを見に行った夜に出会った女、OL作家の出多は、私にこう言った。過去が今を創っていても、未来に意味を持たせるのは、きっとなのだから、と。

 では、紅祢が死んだことを実感して、すでにそれが過去になっていて、死に場所を探すという今を創っているのなら、私の未来にはどんな意味を持たせることができるというのだろうか。

 かしゃり、と隣で音がする。泉が写真を撮ったのだ。しかし、彼女の表情は依然として変わっていない。この場所も、求めている一番綺麗な景色ではなかったようだ。


 湯川というバス停に着いたのは、午後五時十一分。道なりに進み、一度キャンプ場を通り過ぎて、セブンイレブンに入った。買ったのは袋麺と酒、煙草、サラダチキン、そしてカイロ。泉も同じだ。

 受付を済ませて狭いキャンプ場に入る。利用客はどうやら私達だけらしい。この時期にキャンプをする人間など、余程のもの好きか、私達のような頭のおかしい人間くらいなのだろう。

 初めてのテント設営に悪戦苦闘しながらも、なんとか日没までに寝床の確保に成功する。それにしても寒い。焚火が許可されていないので、今夜はシュラフに包まって、凍えながら朝を待つことになりそうだ。




 食事を終えて、ついにやることがなくなった私と泉は、早々にシュラフに入った。長距離移動の疲労から睡魔に襲われた………というわけではなく、単純に寒かったのだ。

 寝転がった状態でテントから頭を出して、星を眺める。東京や名古屋の夜とは違う、光る砂粒を疎らに散らしたような黒い天幕だ。日夜輝く場所を変える星々は、私と紅祢のことなど、もう覚えていないのだろう。唯一北極星だけが、まだ辛うじて記憶に留めていてくれている可能性はあるが。

「泉はさ」

 やることもないので、と少し立ち入った話をしてみることにする。泉と会うのは、今日でまだ四回目なのだ。これからどのくらいの時間を共に歩くかは分からないが、身の上話くらいはしておくべきだろう。

「なにー?」

 と、間の抜けた返事をする泉。

「お嬢様だったわけじゃん」

「そだねぇ」

 以前呼んだネット記事では、彼女の家族についても触れられていた。祖父は有名な写真家で、祖母が茶道の先生。父は大学の教員でテレビ出演もしており、とあるバラエティ番組ではレギュラー枠も獲得している。母はアメリカに本社を置く宝飾関係のブランドショップの代表。兄は京都芸術大学に在学中の役者。そして泉本人も、ピアノコンクールで優勝していると。これだけでも、かなり裕福な家庭で育ったのだろう、ということが分かる。それ故に前から疑問に思っていたのだ。よく旅に出られたな、と。

「知見を深めるべく、夏季休暇という機会を利用し、全国各地の歴史等を調べてまいりたいと考えております………って言ったら、なんかオーケー出た」

 そうか、確かそれも記事に書いてあったか。ホテルのカメラなどには映っているが、それ以降の消息が途絶えている、と。

「すぐに髪染めて、キャリーバッグも新しいのに変えたんだよ。ていうか、服も全部買い替えた」

「服まで………入念だな」

「だって、趣味じゃないんだもん。お嬢様って感じの服」

 どうやら追跡対策もしたようで、スマホも川に投げ捨てたらしい。今の旅費は、出立の際に父親から貰った百万円を切り崩しているのだとか。………娘の旅費に百万円をぽんと出すとは、これにはベネットも満面の笑みを浮かべていることだろう。

「学年一位、どころか学内屈指の成績で、有名お嬢様大学椙山の模試ではすでにA判定。人当たりもよく、常に人の輪の中心にいる人気者。バレンタインには大量のチョコを贈られて、紙袋を貰いに職員室まで行って、帰り道には紙袋を三つも手にしていた、そんなエピソードを持つ黒髪ロングのお嬢様。一家全員有名人、私が優秀なのは当たり前………っていう視線が、なんかつまんなくてね」

 道化じみた声色が、最後には淡泊なものへと変わる。優秀過ぎる子供というのは、私が考えている以上に心に負荷がかかって、病んでいるものなのかもしれない。

「私はお嬢様より、こういう派手で可愛いのが好き」

 自分の髪を一房摘まんで、顔より上へと持っていく。死に場所探しの旅ではあるが、間違いなく、彼女は今ようやく生きているのだろう。

「だから週末とかは、ウィッグ着けたりメイクしたりして、夜遊びすることもあってさ。親には友人の家で勉強会をしてきます、なんて言ってね」

「名古屋で夜遊びか。どっかで擦れ違ってたかもな」

「ねー。言われてみれば、栄辺りで見たことある気がしてくるもん」

「カツアゲしてたら、間違いなくわたしだなぁ」

 名古屋時代を思い出して苦笑する。普通になることをやめた今の私と、あの頃の私。どちらが人間として正常な思考をしているのだろうか。

「てか、泉その見た目でピアノ弾けるの、頭バグりそうになるな」

 ギターとかベースなら、非常によく馴染む恰好になるだろうが。逆に私は、派手な見た目で楽器の一つも弾けないことが、密かにコンプレックスだったりする。といっても、別段練習しようという考えにもならないが。

「まぁ、正直そんな好きじゃないんだけどね」

「好きじゃないのに優勝できるもんなの」

「才能はあったんじゃないかなー。好きじゃないことだから、無用の長物だけど」

 才能があったとしても、それは好きとイコールではない。当たり前のことだが、彼女が育った家庭………というより、意識高い系というか、プライド高い系というか、そういう家庭の人間は、持って生まれた才能を活かす人生を強いられるのだろう。嫌気が差すのも当然といえる。

「次、私の番。ユーはなにしに東京へ?」

「なんとなく」

「成程」

 この一言で納得してしまえるのだから、やはり私が出会う女というのは、皆どこか螺子が足りていない。とはいえ、流石に一言だけでは泉に失礼だろう。

「本当になんとなくなんだけどね。ただ、紅祢と会うまでのわたしって、スリとかカツアゲとか、あと喧嘩………喧嘩っていうか、一方的な暴力かな。そういうのばっかな人間でさ」

 おお、ヤンキーだ、と泉が茶化す。普通、そういう過去のある人間とは距離を置きたがるものなのではないか、とも思うのだが、何しろ私が引き寄せて出会った人間だ。不思議はない。

「もしかしたら、わたしも………なんとなくではあったんだけど、嫌気が差してたのかもなって」

 六畳一間の畳の上で、パンチパーマで息絶える。そんな将来みらいを想像して、嫌になって、でも特に何も考えないままに、なんとなくで上京した。泉の過去を聞いた後だと、我がことながら薄っぺらい。

 シュラフの中で手を動かしてスマホを手に取り、カメラを起動して夜空にレンズを向ける。中古の安物だからか、画面には星が映らない。紅祢と過ごした私の瞳も、きっとこのレンズと同じだったのだろう。

「追跡対策~………」

 と、隣で泉がむくれる。

「いや、今のわたしの全部、結局多分これだから………ごめんて」

 そう言いながら、ただの黒となることなど分かっているのに、夜空を撮影する。やはり、幾光年の彼方を廻る星たちは、この小さな板切れには降りてきてはくれないようだ。

 ラインを起動して、紅祢の名前をタップして、今撮った黒一色の写真を送る。私に取り憑いた彼女の霊が、この冬の欠片を食めるようにと願いながら。

 すでに気温が氷点下まで下がっている所為だろうか。また一つ、体の内から質量が失われた気がした。それと同時に、紅祢が私にかけた呪いが、極わずかに失われたように感じて。

 どれだけ紅祢かのじょにメッセージを送ろうと、それが読まれることなど二度と無い。だからここにいる。記憶は徐々に風化して、何時か風が紅祢を祓う。或いは、それはその時になって、空虚な潮騒へと姿を変えるかもしれない。だからに居る。朝日か西日かも分からない光の中で、立ち止まって、振り返って、そして塩の柱になることを、私は選んだのだ。

 死に場所探し。

 その始発の次。

 軽井沢。

 この場所での死に場所探しは、翌日昼頃に"此処ではない"という結論に達して、それで終わった。

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