歴史の無い夏

Case:1

 寝苦しさで目を覚まし、上体を起こして腹部を見る。脚だ。脚が私の腹に乗っている。

 百均で買ったのであろう電子時計を見ると、時刻はまだ午前五時半前。アラームを設定した時間よりも、三時間程早い。もっとも、これも日常になりつつあるのだが。

「んん~………」

「ぅごっふ………」

 紅祢の肘が、私の脇腹に突き刺さる。まただよ。今日もこんな目覚めか。勘弁してほしい。紅祢の寝相の悪さは凶悪が過ぎる。この問題は早期に解決しなければならない。私の安眠に関わるのだ。いや、安眠以前に命に関わるかもしれない。

「うっわ、まぶしっ………」

 カーテンを少し開けると、朝の日差しが網膜を焼いてきた。紅祢を起こさないよう注意しつつベランダに出ると、午前五時とは思えない気温で、瞬く間に肌に汗が滲み出る。

「………お、電車。朝からうるせぇ」

 五時二十八分発、新宿行きの電車だろう。ダイヤに一切の乱れ無し、世界は今日も平常運行だ。

 赤マルに火をつけて、朝の景色を細目で拝む。ようやく睡魔も収まってきたが、流石に連日この起こされ方では、睡眠不足は免れない。

「まずはベッドだな。はよせんとマジで死ぬ」

 紅祢は………このままマットレスでいいだろう。毎日毎朝、目が覚める頃には床の上だ。ベッドで横になるなど、あの女には勿体ない。

 七月十四日。

 初出勤の朝。

 寝覚めは今日も最悪だが、朝の空気を感じることができるのは、ある意味特権なのかもしれない。これが冬であれば空気も澄んでいて、さらに気分が良いのだが。




    歴史の無い夏




 東京都世田谷区上北沢。将軍池広場の目の前。入口の上に『個人商店モリヤテイ』の文字が書かれ、店先には九十年代には駄菓子屋によくあったであろう、レトロなあれこれが置かれている個人商店。ここが私のバイト先だ。

 店長曰く、そのレトロなあれこれは、前の店から引き継いだものらしい。なんでも、駄菓子屋を経営していた老夫婦が腰や膝をやってしまい、泣く泣く店仕舞いを決意したが、昔の雰囲気を崩したくないと懇願され、断るに断れなかったのだとか。

「はよーざいまーす」

「おはようさん。つっても、もう昼過ぎてっけど」

 高身長で中性的な顔立ちの女が、咥え煙草でスポーツ新聞を広げている光景。場末の酒場と見紛う程だが、ここは暦とした個人商店。要するにコンビニだ。二十世紀少年のアレ。

 店長、守屋もりや しゅんは、その見た目通り、女ウケが非常にいい。近所の女子中学生や女子高生、女子大生から主婦に至るまで、非常に人気が高いのだ。恐らく、女子小学生の初恋相手だったりもする。

 年齢は今年で二十八。しかし三十路を感じさせない若々しさと、それに反する親父臭い趣味を持つという、フィクションから出てきたのでは、という特徴の女。それが私の雇い主である。ネーミングセンスに多少の難がありそうなのと、好んで吸う煙草の銘柄がゴロワーズであるということ以外には、あまり欠点らしい欠点が見当たらない。

「初日が日曜ってのは、ご愁傷様なことだ。しっかり働いてくれよ、女子高生」

「元、ですけどね」

「中退してても十七はJKだろ」

 いや、その理論はどうなのだろう。破綻している気がする。高等教育課程にある女子を女子高生と呼ぶのであって、その過程にない私のような人間は、飽くまでただの女子だ。故に元・女子高生なのである。

 それより、と私服の上から店のロゴが入ったエプロンを着け、店長に向き直る。

「よく雇う気になりましたね。私みたいなの」

 身分証の類が一切なく、連絡先も住所も同居人のもの。明らかに不審人物で、地雷原だ。普通は近付きたくもない、危ない人種だろう。それを店長は、面接時にそのことを伝えると、あっさりとした態度で「で、いつから来れる?」と聞いてきたのだ。

「人生色々だからな。お前くらいの年齢なら、なおさら色々あるだろ」

「口座もないし住民票の写しも持ってこれない。派遣でもないのに給料は直接手渡しを希望………。私なら即追い返しますけど」

 訳アリな若者を好んで雇う異常性癖をお持ちには見えないが、単純な好意というか、理解のある人物だと認識して良いのだろうか。まさか、ただの店員として雇ったのは建前で、流行りのホワイト案件という可能性も………いや、流石にそれはないか。ない、と思いたい。

「おいおーい。雇ってやったのに失礼な想像すんなー」

 口に出ていたのか。いや、出ていたのは顔に、だろうか。

「家にいたくないって奴は、大抵踏み外すモンだからな。どん底に行く前に首根っこ掴んでに戻すのが、ワタシら大人の役目ってだけだ」

「はぁ。大変っすね、大人」

 つまり、道を踏み外し続けて転げ落ちないように、普通の、真面な、昼間こっちとの橋渡し役を買って出た、ということか。私が昼に戻る一歩目の場所に、この店での店員という役割を与える、と。やはり、少々特殊な趣味を持っているようだ。

「禅問答はこのくらいにして、そろそろ仕事教えていいか?」

「禅問答って感じでもなかったですけど。店長、悟り開いてんすか」

「お前よりは多少な」

 成程、年の功というやつか。いや、これも少し違う気がする。

 年の功という言葉を使った所為か、スポーツ新聞で頭を引っぱたかれた。結構髪型には気を遣っているので、本当にやめてほしい。髪型崩れる。店長も一応女だろうに。

「なんか、お前と話してると脱線しまくりそうだな」

 知性によって言葉が生まれ、言葉が対話を生み、対話が知性にさらなる成長を促す。対話の拒否とは即ち人間性を拒み否定することと同義であって、話の腰が折れることもまた一興のはず。

 などと主張すると、最後まで口にする前に、再度新聞で頭を殴られた。今度は丸めた状態で。

「二度もぶった………」

「殴ってなぜ悪いか」

 成程、これが甘ったれだというのか。この女、さては昭和生まれだな。体罰反対。肉体言語反対。私が言っても説得力の欠片もないが。

 レジ打ちや品出しなどを教わりつつ、都度客の対応を任せられる。一応、コンビニバイトの経験はあるので、仕事内容を覚えるのにそう時間は必要ではなかった。唯一文句があるとすれば、店長目当ての女客がかなりの頻度で来店し、場合によっては長話をするので、仕事量が多い………ということくらい、だろうか。

 私はどうやら、店長の遠い親戚という設定になっているらしい。ありきたりだが特別追及されることもない、無難な身分だ。

 と、店内に客がいなくなったタイミングで、ふと重大な問題に気が付く。

 店長はこの町の人気者で、私はその遠縁ということになっている。自分で言うのもアレだが、私も顔立ちは整っている方だし、すぐに覚えられてしまうだろう。そして何より、ここは東京だ。夜商売をしているらしき女も店に来ていたし、都心までは電車一本ですぐに行けてしまう。ということは、つまり、夜の街で私を見つける者が現れる、かもしれない、ということで。

 夜遊びはまだいい。夜遊びをしている遠縁の未成年を雇っているとなっても、多少店長の評判は落ちるかもしれないが、その程度だ。

 問題なのは飲酒と喫煙。如何に理解ありげな店長といえど、それを庇うのは難しいだろう。

「店長」

「んー?」

 今なら客はいない。夕方少し前という時間帯的にも、大挙して押し寄せるということはないだろう。今のうちに口留めをしておかなくては。酒と煙草を抜いてしまったら、私の精神は崩壊してしまう。

「私、夜遊び好きなんですよ」

「だろうな。なんだいきなり」

「もし誰かに、あんたのとこの新人が酒と煙草やってたよーとか言われても、知らぬ存ぜぬってことでお願いします。あとクビにしないで」

「………いや、酒と煙草やめろよ」

 と、ゴロワーズの煙をこちらに吹かす店長。受動喫煙だ。良くない。というかゴロワーズってこんな独特な臭いなのか。確か、燻製煙草、とかいうやつ。ジタンと同じ感じの。

「嫌です。マジで無理です。酒と煙草は精神安定剤で嗜好品です。絶対、必要」

 この年でアルコールとニコチン中毒とは、この先の人生が思いやられる。思いやる人生など、待っていそうもないが。

「つーか、普通に臭いで分かると思うぞ。煙草はワタシには分からんけど、酒臭ぇし」

「マジすか」

「マジっす」

 もう通報されている可能性もあるのか。え、初日で仕事なくなるの。とても困る。

 しかし、店長曰くある程度は大丈夫だろう、とのことだった。法的には完全に大丈夫ではないが、店長も昔は私と同類だったようで、ご近所さんも当時を知っている者が多いのだとか。

「店長、この辺出身なんすね」

「いや、江戸川区」

 全然別の場所だった。

 まぁ、未成年飲酒、未成年喫煙は二十歳未満であれば適応される。恐らく、高校を卒業してすぐに越してきて、夜に溺れかけていたのだろう。私の同類というよりは、紅祢の同類だった、というわけだ。

 それに、と店長が豆知識を披露し始める。

「喫煙者の過半数は、未成年の頃から吸ってるらしいぞ。だから問題ない、って話でもないが、まぁ、大抵そんなもんってワケだ」

 まったく、煙草なんて体に悪いモンはダメだねぇ………と、クールスモーキングでゴロワーズを味わう店長。

 アラン・ドロンを好みそうな趣味をしている割に、吸っている銘柄がゴロワーズなのはなぜだろう。と、どうでもいいことを質問してみた。答えは簡単で、昔はジタンを吸っていたが、今はもう日本では売っていないから。その後はアメスピのペリックに移行するも、こちらも日本では既に入手不可。そのため、泣く泣くゴロワーズを吸っているのだとか。

 黒煙草が好きなアラサー女で、個人商店の経営主。やっぱりこいつ、フィクションから出てきただろ。絶対裏で殺し屋とかやってるタイプだ。

「そういう趣味なら、鞍替え先は普通ピースとかじゃないです?」

「ピースも吸うぞ。あとショッポとか」

 面倒臭い趣味の大人だ。こいつ多分、喫茶店に缶ピーとデカい方のツバメマッチを持って行って、カウンターでそれを吸うタイプの人間だ。

「お前、本当に十七か?よく知ってんな、そんな古いの。親の影響?」

「いや、自分の趣味っすね」

「めんどくせぇJKだな」

 だからもうJKではない。

「ワタシが言いたいのは、つまりアレだ。十代から酒と煙草やってても、別に普通に生きれる。確かに犯罪で、そりゃ良くはねぇし、大人なら何が何でもやめさせろってのが正論だが………ま、溺れるにも理由はあるしな」

 溺れる理由。溺れる理由、か。

 紅祢には、確かにあるのだろう。前に嫌気が差して家を出たと言っていたし、恐らく家庭環境に問題があったのだ。いや、まぁ、逆に問題のない家庭環境とは何かと問われても、そんな家庭は存在しないだろう、としか答えられないのだが。

 では対して、私はどうか。特にないのだ。強いて言えば、逃避である。平凡から、退屈から、社会からの逃避行動。さして家庭環境が劣悪だったわけでもなく、ただなんとなくで、夜に出て、溺れた。

 ワタシもそうだよ、と店長が言う。夜に逃げる奴なんて、大半の動機はそんなもんだ、と。

 普通と呼ぶべき家庭は、きっと案外少ない。だが、それでも世間の殆どを占めているのは、普通に見える家庭だ。その中から、若さというドーパミンに脳を冒されたせっかちな輩が現れて、自分を特別視してほしくて、陽の光から逃げる。

 なんということもない。ありふれた承認欲だ。多くがそれと折り合いをつけて、上手い具合に付き合っていくというのに、それができずに訳も無く腐って、皆ができることができないという部分を特別視して認めてほしいと駄々を捏ねる、子供。

 では、そのどうしようもない子供は、どうすれば大人になるのだろう。

「簡単だよ」

 と、店長。

「不良少年の卑屈な本質と変わらない。長いものに巻かれるだけだ。そうしてるうちに、気付いたらガキのお守りができるようになって、子供って呼ばれなくなる」

 長いものには巻かれない。そう管をまく不良少年達は、その実、かなり従順だ。なぜなら皆、慣れていくから。

 上下関係とか、面子とか、そういったものも結局は全て社会の一部で、何かあればすぐに司法に身を委ねられることになる。それに怯えているその姿勢を"長いものに巻かれている"以外の言葉で、どのように表現できるというのだろう。ある意味、社会の中で最も長いものに巻かれているのは、そこから抜け出そうと口先だけは達者な、不良気取りの非行少年なのかもしれない。

 しかし、店長の言葉の中で重要なのは、"ガキのお守りができるようになる"という部分だ。そこが抜ければそれは、無駄に歳を重ねだだけで、子供でも大人でもない。中途半端に凝り固まって、その環境に慣れてしまった、狸のような害獣だ。

 ずっと、漠然とした不安が胸にある。

 子供のまま歳を重ねた時の、将来の自分の姿に対して。

 子供でなくなった何時かの、未来の自分の姿に対して。

 私もそのうち、パンチパーマで豹柄を着て、畳の上でエコーか何かを吹かして、玄関扉に張られた金返せの張り紙や、郵便受けに入った督促状に怯えながら、次の日を待つのだろうか。

 どうせそうなる。

 だって社会はこうで、私は結局、こうだから。

 何もしないままに毒と愚痴と不満を口から吐き出して、文句を垂れながら死んでいくだけだと分かっていても、やはり行動に移さない。危機感が欠落した、あるものないもの全てを強請る、救いようのない楽天家。

 きっと私は、生きるのに向いていないのだ。

 もっとも、死を選べる程の衝動もないのだが。

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