第9話 掃除

煤けたビルの入口でクロエとヴィンが足を止めた。

受け取ったばかりの金属製の鍵を、クロエが無言でひねる。

重い鉄扉が鈍い音を響かせて開いた瞬間、冷たい夜風が押し込むように吹き込んだ。


中から漂ってくるのは、ひどい埃と錆の匂い。

配管の継ぎ目からは蒸気が吐息のように漏れ、小さな金属音を立てている。

頼りない照明は蛍のように瞬きながら、薄暗い影を床に落としていた。


ヴィンは鼻を鳴らし、吐き捨てるように言った。

「……これが俺たちの新居かよ。」


クロエは足元の埃を確認するように視線を落とし、放置された家具や散らかった汚れを無言で見渡した。

「広さは申し分ないわ。造りも悪くない。」

「ただ……住むには掃除が必要ね。」


二人でゆっくりと奥まで歩く。

埃をかぶったソファ、染みの浮いたスプリングベッド。

壁紙は所々めくれて、曇り切った窓ガラスは外の灯りを鈍く透かしていた。


クロエは手袋越しの指先でソファを軽く押した。

黒い埃がもわりと舞い上がる。

「これは……無理ね。」


ヴィンは肩をすくめて笑った。

「ベッドもアウトだな。」


クロエは軽くため息をついて、取り出した小さな手帳に淡々と書き込む。

「ソファとベッドは買い替え。あとは……まあ、おいおいでいいわ。」


少し沈黙が落ちたあと、ヴィンが視線をクロエに戻す。

「じゃあ……掃除、しようか。」


クロエは怪訝そうに目を細めた。

「……今?」


ヴィンはおどけたように肩を上げた。

「片付けは苦手だけど、掃除はできるんだ。」

「放っとくともっと酷くなるだろ?」


クロエはしばらく無言でヴィンを見つめ、やがて小さく笑った。

「……分かったわ。」


場面は近所の雑貨スーパー。

夜遅くまで営業している、明るすぎる蛍光灯に照らされる通路。

ヴィンはモップ、雑巾、洗剤を慣れたようにカゴに放り込む。

その横でクロエは、手にしたゴム手袋をじっと見つめた。


「まさか、こんな物を自分で買う日が来るとは思わなかったわ。」


ヴィンはカゴを下ろして振り返り、軽く笑った。

「お嬢様だって掃除くらいするだろ。」

「最初が肝心だって。」


クロエは少しだけ息を吐き、呆れたように笑みをこぼした。

「……わかったわ。」


クロエはゴム手袋を握り直した。こんなこと、一人なら絶対にしなかっただろう。ヴィンがいるからできる。


拠点に戻る頃には深夜を回っていた。

二人は無言で作業を始める。

埃を払い、ゴミ袋をいくつも並べ、雑巾はあっという間に真っ黒になる。

窓を全開にして、ゾルクの湿った夜風を入れると、埃臭さがわずかに流れ出ていった。


ヴィンはモップを壁に立てかけ、呼吸を整えながら室内を見回した。

「……見違えたな。」


クロエは腕を組み、じっと空間を眺めた。

配管はまだ古いまま、壁紙も剥がれたまま。

でも、埃はない。床は鈍く光を返す。


「……そうね。」


ヴィンが少しにやっと笑った。

「やっと“家”って感じ。」


クロエもゆっくりと頷いた。

「ええ、“家”ね。」


夜風が流れ込み、窓や壁が小さくきしんだ。まるで家そのものが息を始めたように思えた。

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