第2話 煙草の香りごと、君に飲み込まれそうな夜

 凛から連絡が来たのは、再会して数日も経たない頃だった。


「東京戻ったよー。あおちゃん、今度飲まない?」


 やけに軽い文面に、思わず笑ってしまった。

 深く考える前に「いいよ」と返していて、気づけば今、駅前に立っている。



 ふたりのちょうど中間にある、小さな私鉄の乗換駅。


 都会のざわめきと、どこか下町の空気がまじった、不思議な雰囲気の街。

 夕暮れの色が完全に落ちて、駅前には黄色い光が滲んでいる。

 自動販売機のモーター音と、どこかから聞こえるたばこの火をはじく音。

 制服姿の高校生が笑いながら通りすぎていった。


「──あ、来た」

 ロータリーの向こうから、ゆるゆると手を振ってくる人影。


 金髪に白いタンクトップの上にシャツをゆるく羽織り、ダメージの入ったジーンズ。

 ラフすぎる格好なのに、どこか街に馴染んでいて、やっぱり目を引く。

 ふわっとした笑みを浮かべて近づいてくる。


「お待たせー」

「ううん全然。今来たとこ」


 中学の時からの慣れた会話。

 でもその声を聞いた瞬間、胸の奥がふわっと波立つ。

 姿はもう、あの頃とまるで違うのに。

 それでも"凛"だとすぐにわかるのが、なんだか悔しいような、不思議な気持ちだった。

 並んで歩き出すと、凛がふわっと腕を絡めてきた。


「……っ」


 一瞬、心臓が跳ねる。

 触れた部分がじんわりと熱を帯びる。


「……なんか、そういうとこ、変わらないね」

「あー、ごめん、癖で」


 さらりと言いながらも、凛は腕をほどこうとはしなかった。


 二人で歩く夜の道。

 電柱の影が舗道に落ちて、風がシャツの裾をすべらせる。


「あおちゃん、覚えてる? 小学生のときさ」

「うん?」

「男子に石投げられて泣いてたら、あおちゃん来て、めっちゃ怒ってくれた」

「石……?そんなことあったっけ?」

「うん、石。割とでかめのやつ」

「え、まじで覚えてない」

「あおちゃん、真顔で"お前、今すぐ謝れ"って言って、そいつのランドセル地面に叩きつけてた」

「……それ、私ただの乱暴者じゃん」

「違うもん。あおちゃんまじでかっこよかったんだから」


 そう言って、凛は小さく笑った。

 口元だけで、でもどこか本気みたいな笑い方。

 私は返す言葉が見つからなくて、夜風に目を細めた。

 記憶のどこかで、その日見た小さな背中と、泣き顔がかすかに浮かぶ。


 ふたりで曲がり角を抜けると、明かりの灯った居酒屋が見えてくる。

 木の引き戸にかかった暖簾が、風に揺れていた。


「ここ、よさげじゃない?」

「うん、いいかも」


 カラカラ、と引き戸を開けると、ふわっと出汁の香りが鼻をくすぐった。

 小さなテーブルと、木目のカウンター。

 少し騒がしい店内の、ちょっと奥の席に案内される。

 席に着くなり、凛が隣に滑り込んできて、また自然に距離を詰めてくる。

 ドリンクのメニューを凛が覗き込んでくる。その距離感に、心の奥がまた静かにざわついた。


「生ビールと、ポテトください。あと、カシスオレンジで」

 そう言って私がオーダーを済ませると、凛はぽろりと言った。


「ビールとか大人って感じ」

「私も最初は“うわ、にがっ”って思ったよ」

「やっぱり?苦いよね」

「でも、慣れるとね……仕事終わりの体に染みるのよ、これが」

「……あおちゃん、急におっさんみたい」

「失礼な。あんたも社会人になったら分かるよ」


 凛はクスッと笑い、グラスのカシスオレンジに口をつけた。お酒あんまり飲めないって言ったわりには、ペースが早い。


「そういえば……吸ってもいい?」

「え?」

「タバコ。ここ、喫煙席だなって」

「あ、ああ、うんいいよ」


 言いながら、凛はゆるく首を傾けた。カバンの中から取り出したのは、コンパクトなライターと細身の煙草。

 その仕草に、なぜだか胸がざわつく。


「……吸うようになったんだ」

「うん。タバコやだ?」

「いや、平気。ちょっと意外なだけ」


 凛はゆるく笑って、火をつけた。白い煙がふわりと立ち上がる。そのまま目を細めて私とは逆の方向へとふうっと息を吐く。


 小さな口元から吐き出された煙が、ちょうど照明にかかって、ふんわり揺れていた。

 その仕草が、思いがけず色っぽくて。

 ……言葉を飲み込んだ。


「なに?」

 凛が首をかしげてこちらを見る。


「……いや、なんでもない」

「うそ。あたし、変な顔してた?」

「ううん。ただ、ほんとに大人っぽくなったなと思っただけ」

「ふふ、あおちゃんも大人になってまた綺麗になったね」

「はいはい」


 笑いながら、またひと口、煙を吸う凛。

 口元から漏れる煙と一緒に、ほんのり甘いリキュールの香りが漂った。

 どこか幼さの残る顔なのに、タバコが不自然に似合ってる。

 そのギャップが、なんだか悔しくなるくらいに綺麗だった。


「……あおちゃんは」

 ぼーっと横顔を眺めていたら不意に目が合ってドキッとした。


「ん?」

「彼氏、いるの?」

「……うん。いる。大学の頃からずっと一緒。もう5年になるかな」

「わ、長っ。ってことは……もう結婚視野?」

「……たぶんね。特別ドキドキするとかはないけど、安心できる関係かな」

 凛はグラスを少し傾けて言った。

「……そっか。あおちゃんらしいね」


「……あたしもね、最近できた」

「へぇ。どんな人?」

「違うバンドの人。ギターの人って、なんかずるいよね。ギター持ってるだけでかっこいいもん」

「へえ、バンドマン…」

「……付き合ったばっかなんだけど、めっちゃかっこよくてさ。1つだけ年上なんだけど、大人な感じで」


 その顔は、ほんの少し頬を染めていて。

 ふだんのダウナーな表情との落差に、私は思わず見とれてしまった。


「……あ、なんか酔ってきたかも」

 凛が私の肩にもたれてくる。

「だいじょぶ?」

「んー……だめ。帰れなさそう……泊めて?」

「……いいけど、部屋、片付けてないよ」

「大丈夫〜。そういうの気にしないタイプ」


 ---


 玄関を開けた瞬間、凛が「おじゃましまーす」と小さな声で言って、スニーカーを脱ぎ、よたよたと中へ入ってくる。


「あおちゃんの部屋って感じ。片付いてるじゃん……すごく綺麗で、落ち着く……」


 言いながら、凛は鞄をその辺にぽいっと置いて、ふにゃりとソファに倒れ込んだ。小柄な身体がクッションに沈んで、まるで溶けていくみたい。


「本当に片付けてないけどね……なんとなく見えそうなとこだけ整えてるだけ」

 私が照れ隠しのように笑うと、凛はごろりと寝返りを打ち、うつ伏せのまま顔だけこちらを向ける。

 頬はほんのり赤く、目元がとろんと緩んでいる。明らかにさっきより酔いがまわっていた。


「はい、水置いとくからね」

「ありがと」


「……ねえ、あおちゃん」

「ん?」


「中学のとき、キスしたの……覚えてる?」


 その一言に、グラスを持っていた手が、ぴたりと止まった。

 氷が、カラン、と静かに音を立てる。


「……」

「覚えてない?"練習"って言ってさ。あたしがしたやつ。……あのとき、緊張したんだよ?」


 酔った声は舌足らずでどこかあどけなくて、でも少しだけ拗ねたようでもあった。

 思い出が、スッと胸の奥に差し込む。


 冬の放課後の体育館裏。

 夕焼けに染まるグラウンド。

 誰もいない静けさの中で、制服の袖を引かれて、ふと見下ろしたあの顔。


 そして、唇を交わす瞬間。


「……覚えてるよ」


 ポツリと漏らした声が、自分のものとは思えなかった。

 凛のまつげが、ふるふると震える。


「ふふ、よかった……。あたしばっかり覚えてるの、寂しいもん……」


 そう呟いたあと、凛は目を閉じて、ソファの背にもたれるようにぐったりと身を沈めた。

 その寝顔は、まるで小さいころのままだった。

 小さくて、甘えんぼで、でもどこか放っておけなくて。


 私はキッチンカウンターにもたれてウイスキーを口に含みながら、ぼんやりと凛を見つめる。


 夜の静けさの中で、聞こえるのは時計の針の音と、心臓の鼓動だけだった。


 ──こんなふうに再会してしまうなんて。


 そう思った瞬間、胸の奥で、何かが軋んだ。

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