あなたの彼女じゃないけど【完】

灰庭たま

第1話 名前を呼ばれて、心が跳ねた

 通勤電車の中で、スマホをいじるでもなく、ただ窓の外をぼんやりと眺めていた。


 車窓を流れていく景色は、毎朝同じようにくすんでいて、いつもと同じ速度で遠ざかっていく。

 混み合う車内の熱気と、吊り革が揺れる微かなきしむ音。誰かのイヤホンから漏れるベース音が、遠くでかすかに震えている。


 毎朝同じ時間に、同じような顔ぶれと同じ揺れに身を任せる。

 降りる駅も、向かう会社も、口にする挨拶も、すべてが既視感でできている。


 ──黒川葵、24歳。東京に出てきて、社会人2年目の春。


 学生時代から付き合っている彼氏がいる。

 最初はときめきもあった。でも今は、穏やかで、安定した関係。

 週末に一緒にスーパーに行ったり、ネットドラマを見ながらだらだらしたり。そういう生活。


 ──多分、このまま結婚するんだろうな。


 時々そう思う。でも、不思議と「それでいいのか」と考える余地もなかった。

 流れるままに生きるのが、大人になるってことなのかもしれない。


 ***


 連休中に、有給をくっつけて少しだけ帰省した。


 久しぶりの地元の空気は、思った以上にやさしかった。

 アスファルトに差し込む光は柔らかく、スーパーの袋をぶら下げたおばさんの声が遠くから響いてくるだけで、どこか安心した。


 駅前のバス停があった場所には、知らないカフェができていた。

 見慣れた街の中に少しだけ変化が混じっている。そんな違和感も、懐かしさの一部だった。


「──あおちゃん?」


 家の近くの横断歩道を渡ろうとしたとき、不意に背後から名前を呼ばれた。


 思わず足を止めて振り返る。

 春の風が一瞬、髪を揺らす。


 そこに立っていたのは、金髪のロングヘアの女の子だった。

 白のワンピースの上から、肩の落ちたグレーのパーカーを羽織っていて、手にはコンビニの袋。耳には黒のピアスが光り、黒いマスクをつけている。


 声に、どこか懐かしさがあった。

 マスクを顎までずらし、視線が合った瞬間、彼女がにぱっと笑った。


 その顔を見て、私は息を呑んだ。


「……もしかして、凛?」

「あ、やっと気づいた」


 笑いながら、彼女がすっと距離を詰めてくる。

 胸元に、小さな体がふわりと飛び込んできた。


「え、ちょっと」


 反射的に身体がこわばる。

 でも、凛の体温は変わってなかった。小さくて、あたたかくて、少しだけ甘い香水の匂いがした。


「ひさしぶり、あおちゃん。中学ぶりだね」

 名前を呼ばれて、心臓が一度、大きく跳ねた。


 2つ年下で、家が近所で小さい頃からの幼馴染。

 中学のとき、一緒に部活をしていた後輩。

 当時は黒髪ぱっつんで、背も低くて、人懐っこくて。

 部活のあと、私のあとをちょこちょこついてくるような、妹みたいな存在だった。


 今目の前にいるのは、金髪に染めて、メイクも濃いめ。

 目元はくっきりして、ピアスが光って、服装もゆるくて垢抜けていて──まるで別人みたい。


「……久しぶり。びっくりした。雰囲気、変わったね」

「よく言われるー。でも、中身はあんま変わってないよ?」


 無邪気に笑って、凛は小さく首を傾げた。

 その角度や仕草だけが、昔とまったく同じで、胸の奥が少しだけきゅっとなった。


「いま大学長期休みで帰省中なんだ。あおちゃんも?」

「うん、たまたま。ちょっとだけ仕事休み取れて」

「このあと時間ある? お茶とか、どう?」

「お茶?」

「うん。今日、地元の友達と会う予定だったんだけど、都合悪くなっちゃったらしくて。久しぶりに、あおちゃんと話したいなーって」


 そう言って、凛は私のシャツの袖口を引っぱる。

 中学生のときから、この子はこうだった。距離感がおかしいくらい近い。


「……じゃあ、ちょっとだけ」

「やった」


 無邪気な笑顔。けれど、あまりにも綺麗になっていて、

 私は一瞬、目を逸らした。


 ***


 駅前のカフェ。窓際の席。

 午後の日差しがガラス越しに差し込んで、テーブルに影を落としている。


 凛がカフェオレのストローをくるくる回しながら、ふっと笑いながら言った。


「中学のころ、放課後いつも寄ってたゲーセンあったじゃん」

「ああ、駅前の?」

「それそれ。あそこ、潰れたらしいよ。こないだ通ったら更地になってた」

「うそ、まじか。……あそこでよくプリとか撮ってたよね」

「撮ったー。変顔で」

「うん、あんた変顔めっちゃうまかったもん。極めてた」


 笑いながら話す凛の目が、どこか懐かしさに潤んで見えた。

 私も、思わずつられるように笑っていた。


「……そういえば、バスケ部のえりいたじゃん、結婚したらしいよ」

「へぇ、マジで?えり先輩?」

「この前インスタで流れてきた。もうそんな歳かーって思った」

「……みんな、大人になってくね」


 カフェのガラス越しに、春の光が差し込んでいた。

 ストローをくわえながら、凛がふと首をかしげる。


「ねえ、あおちゃんってさ……東京でどこで働いてんの?」

「え? ……丸の内。オフィス街って感じのとこ」

「え、まじ? あたしその何駅か行ったとこの大学通ってる」

「えー、それ、めっちゃ近いじゃん……」

「ね、すごい偶然じゃない?」

「……っていうか、普通にすれ違ってたかもね。朝とか」

「だね。あっちでもあおちゃん気づいてくれなさそうだけど」


 そう笑いながらつぶやいた凛は、ふとグラスに視線を落とし、指先でグラスの縁をなぞる。



「……あのさ、あおちゃん」


「ん?」


「東京でも、会ってくれる?」


 その声は、ふだんの舌足らずな調子より少し低くて、真剣だった。


 私は一瞬、言葉を失ったけど——


「……うん」


 笑って返した。


 表情は笑っていたはずなのに、胸の奥が、少しだけざらついていた。

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