第1章第1話第1部:泣かぬ子

 霧深き時、緑の谷にて、新たなる生命として生まれたパボラムは命の瀬戸際に立たされていた。


 その朝、谷は霧に沈んでいた。木々の葉は濡れ、枝は音もなく揺れ、冷気は地を這った。空気は肌にまとわりつくほど重く、白い霧が森をすっかり覆っていた。


 そんな中、ひとつの命が、予定より一月も早く、突然この世に姿を現した。名を授けられていたその子は、皆の期待を背に、まだ春浅い朝に生まれ落ちた。


 母モロチャンベルは苦しみの叫びとともに、樹皮と繊維で織られた産室の中で激しくうねった。


 まだ準備の整っていなかった周囲は混乱し、助産を担う女性たちは声を荒げ、手を慌ただしく動かした。彼女は痛みの波に何度も呑まれながら、最後の力を振り絞る。


 やがて、湿った羽衣のような飛膜に包まれた、小さな、小さな命がその姿を現した。いきむ母の声と共にあたりを歓声が包む。


「やった!」「よかった!」お父さんたちも慌てて掛けける「うまれたぞぉぉっ!」「よくやったぁぁぁ!」止まらない喜びの声がはじける。しかし、


 しかし——静かだった。


 泣き声はなかった。空気を切り裂くべき第一声は、霧の中に生まれなかった。赤子の身体は蝋のように白く、信じがたいほどに小さく、指先は透けるようで、その胸はまるで呼吸をためらうかのようにかすかに動いていた。


 あまりの静けさに、産室にいた者たちの顔から喜びの色が引き、代わりに不安と恐怖が忍び寄る。


 母モロチャンベルは虚ろな瞳のまま、その子を腕に引き寄せ、肌の温もりで包み込んだが丸一日に渉る格闘に疲れ切ったモロチャンベルは生まれたばかりの我が子を抱いたまま気絶するように眠った。


 頭の奥では、あの日──幼いころ、抱きしめたまま冷たくなった妹の記憶が、ぼんやりと浮かんでいた。


 お母さん達はモロチャンベルからそっと、しかししっかりと抱き上げ柔らかい毛布で優しく包み込んだ。しかしその子、パボラムは、目を開いたまま何も訴えなかった。


 未熟児——あまりにも未完成な状態でこの世界に生まれてしまった彼の命は、始まりから崖の縁にあった。呼吸は浅く、体温はすぐに失われ、四肢の動きも弱い。生後まもなく、彼の鼓動は弱く感じられ、身体はまるで抜け殻のように冷たかった。そのたびに共同体の者たちは彼のまわりに集い、小さな手足を擦り、祈るように命の火を呼び起こそうとする。


 誰一人、諦めなかった。


 お母さんたちは昼夜交代で看護を続け、父たちは無言のまま、その命の行方を見守った。けれど、胸の奥では誰もが気づいていた。パボラムの生は、まるで羽毛の上に置かれた露のように、壊れやすく、儚かった。


「……泣いて。」誰かが呟いた。


 他の乳児たちが泣き声で空腹や不快を伝える中で、パボラムは沈黙を貫いていた。それは生きるための最も基本的な「主張」の欠如だった。生存を周囲に知らせることができない者は、自然の摂理の中では真っ先に淘汰される。だからこそ、お母さんたちはその沈黙に怯えた。泣かない子。声を上げない子。それは、彼自身が命を望んでいないようにさえ感じられた。


”泣かない子は困る”昔からプラシレヴォに伝わる誰かの言葉が、霧のように気付くと立ち込めている。


 パボラムの目は、確かに開いている。その奥に宿るべき光は弱々しいからだとは対照的に、まるで何かを見据えるようにただ一点を打ち抜くように強かった。母さんたちは、腕の中のその命を見つめながら、ただただ、じっと抱きしめた。震える手で、体を温め、祈り、名を呼んだ。


 この谷に流れる霧が晴れるその日、果たしてパボラムはいつ声を上げるのか、誰にもそれはわからなかった。


 だが、ひとつだけ確かなことがあった。——それでも、この命を守ろうとする多くの手は、決して離されなかった。


 冷たい霧が谷を包む早朝、パボラムの命は小さく震えていた。パボラムは、生まれてから何度か呼吸が止まる。


 そのたびにお母さんたちはお湯の中で温めた暖かい手でこのこの体を撫でる。未熟な体にとって、この世界はあまりにも過酷だった。


 呼吸が止まり、体が冷え、動かなくなるたびに、共同体の者たちはその小さな命を囲み、震える手で蘇生を試みた。


 そのとき、誰ともなく声が上がった。


「誰か、温めた毛布を──」


「私が!」


 慌てて駆けるその人は、モロチャンベルの姉ではない。だが、彼女と共に子を育て、畑を耕し、寒い夜に一緒に焚き火を囲んできた女だった。彼女が手渡した布を受け取り、また別の女がパボラムの手を撫でる。年の離れた少女がそっと母の背をさすり、黙ったまま涙をこぼす。


 誰の子なのかという問いは、この谷には存在しなかった。


 自分の腹を痛めた子ではない。しかし、一緒に食べ、一緒に笑い、一緒に寒さに震え、精霊に祈りを捧げてきた日々が、ただの隣人を“母”に、“家族”に変えていった。


 ここで生まれた命は、すでに皆の命だった。


 それはただの感情の継承ではない。


 何世代もかけて交わされてきた血と、共に営んできた暮らしのすべてが、この場にいる全てを“親”に、“きょうだい”にしていた。


 誰ひとり諦めることはなかった。それはこの大家族の中での当然であった。今目の前にいる赤子は”我が子”なのである。


 何度も何度も、祈るように心肺をさすり、ほんのわずかな鼓動の兆しを見逃すまいと必死だった。


 風は止み、時が凍ったようだった。


 そんなある日、心配の募ったお母さんたちは、一人の名高い精癒術者──ジャルチェンコを緑の谷に招いた。三日経っても泣かぬパボラムの小さな胸に、ジャルチェンコはそっと耳を当てた。老いた術者の長い指がその柔らかな肌をなぞるたび、お母さんたちの息が止まる。深いため息と共に紡がれた診断は、無情だった。


「……心臓に小さな穴が空いている。これでは血が正しく巡らん。あと一週間が限度じゃろう。」


 その言葉は霧雨のように静かで、雷のように心を引き裂いた。誰ともなく嗚咽が漏れた。ここでは“母”とは血縁だけを指さない。この共同体の出産を経験した全ての女が母であり、すべての子を慈しむ。だからこそ、その涙は一人のものではなかった。


 ジャルチェンコにすがる父たちの声も虚しく、老術者は首を振るだけだった。


 誰からともなく、母たちのひとりがジェルチェンコの袖を掴んだ。


 モロチャンベルがよろめくように一歩を踏み出しかけたとき、すぐ隣にいた女がそっと腕を取って言った。「あなたは、座っていて。……ここからは、わたしたちが。」


 その言葉に、モロチャンベルはふと立ち止まり、わずかに首を振るが、もう一人の女が毛布をそっと掛けながら微笑んだ。「もう十分、頑張った。パボラムの“お母さん”は、ここにたくさんいるのよ。」


 そして次の瞬間、彼女たちはまるで合図したかのように術者のもとへ駆け寄っていった。


 それは、全てのお母さんがパボラムを我が子として、彼女の痛みを、自分たちのこととして叫ぶ――その、母たち自身の声だった。


「治せるんでしょう……あなたなら、ねえ……!」


 次の瞬間、堰を切ったように数人の女たちが老術者のもとに駆け寄った。中には涙をこらえきれぬ者もいた。ふらふらと膝をつき、術者の衣にすがるようにして口々に叫ぶ。


 言葉の先で、術者の指先がわずかに動いた気がした。


 すがるような目で、その動きを追いかける――祈りでも、叫びでもない。ただ、どうか、と願う気持ちだけがそこにあった。


「あなたは今までも、たくさんの命を救ってきたって……!」


 その声は、祈りとも、呪いともつかぬ響きを帯びていた。膝をつく女もいれば、唇を噛んで声を失う者もいた。理を越えた思いが、術者に押し寄せていたが、それは暴力ではなく、心が壊れぬよう感情を保とうとする最後の支えだった。


 母たちは、ただ願っていた。ただ、生きてほしい──その一心で。


 老術者は黙ってそのすべてを受け止めた。まなじりを震わせながらも、一歩も後ろに退かず、ただ静かに頭を垂れた。


 そして、ゆっくりと、彼は言葉を紡いだ。


「精癒術は……命が自ら癒やそうとする力に、そっと寄り添う術じゃ。」


 お母さんたちが押し寄せるように耳を傾ける。


「じゃが……この子の心臓は、その力では決して癒えん。どれだけ時をかけても、ふさがることはない穴じゃ。」


 凍りついた空気の中で、誰かが「でも……」と声をかけかけて止まる。


「これはいわば……怪我ではない。精癒術は“癒えようとする力”を早める術じゃ。命の営みを超えて生をねじ曲げる……そんな力ではない。ない力を早めることは、できんのじゃよ……」


 静かな言葉だったが、雷のように心を打ち抜いた。誰ともなく、嗚咽が漏れた。


 その瞬間、モロチャンベルの心は締めつけられた。腕の中のパボラムは、呼吸さえ儚く、まるで風のように軽かった。けれどそこから発する僅かな温もりは確かに、ここにあった。


 彼女の耳には、ふとエドゥマルンのすすり泣きが聞こえた。モロチャンベルはそっと視線を向けた。エドゥマルンは微笑もうとしていたが、その唇は震えていた。


「十五年前……あの時も、同じように泣かない子だったの。わたしの最初の子。名前もつける前に、逝ってしまった。」


 静かな声だったが、モロチャンベルの心には深く響いた。


「……もう、私の光を奪わないで……」


 彼女の両手がパボラムの頭を包み込むように覆った。


 モロチャンベルの脳裏には、自身の幼き日々がよみがえっていた。幼い妹が、真夜中に亡くなったあの日。お母さんたちの腕の中で冷たくなったその小さな体。生母が声をあげずに泣き続けた朝。──あの時、自分は泣きたくても、ただただ声を殺していた。泣くことすら、許されないそんな切ない雰囲気だった。


「この子には、生きていてほしい。ただ、それだけでいい……」


 モロチャンベルは胸元のぬくもりを確かめるように、そっと目を閉じた。


 あの日、冷えきった妹の体を思い出しても、今この腕にある命は、まだ確かにここにある。


 ──だったら、それを信じたい。ただ、それだけだった。


 泣かなかった妹。泣けなかった自分。そのどちらも、この子の中に重なっている気がした。


 お母さんたちは諦めなかった。震える手で抱きしめ、交代で乳を含ませようとし、体を温め続けた。パボラムの小さな胸がかすかに上下するたび、誰もが心の奥で祈った。どうか──この命が、風にさらわれませんように。


 老術者の去ったあと、お母さんたちは互いに支え合いながら、言葉もなく寄り添った。その夜、モロチャンベルはパボラムを胸に抱いたまま、目を閉じた。


「……あの子が生きられなかった分も、あなたには生きてほしい。」


 一番遠い月の光が静かに差し込む中、小さな命の鼓動は、確かにそこにあった。

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