秘書問題 〜画面の向こう側〜

好逢

プロローグ



六畳の部屋に、紅茶の香りと、冷たい夕暮れの光が滲んでいた。

橘紗季は、湯気の立つマグカップを両手で包み込みながら、黙って窓の外を眺めていた。


週末の午後。少し前までは、彼と一緒に出かけていた時間だった。

スーパーで食材を選び、映画を観て、くだらない会話をしながら夕飯のメニューを決める――。


「全部、私が壊したんだ」


つぶやいた声は、カップの湯気に溶けて消えた。



婚約を解消したのは、半年前。

入籍予定日の、わずか一ヶ月前だった。


理由は、マリッジブルー。

――というより、もっと漠然とした“怖さ”だった。


このまま結婚して本当に大丈夫なのか。

私の人生はこの人で正しかったのか。

答えが出せないまま、毎晩ベッドで眠れずにいた。


彼は何も悪くなかった。むしろ、優しくて、誠実で、私の不安に寄り添おうとしてくれていた。


でも、優しささえも息苦しく感じた。

追い詰められていたのは、たぶん私だけだった。



「ひとりでいい」

そう決めたはずだった。


友人の結婚式に出ても、年末の実家の帰省の時にも

無理に笑って、強がって、平気なふりをした。


でも、それは“慣れた”だけだった。

本当は、いまだに夜が怖かった。

部屋の静寂が、誰かに必要とされない自分を容赦なく照らす。



ある日、何気なくスマートフォンを開いたときだった。

SNSの広告欄に、マッチングアプリのバナーが表示された。


《ひとりで過ごす夜に、ちょっとしたトキメキを。》


「ふーん……」


興味なんてなかったはずだ。

でも、そのときはなぜか指が動いていた。

軽い気持ちだった。ただ、誰かと話してみたかっただけ。


「どうせ、すぐ消すし……」

「ご飯ご馳走してもらってそれで終わり、、、。」

そう自分に言い訳しながら、登録ボタンを押した。



プロフィールに使う写真は、去年の秋に撮ったもの。

友人の結婚式の帰り、ふと鏡に映った自分の顔が思いのほか笑っていて、

珍しく保存していた。


名前はサキ、年齢は32歳、職業は会社員

趣味欄に「カフェ巡り」「読書」「映画鑑賞」と書いた。

本当は最近どれもしていない。けれど、思い出せば、好きだったものばかり。


「こんなことで、何か変わるのかな……」


呟いた瞬間、メッセージ通知が届いた。

まだ誰にもプロフィールは見られていないはずなのに。

開いてみると、そこにはこう書かれていた。


《はじめまして。もし良ければカフェでランチでもいかがでしょうか?》


指先がふるえた。

心の奥にしまっていた何かが、そっと、目を覚ましたような気がした。



その日から、私は“誰か”を通して、自分自身と出会っていくことになる。

本当は、ずっと見て見ぬふりをしてきた“私”に――。

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