第12話『泣きたいときの傘』
「今日の荷物は——」
ヨルが不思議な笑みを浮かべた。梅雨の朝、店内に雨の匂いが漂っている。
棚から取り出されたのは、深い藍色の和傘。柄には銀色の雨粒模様があり、よく見ると一つ一つが涙の形をしている。
「傘? でも、持った瞬間に重く感じる」
「それは持つ人の心の重さを感じ取るからさ。これは『泣きたいときの傘』。涙を雨に変える力がある」
「涙を雨に……」
「でもね、ヒバル君。この傘には、もう一つ秘密があるんだ」
ヨルの時計の目が、じっとヒバルを見つめた。
「もう一つ?」
「それは、使った人だけが分かる」
配達先は、隣町の小学6年生、ダイキ。野球部のエースで、誰もが認める硬派な少年だ。
商店街にあるスポーツ用品店『剛田スポーツ』の看板が見えてきた。店の前で、大柄な男性——ダイキの父親が、荷物を運んでいる。筋骨隆々で、まるでプロレスラーみたいだ。
「すみません、ダイキ君に配達物です」
「おう、ダイキか。2階にいるぞ。最近部屋にこもりっきりでな」
父親の声は太いけど、どこか心配そうだった。
2階へ上がる階段の途中で、壁に飾られた写真が目に入った。少年野球チームの集合写真。その横に、もっと古い写真——若い頃の父親が、高校野球のユニフォームを着ている。
「強そうな人だな……」
ダイキの部屋をノックすると、くぐもった声が聞こえた。
「……誰」
「配達です」
ドアが開いた。ダイキは父親に似て体格がいいが、その目は真っ赤に腫れていた。慌てて目をこする。
「目にゴミが入って——」
「大丈夫。これ、君への荷物」
傘を見たダイキは、露骨に嫌な顔をした。
「傘? 男が日傘なんて」
「雨傘だよ。特別な」
ダイキは渋々受け取った。その瞬間、傘の柄の模様が青く光った。
「! なんだこれ」
「説明する前に、ちょっと聞いてもいい?」
ヒバルは部屋に散らばった野球道具を見た。ユニフォームが床に投げ出されている。背番号は1番。エースナンバーだ。
「最後の大会、負けちゃったんでしょ」
ダイキの肩がビクッと震えた。
「誰から聞いた」
「商店街で噂になってる。9回裏のエラーって」
「うるさい!」
ダイキは拳を壁に打ち付けた。その手は震えている。
「俺のせいだ。みんな6年間がんばってきたのに、最後の最後で……」
「つらいね」
「つらい? そんな言葉じゃ……」
ダイキは言葉を詰まらせた。そして、窓の外を見た。小雨が降り始めている。
「キャプテンの山田が、試合後に言ったんだ。『ダイキは悪くない』って。でも、あいつの目、真っ赤だった」
「優しい仲間だね」
「優しいから余計につらい」
ダイキは傘を握りしめた。
「この傘、何か特別な力があるんだろ?」
「涙を雨に変える力」
「は?」
「つまり、泣いても誰にもバレない。雨に紛れるから」
ダイキは鼻で笑った。
「バカバカしい。第一、俺は泣かない」
「本当に?」
その時、下から父親の声がした。
「ダイキ! 山田君たちが来てるぞ!」
ダイキの顔が青ざめた。
「なんで……」
「会いたくない?」
「会えるわけない」
でも、階段を上ってくる足音が聞こえる。ダイキは傘を掴んで窓を開けた。
「ちょっと出てくる」
「雨降ってるよ」
「だから傘があるんだろ」
ダイキは窓から屋根に出て、非常階段を降りていった。ヒバルも慌てて後を追う。
河川敷に着いた時、雨は本降りになっていた。ダイキは傘を開いた。深い藍色が雨に溶け込む。
「ここで練習してたんだ」
ダイキがつぶやいた。
「毎日、日が暮れるまで。山田のやつ、へたくそだったのに、いつの間にかうまくなって」
傘の下で、ダイキの声が震え始めた。
「みんな、本気だった。県大会に行くって、甲子園を目指すって」
「うん」
「それを俺が……俺が……」
ついに、ダイキの目から涙があふれた。
「くそっ……なんで……なんであんな簡単な球を……」
涙は頬を伝って落ちる。でも不思議なことに、傘の端から落ちる雨粒と見分けがつかない。まるで空が代わりに泣いているみたい。
「ごめん……みんな、本当にごめん……」
ダイキは膝をついた。嗚咽が漏れる。6年間の思い出が、走馬灯のように蘇る。
初めてヒットを打った日。
エースナンバーをもらった日。
みんなで円陣を組んだこと。
そして、最後の試合。
「俺だって……俺だって優勝したかった……」
その時、傘に異変が起きた。柄の銀色の模様が、虹色に輝き始めたのだ。
「え?」
ダイキが顔を上げると、雨の向こうから声が聞こえた。
「ダイキ!」
山田たちが走ってくる。みんなずぶ濡れだ。
「お前ら、なんで」
「探してたんだよ!」
山田が肩で息をしている。
「言いたいことがあって」
「もういい。俺が悪かった」
「違う!」
別のチームメイトが叫んだ。
「俺たち、決めたんだ。来年の後輩たちのために、夏休みも練習手伝うって」
「そして、ダイキにコーチしてもらいたい」
「え?」
「だって、お前が一番野球を愛してるから」
ダイキの目にまた涙が浮かんだ。でも今度は違う涙。
「お前ら……」
山田が傘の下に入ってきた。他のメンバーも続く。小さな傘の下に、6人がぎゅうぎゅうに集まった。
「なあ、ダイキ」
「なんだよ」
「俺も泣いてた。でも一人で泣くのはもうやめよう」
「山田……」
「みんなで泣いて、みんなで笑って、また野球やろうぜ」
その瞬間、傘の柄が温かくなった。虹色の光が、みんなを包み込む。そして、ダイキは気づいた。
これが傘のもう一つの秘密。
涙を分かち合うとき、虹が生まれる。
雨の中、6人は肩を組んで泣いた。悔し涙、嬉し涙、友情の涙。全部混ざって、雨と一緒に流れていく。
「なんか、すっきりした」
「だろ? 泣くのも悪くない」
「でも、これお前らには内緒な」
「もう遅いよ」
みんなが笑った。
帰り道、ダイキの家の前で父親が待っていた。
「お前ら、ずぶ濡れじゃないか」
「すみません、おじさん」
「まあいい。風呂に入っていけ」
父親はダイキを見た。その目は、すべてを察しているようだった。
みんなが帰った後、ダイキは父親と向き合った。
「親父、俺——」
「いいんだ」
父親は大きな手でダイキの頭を撫でた。
「よく頑張った。涙を流すのは、本気だった証拠だ」
「親父も、泣いたことあるの?」
「ああ。高校最後の夏、同じようなエラーをした」
父親は遠い目をした。
「あの時の悔し涙があったから、今の俺がある。お前も、きっとそうなる」
ダイキは傘を見つめた。柄の模様は、まだかすかに虹色を帯びている。
翌日、ハコブネ堂でヒバルは報告していた。
「傘の秘密、すごかったよ。涙を分かち合うと虹が出るなんて」
「そう、それが本当の力」
ヨルは傘を撫でた。
「一人で泣くのも大切。でも、誰かと涙を分かち合えたとき、人は本当に強くなれる」
「ダイキ君、今日から後輩の指導始めたって」
「雨の後には虹が出る。涙の後には笑顔が来る。自然の摂理だね」
配達完了の鐘が鳴る。
でも、ヒバルの心には温かい余韻が残った。
そして、ひとつ気になることも。ヨルはなぜ、傘の本当の秘密を最初に言わなかったんだろう?
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