第3話『うわさを消す消しゴム』



「今日の荷物は——」

 ヨルが不思議な笑みを浮かべた。

「ちょっと特殊でね。使い方を間違えると、大変なことになる」


 差し出されたのは、見た目は普通の消しゴムだった。白くて四角い、どこにでもありそうなやつ。でも手に取った瞬間、ヒバルは違和感を覚えた。

 重い。

 それも、ただの重さじゃない。何かを背負っているような重さだ。


「これは?」

「一つだけ『言葉』を世界から消せる消しゴムさ」

 ヨルの時計の目が、ゆっくりと回った。

「噂、悪口、呪いの言葉……何でも消せる。でもね、一度消したら二度と戻らない」


 ヒバルは消しゴムを見つめた。

 表面に小さく文字が刻まれている。

『真実は消えない』


「気をつけなよ」

 ヨルが付け加えた。

「消したい言葉があるってことは、それだけ深い傷があるってこと。傷は、簡単には癒えないからね」


 配達袋に消しゴムを入れて店を出ると、今日も足が勝手に動き始めた。

 向かった先は、ヒバルと同じ小学校だった。


 放課後の校舎裏。

 一人の少年が、スマホを見つめて震えていた。

 タクミ。ヒバルと同じ五年生だけど、別のクラスの子だ。


「また増えてる……」


 タクミがつぶやいた声は、絶望に満ちていた。

 ヒバルはそっと近づいて、声をかけた。


「大丈夫?」

「!」

 タクミは驚いて顔を上げた。涙の跡がくっきりと残っている。

「ヒバル……君」

「うん。どうしたの?」


 タクミは迷った様子だったけど、やがて重い口を開いた。

「クラスのグループメッセで……僕のことが」


 見せてもらった画面には、ひどい内容が並んでいた。

『タクミって万引きしたらしいよ』

『マジで? 最低』

『見た人いるって』

『やばくない? 犯罪者じゃん』


 どんどんエスカレートしていく噂話。

 でも——

「これ、嘘なんだ」

 タクミの声が震えた。

「僕、そんなことしてない。なのに、みんな信じちゃって」


 次の投稿を見て、ヒバルは息を呑んだ。

『明日、先生に報告しよう』

『親にも知らせた方がいいよね』

『もう学校来なくていいのに』


「どうしよう」

 タクミが頭を抱えた。

「明日学校に行ったら、みんなに責められる。先生にも疑われる。親も呼ばれるかも」


 その時、配達袋の中で消しゴムが熱くなった。

 ヒバルは取り出して、タクミに差し出した。


「これ、君への届け物」

「消しゴム?」

「ただの消しゴムじゃない。一つだけ言葉を消せる、特別な消しゴムだって」


 タクミは消しゴムを受け取った。

 手にした瞬間、目が見開かれる。

「本当だ……何か、力を感じる」


 タクミはスマホの画面を見つめた。

「『万引き』……この言葉を消せば、噂は止まる」

 消しゴムを画面に当てようとして——

 手が止まった。


「でも、これを消したら……」

 タクミが考え込む。

「噂を流した人は、別の嘘を作るかもしれない」


 ヒバルも考えた。

 確かに、言葉を一つ消しても、根本的な解決にはならないかもしれない。


「ねえ、タクミ君」

 ヒバルが聞いた。

「誰が最初に噂を流したか、分かる?」


 タクミは少し迷ってから、画面をスクロールした。

「多分……リョウタだと思う」

 最初の投稿者の名前を指差した。

「前に、ちょっとしたことでケンカして……それから、ずっと無視されてた」


 なるほど、とヒバルは思った。

 これは単なる噂じゃない。

 個人的な恨みが、集団の暴力に変わったんだ。


「消しゴムで『リョウタ』って名前を消すこともできるよ」

 ヒバルが提案すると、タクミは首を横に振った。

「それは……違う気がする」


 タクミは消しゴムを握りしめて、じっと考えていた。

 やがて、顔を上げた。


「決めた」

 タクミはスマホを置いて、立ち上がった。

「消さない」

「え?」


 タクミは深呼吸した。

「逃げても解決しない。明日、みんなの前で話す。万引きなんてしてないって。信じてもらえないかもしれないけど」


 でも、その表情には迷いがなかった。

「噂を消しても、みんなの心の中の疑いは消えない。だったら、正面から向き合う」


 ヒバルは驚いた。

 消しゴムを使わない選択。

 それは、一番勇気がいる選択だ。


「でも、一人じゃ辛いでしょ」

 ヒバルが言うと、タクミは少し笑った。

「うん。正直、怖い」


 その時、タクミのスマホが鳴った。

 新しいメッセージ。

 恐る恐る開くと——


『タクミ、大丈夫? 俺は信じてないよ』

 

 送信者は、ユウキ。クラスの友達だった。

 続けて、別の子からもメッセージが来た。


『変な噂流れてるけど、タクミがそんなことするわけない』

『明日、一緒に先生に話そう。証人になるよ』


 タクミの目に涙が浮かんだ。

「信じてくれる人が……いた」


 でも、グループメッセの方では、まだ噂は広がり続けている。

 タクミは消しゴムを見つめた。


「やっぱり、使おうかな……」

「待って」

 ヒバルが止めた。

「もう一回、よく見て」


 タクミがグループメッセを見直すと、気づいた。

 噂を広めているのは、いつも同じ数人。

 そして、その中心はやっぱりリョウタだった。


「そうか……」

 タクミが何かを決意した顔になった。

「リョウタと、ちゃんと話してみる」


 翌日の朝。

 ヒバルは心配で、タクミの教室の前まで来ていた。

 

 タクミは約束通り、教室に入っていった。

 ざわめきが起こる。

 視線が集中する。

 

 でも、タクミは真っすぐリョウタの席に向かった。


「リョウタ、話がある」

「……何」

 リョウタは目を逸らした。


「前のケンカのこと、ごめん」

 タクミの言葉に、教室中が静まり返った。

「あの時、ひどいこと言った。ずっと謝りたかったんだ」


 リョウタの表情が変わった。

 驚き、戸惑い、そして——


「でも」

 タクミは続けた。

「だからって、嘘の噂を流していいわけじゃない。万引きなんてしてない。それは、はっきり言っておく」


 教室が緊張に包まれた。

 リョウタは俯いたまま、何も言わない。


 その時、ユウキが立ち上がった。

「俺、タクミと一緒にいたよ。噂の日」

 続けて、他の子も声を上げた。

「私も、タクミがお店にいないの見た」

「つーか、タクミがそんなことするわけないじゃん」


 援護の声が、少しずつ増えていく。

 

 ついに、リョウタが顔を上げた。

 その目には、涙が浮かんでいた。


「……ごめん」

 小さな声だった。

「ムカついて、つい嘘を……」


 タクミは消しゴムを取り出した。

 みんなが息を呑む。

 でも——


「これ、返すよ」

 タクミはヒバルに消しゴムを差し出した。

「もう、いらない」


 リョウタが驚いて顔を上げた。

「消さないの? 噂」

「消さない」

 タクミははっきり言った。

「これも、俺たちの歴史だから。失敗も、誤解も、全部」


 そして、手を差し出した。

「やり直そう。今度は、ちゃんと」


 リョウタは震える手で、その手を握った。

「ごめん……本当に、ごめん」


 先生が入ってきて、事情を聞いた。

 リョウタは正直に全部話した。

 叱られたけど、タクミは庇った。

「もう済んだことです。これから気をつければ」


 放課後、ヒバルはタクミと一緒に下校した。

「すごかったね」

「いや、足震えてたよ」

 タクミが苦笑いした。

「でも、使わなくてよかった」


 消しゴムを見つめながら、タクミが言った。

「言葉を消すのは簡単。でも、人の心は消せない。だったら、向き合うしかないよね」


 ハコブネ堂に戻ると、ヨルが不思議そうな顔をした。

「あれ? 消しゴム、使われてないね」

「はい。でも、配達は完了しました」

 

 ヒバルが事情を説明すると、ヨルは感心したように頷いた。

「なるほど。使わないという使い方か」

 時計の目が、優しく光った。

「それも、立派な選択だ」


 ヨルは消しゴムを受け取りながら言った。

「ヒバル君、君は気づいたかい?」

「何にですか?」

「ハコブネ堂の荷物は、願いを叶える道具じゃない」


 ヨルは消しゴムを棚に戻しながら続けた。

「選択肢を与える道具なんだ。使うか、使わないか。どう使うか。それを決めるのは、受け取った人自身」


 確かに、とヒバルは思った。

 ミユはカメラを手放すことを選んだ。

 タクミは消しゴムを使わないことを選んだ。

 

 そして、自分は——

 黒い箱に触れることを選んだ。


「ヒバル君」

 ヨルが黒い箱の方を見た。

「君も、いつか選択を迫られる。その箱を開けるか、開けないか」


 ヒバルは黒い箱を見つめた。

 今日も固く閉じている。

 でも、少しだけ、封印が緩んだような気がした。


 カランカラン。

 

 配達完了の鐘が鳴る。

 でも、ヒバルの心には疑問が残った。

 

 選択を与える道具。

 それが、ハコブネ堂の荷物。

 じゃあ、この店は何のためにあるんだろう。

 ヨルは、何のために荷物を配らせているんだろう。


 答えは、まだ見えない。

 でも、一つだけ分かったことがある。

 

 正しい選択なんて、ない。

 あるのは、自分で決めた選択を、正しくする努力だけだ。


 タクミが、それを教えてくれた。

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