第33話

春を迎えた、ある日の午後。

荒巻荘の傍らに聳え立つ桜の木も見事に花を咲かせ、淡い桃色が枝先からこぼれ落ちるようだった。

私たちはいつもの食卓を少しだけ離れ、レジャーシートを広げてお花見をしていた。


お弁当は、朝からみんなで作った。

菜の花と桜えびのおにぎり、アスパラガスの肉巻き、しらすの卵焼き、鶏のから揚げ——盛りだくさんの春色メニューだ。


「……晴れて良かった」


宇津井さんがぼそりと呟きながら、おにぎりを口に運ぶ。

天気予報では曇り気味とのことだったが、今日は澄み渡るような青空だ。

遠くの空では、二羽の鳥が連れ立って飛んでいる。


「宇津井さん、いつもなら寝てる時間帯ですけど、大丈夫ですか?」

「まあ、調整はできる……」

「もう、昼夜逆転の生活をやめちゃえばいいのに」

「……それもいいかもな」


私は紙コップにほうじ茶を注ぎながらそう言う。

受け取った宇津井さんは、温かいお茶を一口飲み、満足げに微笑んだ。

振り返ると、少し離れたところで美咲ちゃんがスケッチブックに色鉛筆で絵を描いている。

そっと後ろから覗き込みながら声をかけた。


「美咲ちゃん、何描いてるの?」

「えーと、お空と桜」


スケッチブックには茶色や桃色、青色が使われていて、私たちが眺めている景色が鮮やかに描かれていた。

私が小さいころは、こんなに絵心はなかった気がする……。


「最近見たドラマに影響されちゃったみたいで」


美穂さんが苦笑しながら、それでも嬉しそうに娘を見守っている。


「それで、すぐにスケッチブックを買っちゃう私は、親バカかもしれませんね」

「そんなことないですよ。美穂さんは、優しいお母さんです」

「ふふ、ありがとう」

「そういえば今日は、長岡さんがちょっと静かですね」

「確かに。いつもと少し違う感じがしますけど、まあそんな日もありますよ」


ふと桜の木を見ると、幹にもたれかかって空を眺めている長岡さんの姿があった。


「長岡さん、どうしたんですか?」


私はほうじ茶をもう一杯注ぎ、紙コップを手渡す。


「……少し、昔のことを思い出してたんだ」

「そうですか」


私はそう答えて、隣に膝を抱えて座る。


「アンニュイなんて、ガラじゃないんだけどな」

「そんなことないですよ。誰だって、ふと振り返るときはあります。……あ、でも、いつか話したくなったら、その時は聞かせてくださいね」

「……ふっ。はははは、そうだな」

「いや、何がおかしいんですか?」

「何でもねえよ。ありがとな」


すっかりいつもの表情に戻った長岡さん。

並んで座っていると、風がそよいで桜の花びらがひらりと舞い落ちる。

その一枚が、私の肩にそっと止まった。

私は静かに目を閉じて、花の匂いと土の温もりを感じる。


その時、美咲ちゃんがスケッチブックを持って駆け寄ってきた。


「ねえねえ、できたよ!」


彼女が見せてくれた絵には、空と桜の下で過ごす私たちが色とりどりに描かれていた。


「へえ、上手いもんだな」

「額を買ってこなきゃですね。飾れるくらいの」

「えー、それは恥ずかしいよ」


日差しは少し傾き始めていたが、春の午後はまだまだ続いていく。


——そうだ、私からも伝えなきゃいけないことがあった。

私は立ち上がり、手のひらを胸に当てて言葉を綴る。


「すみません、私から一ついいですか?」


みんなが私の方を向く。

何を言うんだろう? そんな表情を浮かべている。


「これからも、荒巻荘の……プチ大家さんとして、やっていきたいと思っています」


これが、私の決めたこと。

母にも少し前に話していて、「アンタのことだから、そう言うと思ってたわ」とすっかり見抜かれていた。


反応はどうだろうかと思って顔を見てみると、みんな嬉しそうな表情を浮かべていた。


「そりゃいいぜ。姉ちゃんが来てから、みんな仲良くなったもんな」

「……三瀬さんの朝ごはんがないとか、もう考えられん」

「綾香さんがそう決めたなら、私も、そして美咲も、それを応援します」

「これからもよろしくね、綾香さん」


笑顔で、小さく拍手をしてくれた。

いつまで続けられるかは分からないけれど、もう少し頑張ってみよう。

心から、そう思えた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


時は流れ、季節は初夏。

私が台所でいつものように朝ごはんの支度をしていると、戸をノックする音がした。

ドアを開けると、大学生くらいだろうか、私より少し若い男性が立っていた。


茶髪に軽いパーマ、やや洒落っ気のある服装だ。

少し前に荒巻荘へ引っ越してきた大学生、内藤くんだった。


「ここで、みんなで朝ごはんを食べているって聞いて……」

「うん、そうだよ。毎日一緒に食べてるの」


緊張した面持ちで立っている彼に微笑みかける。


「よかったら、一緒に食べない? もうすぐみんなも来るから」

「……あざっす」


私は彼の背中を軽く叩いて、室内へと迎え入れる。


「あ、そうだ。私の名前って分かる?」

「確か、三瀬さん……でしたよね」

「そう。ここのプチ大家さんをやってるの。これからもよろしくね」


私の名前は三瀬 綾香。

朝ごはんの湯気の向こうで、みんなの笑顔が広がる場所——

そんな荒巻荘の大家さんとして、これからも頑張っていこう。


【了】

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“荒巻荘”の朝ごはん会は静かに始まる 卯月 あかり @lucky_amargar

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