第13話
朝、窓を開けた瞬間、風が音を連れてきた。
——ちりん。
それは、どこか懐かしくて、でもこの場所では聞き慣れない音だった。
私は思わず手を止めて、耳を澄ます。
——ちりん、ちりん。
風に揺れて、何かが鳴っている。
風鈴だ。たぶん、共用スペースの軒先あたり。
「……誰がつけたんだろう」
私はつぶやきながら、玄関を開けて外に出た。
梅雨が明けたばかりの空は、まだどこか頼りなくて、雲の切れ間から差す光も、どこか遠慮がちだ。
でも、その風鈴の音だけは、はっきりと夏の訪れを告げていた。
見ると、共用スペースの軒先には、小さなガラスの風鈴がひとつ、吊るされている。
透明な球体の中に、青い金魚の絵が描かれている。
風が吹くたびに、金魚が水の中を泳ぐように揺れて、音を鳴らす。
誰がつけたのかは、わからない。
でも、なんとなく——この音が、今の荒巻荘にぴったりだと思った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ちりん、ちりん……あれ、かわいいね」
美咲ちゃんが、登校前に風鈴を見上げて言った。
ランドセルの肩紐を直しながら、目を細めている。
「夏って感じがする」
「うん。誰がつけたんだろうね」
「えー、三瀬さんじゃないの?」
「ちがうよ。私も今朝、初めて気づいたの」
「ふーん……じゃあ、風の妖精さんかな」
そう言って笑う美咲ちゃんの声に、風鈴が応えるように鳴った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「……夏が来たのか」
昼過ぎ、私が掃き掃除をしていると、買い物帰りの宇津井さんが、風鈴の下で立ち止まってぽつりとつぶやいた。
「風流ですね」
「……まあ」
「……そうですね」
「……まあ、静かすぎるのも……落ち着かないし」
それだけ言って、宇津井さんは買い物袋を持ち直して、部屋へと戻っていった。
その背中を見送りながら、私はふと、風鈴の音が“誰かの余白”を埋めているような気がした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「昔、うちにもあったな。風鈴」
夕方、たまたま出くわした長岡さんと共用スペースで麦茶を飲んでいる時に、そんな言葉が聞こえた。
「風鈴って、なんか“間”ができるんだよな。音と音のあいだに、余白があるっていうか」
「“間”……」
「そう。あれがあると、なんとなく、無理に言葉を交わさなくてもいい気がする」
そう言って、どこか遠くを見つめている。
私はその言葉を、しばらく反芻した。
風鈴の音がつくる“間”。
それは、たしかにこの場所に似合っている気がした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夜、窓を開けると、風鈴の音がまた聞こえた。
昼間よりも少しだけ涼しくなった風が、金魚を揺らしている。
私はベッドに腰を下ろしながら、ぼんやりと昔のことを思い出していた。
子どもの頃、実家の縁側にも風鈴があった。
お母さんが夏になると吊るしていた、白地に朝顔の絵が描かれたやつ。
あの音を聞きながら、昼寝をしたり、かき氷を食べたりしていた。
会社勤めをしていた頃は、そんな音に気づく余裕すらなかった。
季節の変化も、風の匂いも、全部“無音”の中に埋もれていた気がする。
でも今は——
「ちゃんと、聞こえるな」
私はそうつぶやいて、もう一度、戸締りのために窓のそばへと駆け寄る。
風鈴が、ちりんと鳴いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌朝、風鈴の下に、小さなメモが貼られていた。
「夏の気配が、近づいてきましたね —101号室より」
「……え?」
私は思わず声を漏らした。
私じゃない。じゃあ、誰?
メモの文字は、丁寧だけど、どこかクセのある筆跡だった。
誰が書いたのか、なんとなく心当たりはあるけれど——
それは、もう少しだけ、秘密にしておこうと思った。
「おはようございます」
声をかけてきたのは、美穂さんだった。
傘を干しに出てきたらしい。
「風鈴、いいですね」
「はい。なんというか、夏が来たって感じがしますね」
「……夏と言えば、来週、駅通りでお祭りがあるんですが、もし良かったら、一緒にどうですか?」
「お祭り?」
「はい。美咲が行きたがってて。三瀬さんも一緒がいい、と」
「……はい。ぜひ、私も行きたいです」
「ふふ、じゃあ浴衣、出しておかないとですね」
「え、まだ着られるかなぁ……?」
美穂さんが笑うと、風鈴がまた、ちりんと鳴った。
その音は、昨日よりも少しだけ、夏に近づいているような気がした。
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