第10話
朝、目を覚ますと、カーテンの隙間からやわらかな光が差し込んでいた。
時計を見ると、いつも起きるより少し早い時間。
昨夜のお酒がまだ少し残っているのか、頭がぼんやりしている。
「……あれ、私……どこで寝たんだっけ」
体を起こすと、そこは共用スペースの畳の上だった。
座布団を何枚か使って、布団代わりにしてくれたようだ。
ブランケットが一枚、肩にかけられている。
誰かが気を利かせてくれたのだろう。テーブルの上は、すっかり片付いていた。
余った料理は冷蔵庫にラップをかけて保存されており、グラスも皿も、きれいに洗って元の場所に戻されている。
昨夜のにぎやかさが嘘のように、静かな朝だった。
スマホを見ると、通知が2件入っていた。美穂さんと長岡さんからだった。
『ごちそうさまでした。
美咲が起きる前に戻ります。
また、朝ごはん会で。』
『お疲れ。ぐっすり寝てたから起こすのもなんだかと思ってな。
日浦さんがカギ持ってるから、悪いけど、朝起きたら受け取りに行ってくれ。
朝飯は難しそうだったら別にいいからな。』
私は画面を見ながら、ふと昨夜のことを思い出そうとする。
長岡さんと美穂さんが、何かを話していた。
でも、内容までは思い出せない。
……美穂さんは、長岡さんに対して、ほんの少しだけど、警戒心を抱いているように見える。
私がセクハラを受けていたとき、上司に対して感じていたものと、どこか似ている気がする。
ただ、二人は初対面のはずだ。
長岡さんの方から、美穂さんに言い寄ったという話も聞いたことがない。
それに、短い間とはいえ一緒に過ごしてきた中で、私がはっきりと言えるのは——
長岡さんは、良い人だということ。
まだ彼のことを深く知っているわけじゃないし、私の人生経験も25年ぽっちで、決して長いとは言えない。それでも、それだけは信じられる気がする。
今日はみんなお酒を飲んだから、アジのなめろうを使ったお茶漬けと、お漬物、あとはお味噌汁くらいでいいかな。
口をゆすいで顔を洗ってから、早速準備を始めようとしたときに、鍵を開ける音と共に、引き戸を開けて誰かが入ってきた。
「おはようございます。大丈夫ですか?」
美穂さんだった。まだみんなで集まるには早い時間だったから、様子を見に来てくれたのだろう。
「おはようございます。美穂さん、あの……昨日はありがとうございました。つい寝ちゃって……」
「いえいえ。そういうこともありますから。……そうだ、三瀬さん。今日は私もお休みですから、何かお手伝いしますよ」
「いいんですか? ありがとうございます!」
二人でエプロンを身に着け、私はお豆腐を、美穂さんは野菜を切っていく。
静かだけど、なんだか心地いい感覚がする。
昨日、長岡さんとアジの下処理をした時と、同じような感覚だ。
最初は大家さんなんてガラじゃないと思ってたし、どんな人が住んでいるのかもわからなかった。
でも、こうして一緒に台所に立っていると、不思議と“ここにいていいんだ”と思える。
「包丁、よく使い慣れてますね」
私がそう言うと、美穂さんは少しだけ手を止めて、笑った。
「娘がいると、やっぱり手料理は頑張りますね。……一人でやることが多かったので、自然と」
その“自然と”の言い方に、ほんの少しだけ、力がこもっていた気がした。
でも、私はあえて何も聞かず、味噌汁の鍋に火を入れる。
「……昨日、長岡さんと少し話したんです」
美穂さんが、まな板の上のネギを見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「そうなんですね。……どうでした?」
「……意外と、話しやすい人でした。見た目はちょっと、怖いくらいしっかりしてるけど……」
「うん、わかります。最初はちょっと圧ありますよね」
「……でも、ちゃんと距離を取ってくれるというか……無理に踏み込んでこないのが、ありがたかったです」
私はうなずきながら、味噌を溶かす手を止めなかった。
それが、彼女の“話したい”という気持ちを、邪魔しない気がしたから。
「……美咲と二人になってから、体格のいい男性がちょっと苦手になってしまって……」
それ以上は言わなかったし、私も聞かなかった。
でも、たぶん——長岡さんには、少しだけ話したのだろう。昨夜、私が眠ってしまったあとに。
「ここに来てから、少しずつ慣れてきた気がします。……娘のおかげかもしれませんね」
「美咲ちゃん、ほんとに明るいですもんね」
「ええ。あの子がいると、私も前を向かざるを得ないというか……」
その言葉に、私はそっと笑った。
味噌汁の湯気が、ふわりと二人の間をやさしく包んでいた。
やがて、引き戸が開き、足音が聞こえてくる。
いつものように、まずは長岡さんがシャキッとした顔で入ってきて、
それに続いて、宇津井さんが眠たそうな顔で現れ、
そのすぐあとに、美咲ちゃんの「おはよー!」という元気な声が響いた。
——少しずつ、何かが変わっていく。
きっと、それは良い方向に。
それは大きな音を立てるわけでもなく、
ただ、朝の光のように静かに、でも確かに、私たちの暮らしを照らしていた。
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