“荒巻荘”の朝ごはん会は静かに始まる
卯月 あかり
第1話
「辞めさせていただきます!!」
その瞬間、執務室の空気がピタリと凍りついた。
私の声が、まるで鐘の音のように静寂を切り裂き、響き渡る。
頬を押さえて呆然とする、脂ぎった顔のハゲ上司。
何が起きたのか察した同僚たちは、ざわざわと小声で囁き合い、視線を交わしている。
その中で、パソコンのファンの音だけが、妙に落ち着いたリズムで回っていた。
私は、じんじんと痛む右手を抱えながら、「三瀬君! どこに行くんだ!」という声を振り切り、執務室を後にした。
怒りと恥ずかしさで顔は火照っていたけれど、心の奥には妙な爽快感があった。
3か月間、私は耐えてきた。
しつこく触れてくる手。プライベートへの不躾な誘い。
「これくらい我慢しなきゃ」と、自分に言い聞かせてきたけれど、限界はとうに超えていた。
そして今日、ついに私はやり返した。
もちろん、暴力は褒められたものじゃない。でも、あの瞬間、私は自分を裏切らなかった。
新卒で入ったこの会社は、セクハラもパワハラも日常茶飯事。
「コンプライアンス? なにそれ?」という空気が、社内に蔓延していた。
私は会社を飛び出し、空を見上げた。
私のセミロングの茶髪から覗く春の青空が、やけにまぶしく見えた。
まるで、長いトンネルを抜けた先に広がる世界のように。
これからどうするかは、まだ決めていない。
でも、私は自由だ。そして、ほんの少しだけ誇らしかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「……綾香、もし暇だったら、アパートの管理人をやってみない?」
会社を辞めて1か月。
GWの真っ最中。実家に戻って、のんびりとした日々を過ごしていた私に、お母さんがそう切り出してきた。
確かに今は無職で、時間はたっぷりある。
でも、アパートの管理人なんて、私のキャラじゃない。
住んでいる人がどんな人かもわからないし、トラブルがあったらどうすればいいのかも見当がつかない。
「ここからだいぶ離れたところにある、荒巻荘ってところなんだけどね」
「お義父さんの弟さんがこないだ亡くなって、その後の管理を誰がするかで揉めてるみたいなのよ」
お爺ちゃん……もう私が小さいころに亡くなったから、仏間の遺影でしか顔を覚えていない。
白い髭を蓄えた、恰幅のいいサンタクロースみたいな人だった。
その弟となると、やっぱり似たような雰囲気だったのだろうか。
それにしても『荒巻荘』って、なんだかシャケみたいな名前だ。
私たちの苗字は三瀬だから、きっと別の由来があるんだろうけど……ちょっと気になる。
「入居者の募集とかは、引き続き今まで仲良くしてる不動産屋さんがやってくれるから。
あなたには、アパートの清掃とか、ちょっとした管理をお願いしたいのよ」
私の意識が、お母さんの話から少しずつ離れかけていたそのとき——
「で、言ってきちゃったのよ。『1年間だけ、うちの娘が面倒を見ます』って!」
「え゛っ!?」
突然の爆弾発言に、頭が一瞬フリーズする。
「若い娘が家で引きこもりなんか勿体ないわ。当然、お金に関しては助けるから、人助けと思って頑張っていらっしゃい!」
じゃあ、最初に聞かれたのは……確認じゃなくて、事後承諾!?
こうして私は、なんの前触れもなく、実家からたたき出される形で、アパートの大家さんになってしまうのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます