星屑の探求者と失われた歌声

すぎやま よういち

第1話 異世界への扉

真夏の久留米市、アスファルトから立ち上る熱気が蜃気楼のように揺らめく午後。梅雨はまだ明けていないはずなのに、じっとりとした湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。そんな日でも、星野ハルにとって一番落ち着ける場所は、西鉄久留米駅から歩いて十分ほどの久留米市立図書館だった。古びた建物の二階、児童書コーナーの奥。いつもと同じように本がぎっしり詰まった棚は、その重みに耐えかねて時折「ミシ…」と軋むような音を立てる。ハルは、その音すら心地よく感じていた。

周囲のクラスメイトがスマートフォンゲームや流行りの動画に熱中する中、ハルは一際異彩を放っていた。彼の興味を惹きつけるのは、決まって古ぼけた異世界ファンタジー小説ばかりだ。今日もまた、背表紙が擦り切れ、ページが日焼けした一冊を手に、彼は物語の世界に没頭していた。漂う微かな紙の匂いが、古の冒険へと誘うかのようにハルの鼻腔をくすぐる。

「ハル、またそんな難しい本読んでんの?」

不意に、少し鼻にかかった声が耳に届いた。顔を上げると、そこにいたのは同じクラスの木下ユウキだ。ユウキの机の上には、いつも人気の漫画雑誌や最新のライトノベルが山積みにされている。彼にとっては、ハルの読んでいるような「字ばかりの本」は退屈でしかないのだろう。

「難しいってわけじゃないよ。この世界は、まだまだ知らないことだらけでさ、読んでるとワクワクするんだ」

ハルは本のページから目を離さず、指で一行をなぞりながら答えた。ユウキは呆れたように肩をすくめる。

「ふーん。ま、ハルらしいわ。それよりさ、今日の放課後、新しくできたゲームセンター行かね?なんかすごいVRゲームがあるらしいぜ。久留米初上陸だってさ!」

ユウキは目を輝かせながら言った。その誘いには、確かに魅力的だと感じる部分もあった。最新のVRゲーム、一体どんな世界が広がっているのだろう。しかし、ハルの中には、目の前にある物語の続きへの抗いがたい引力があった。

「ごめん、今日はちょっと無理なんだ。この本の続きが気になって…」

申し訳なさそうにそう告げると、ユウキは別に気にした様子もなく、「ま、いっか。じゃ、また明日な!」とあっさり引き下がった。彼が友人たちと合流するため、図書館の出口へと向かっていく足音が遠ざかる。

再び静寂に包まれた児童書コーナーで、ハルは古びた革の装丁の本に目を落とした。タイトルすら書かれていない。ただ、表紙には複雑で神秘的な紋様が刻まれているだけだ。まるで、この本自体が何か大きな秘密を抱えているかのように。何かに導かれるように、ハルはそっとページをめくった。その瞬間、表紙の紋様が、まるで脈打つように淡い光を放ち始めた。

光は次第に強さを増し、ハルの体を包み込んでいく。図書館の、紙とインクの混じり合った微かな匂いが遠のいていく。耳元で聞こえていたエアコンの低い唸りも、遠くで聞こえる車の走行音も、全てが薄れていった。まるで、時間が止まったかのような、そして意識が遠ざかっていくような感覚。浮遊感に包まれ、体がふわりと宙に持ち上げられるような不思議な感覚がハルを襲う。全身を包み込むその光は、温かく、そしてどこか懐かしいような優しい光だった。抗う術もなく、ハルは意識を手放した。


次に目を開けた時、ハルの目の前に広がっていたのは、久留米の図書館とはあまりにもかけ離れた、夢のような光景だった。

まず目に飛び込んできたのは、頭上に広がる空だった。そこには、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫──七色の帯がゆらゆらと揺らめき、まるで生きているかのように複雑な模様を描いている。七色のオーロラだ。その幻想的な光が、辺り一面を柔らかく照らし出し、世界の全てを淡く染め上げていた。

鼻腔をくすぐるのは、これまで嗅いだことのない香りだ。湿り気を帯びた微かな土の匂いと、どこか遠くから漂ってくる、名前も知らない甘い花の香りが混じり合っている。思わず深呼吸すると、その香りがハルの肺を満たし、全身に心地よい感覚が広がった。

足元に目をやると、地面には青白い光を放つキノコが点々と生えている。その光は、まるで夜空に散りばめられた星屑のように瞬き、幻想的な雰囲気を醸し出していた。周りを見渡せば、木々は見たこともないような鮮やかな色彩を放ち、その葉一枚一枚が生き生きとしている。そこは、ハルがこれまで本の中でしか見たことのない、まさしく異世界だった。

視線を上げると、遠くには巨大な結晶の柱が、まるで天を貫くかのようにそびえ立っているのが見えた。その根元には、金属と植物が融合したような、奇妙な形をした機械がいくつか転がっている。それらの機械は、まるで意思を持っているかのように、「カタン…カタン…」と微かに音を立て、今にも動き出しそうだった。

「ここは…一体?」

ハルは、乾いた喉から絞り出すように呟いた。目の前の光景は、あまりにも現実離れしていて、夢か幻ではないかとさえ思った。しかし、全身で感じる空気の質感、嗅ぎ慣れない香り、そして、その場の全てが放つ生命の輝きが、ここが現実であることを強く訴えかけていた。

その時、背後から、風鈴が鳴るような澄んだ声がした。

「やっとお目覚めかい、人間の子よ」

ハルは驚いて振り返った。そこに立っていたのは、背中に透き通るような羽を持つ、まるで絵本から飛び出してきたかのような少女だった。彼女の瞳は、七色のオーロラを映し込んだように、夜空の星のように輝いていた。

「やっとお目覚めかい、人間の子よ」

背後から響いた、風鈴が鳴るような澄んだ声に、ハルは驚いて振り返った。そこに立っていたのは、ハルがこれまでの人生で見たどんなものよりも美しい少女だった。透き通るような白い肌。耳元で揺れる髪は、まるで朝露に濡れた新緑のように鮮やかなエメラルド色をしている。そして何よりも、彼女の背中には、光を反射してキラキラと輝く、まるでガラス細工のような透き通る羽が生えていた。その瞳は、七色のオーロラを映し込んだように、夜空の星のように輝いている。

少女は、ハルが着ている久留米市立図書館のTシャツを不思議そうに見つめながら、一歩近づいてきた。その仕草は、どこか警戒しているようにも見える。

「まさか、本当にこんな場所へ落ちてくるとはね。あなたは…どこから来たの?その服、見たことがないわ」

ハルはまだ状況が飲み込めず、呆然としたまま答えた。

「えっと…僕は、星野ハル。久留米っていう場所から…図書館で本を読んでたら、急に光に包まれて…」

「ク、ルメ?としょ、かん?」少女は首をかしげた。「聞いたことのない場所ね。私の名はリーナ。風の民のリーナよ。あなたは、私たちの知るどの種族とも違う気配がするわ」

リーナはハルの周りをゆっくりと回り込み、まるで珍しい生き物を見るかのようにじっと観察する。その視線に、ハルは少し居心地の悪さを感じた。

「あなたは、歌声を持っているかしら?」

リーナの言葉に、ハルは困惑した。歌声?なんのことだろう。

「歌声…?えっと、歌なら、少しは歌えるけど…」

ハルがそう答えると、リーナの表情に微かな失望の色が浮かんだ。

「そう…。やはり、あなたも持っていないのね。この世界、エテルナでは、もうほとんどの人が魂の歌を失ってしまったから」

リーナは、遠くに見える巨大な結晶の柱の方向を一瞥し、顔を曇らせた。その声には、深い悲しみがにじんでいた。

「あなたはまだ知らないでしょうけど、このエテルナは今、恐ろしい魔物によって蝕まれているわ。その名は魔王ゼルガ。やつは、私たちエテルナの民にとって最も大切なもの、魂の歌を奪っていくの」

ハルは息をのんだ。歌声が奪われる?そんなことがあり得るのか。

「魂の歌は、私たちの命そのもの。魔法の力を引き出し、この世界のあらゆる機械を動かし、生活を豊かにするための源だったのよ。でも、ゼルガが…やつが歌声を奪ってから、全てが変わってしまった」

リーナの言葉は、まるで世界の喉元に突きつけられた刃のように、ハルの胸に突き刺さった。彼女の言う「魂の歌」が、ハルの知る「歌」とは全く違う、もっと根源的なものだということが理解できた。

「歌声を奪われた人々は、活力を失い、まるで抜け殻のようになってしまう。街は静まり返り、かつての賑わいは影を潜めたわ。見て」

リーナは手で遥か彼方を指差した。ハルの視線の先には、かろうじて建物の形を保っているが、壁が崩れ、屋根が剥がれ落ちた集落のようなものが見えた。

「あれは、かつて繁栄を極めた都市の一つよ。でも、魔物によって歌声が奪われてからは、復旧作業もままならない。歌声がないから、自動で建材を加工したり、運搬したりする機械もほとんどが動かないの。みんな、手作業で、必死に…」

リーナの声は震えていた。その瞳の奥には、深い悲しみと、そして拭い去れない怒りが宿っているのが見て取れた。ハルは、自分が転生して最初に見た「奇妙な機械」が、実は人々の生活を支えていたものだったと理解した。そして、それがなぜ止まっているのかも。

「私たちは、歌声がなければ、ただの弱い存在なの…」

リーナは力なくつぶやいた。その言葉は、どこかハルの耳に馴染む、久留米のアーケード商店街で耳にした、年老いた女性の声と重なって聞こえた。異なる世界でも、人々が抱える苦しみは同じなのだろうか。

「私…私の家族も、ゼルガによって歌声を奪われたわ。だから、私は…!」

彼女の言葉は、そこで途切れた。唇をぎゅっと噛み締め、悔しそうに顔を歪める。ハルは、リーナの抱える深い悲しみと、魔王ゼルガへの強い憎悪を感じ取った。

「私の名はリーナ。そして、この世界エテルナは、魔王ゼルガによって滅びの危機に瀕している。あなたも、この世界に落ちてきてしまった以上、無関係ではいられないわ。このままでは、きっと、あなたも…」

リーナはハルの目をまっすぐに見た。その真剣な眼差しに、ハルは自分が今、かつて本で読んだどの物語よりも壮大な、そして危険な冒険の渦中にいることを実感した。久留米の平和な日常は、もう遠い彼方の記憶になりつつあった。

リーナの言葉は、ハルの心臓を直接掴むようだった。久留米での穏やかな日常とはかけ離れた、この世界の過酷な現実が、ハルの目の前に突きつけられる。七色のオーロラが揺らめく空の下、一見すれば幻想的な世界なのに、その根底には深い悲しみと絶望が横たわっている。

「歌声を奪われた人々は、活力を失い、まるで抜け殻のようになってしまう。街は静まり返り、かつての賑わいは影を潜めたわ。見て」

リーナはそう言って、朽ちかけた街並みを指し示す。ハルの視線の先には、かろうじて建物の形を保っているものの、壁が大きく崩れ落ち、屋根が剥がれた家々が点在していた。かつては美しかったであろう建物の装飾も、今は無残に壊れ、瓦礫となって積み上がっている。通りには人影もまばらで、時折、疲弊しきった表情の住民が、重い足取りで歩いているのが見えるだけだ。その顔には、希望の光など微塵も感じられない。

「あれは、かつては『織りの街』と呼ばれ、美しい布製品で栄えていた都市の一つよ。でも、魔物によって歌声が奪われてからは、復旧作業もままならないの。歌声がないから、自動で建材を加工したり、重い資材を運搬したりする機械も、ほとんどが動かない。街の再建には、魂の歌が不可欠なのに…」

リーナの声は、悲しみと苛立ちが混じり合っていた。ハルは、自分が転生して最初に見た、あの奇妙な形をした機械の残骸が、かつては人々の生活を支え、街を動かすための重要な役割を担っていたのだと理解した。久留米で当たり前のように使っていたスマートフォンも、エアコンも、電車も、この世界では「魂の歌」がなければただのガラクタになってしまうのだろうか。人々が日常で当たり前のように使っていた便利さの全てが、今は奪われてしまったのだ。人々は、原始的な道具を使い、汗水垂らして手作業で復興を進めている。その光景は、かつて機械がもたらした利便性にどれだけ依存していたか、そしてその依存が崩れた時の不便さがどれほど大きいかを痛感させた。

遠くから、くぐもった声が聞こえてくる。

「また今日も、魔物の鳴き声が聞こえる…いつになったら、安心して眠れるんだい」

別の場所では、小さな子供が母親の服の裾をぎゅっと握りしめ、「ママ、僕たちの街、元に戻るのかな?」と不安そうに尋ねる声がした。母親は、ただ力なく子供の頭を撫でるだけで、何も答えることができない。この世界の人々が、魔物によってどれだけ深く苦しめられ、具体的な被害を受けているのかが、その場にいるかのように肌で感じられた。

ハルは、その光景に胸が締め付けられる思いだった。こんな状況で、自分に何ができるのだろうか。彼はただの小学5年生だ。魔王ゼルガという恐ろしい存在に、どう立ち向かえばいいのか。

「あなたは…本当に、私たちの知らない場所から来たのね」

リーナが、ハルの顔をじっと見つめながら言った。その視線は、警戒心と好奇心が入り混じっていた。

「その『としょかん』とかいう場所は、どんなところなの?そこに、あなたの『歌声』はあるの?」

ハルは、久留米市立図書館の光景を思い浮かべた。静かで、本がたくさんあって、冷房が効いてて、たまに友達と話す。

「えっと…図書館には、たくさんの本があって、色々な知識が詰まってる場所だよ。僕の知ってる世界では、本を読めば、色々なことができるようになるんだ。例えば、何か調べたいことがあったら、インターネットっていう機械を使えばすぐにわかるし…」

ハルが話せば話すほど、リーナの表情は不審の色を深めていく。彼女は眉をひそめ、頭の上の小さな羽がピクリと動いた。

「ホン?インターネット?キカイ?」リーナはハルの言葉を繰り返す。「あなたの話すことは、どれも私には理解できないわ。そんな奇妙な『知識』が、一体何の役に立つというの?」

リーナの言葉に、ハルは戸惑った。久留米では当たり前の知識が、この世界では全く通用しない。それどころか、怪しまれてしまう。

「でも、僕の世界には、魔法はないけど、科学っていう力があって、それを使えば色々なことができるんだ!例えば、空を飛ぶ機械とか、遠い人と話せる道具とか…」

ハルが熱弁するほど、リーナの顔は困惑でいっぱいになる。彼女は、まるで初めて見る生き物でも見るかのように、じっとハルの顔を見つめた後、深くため息をついた。

「…あなたの話は、まるで夢物語のようね。でも、もしかしたら…それが、私たちの世界を救う、新しい『歌声』になるのかもしれない」

リーナはそう呟くと、再び遠い空を見上げた。その言葉は、ハルにはまだ理解できない、しかし、どこか深い意味を秘めているように感じられた。ハルは、リーナの言葉の真意を探ろうと、彼女の横顔をじっと見つめた。エテルナの厳しい現状と、自身の持っている知識がこの世界でどう役立つのか、ハルの心に一つの疑問と、かすかな希望が芽生え始めた。

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