ひとしずくの月、ひとくちの恋

香依

Prologue

たとえば、迷い込んだ夜の静けさの中に。

たとえば、帰り道の角を、ふと曲がったその先に。


灯りの少ない通りに、ぽつんと浮かぶ光がある。

まるで、月が地上にひとしずく、落ちてきたかのような、やわらかな灯り。



そこには、看板のないバーがひとつ。


古びた木の扉に、目立った飾りはない。

でも、何かに導かれるようにして、その扉は静かに開かれていく。


グラスの中に注がれるのは、色とりどりのカクテルたち。

香り、色、味わい、そして──込められた“言葉”。


カクテル言葉は、誰かの心の奥をそっとすくい上げる。


恋のはじまり。忘れられない想い。

すれ違い、別れ、友情、人生の岐路。


この店では、すべての夜に名前がある。

ひとつひとつが、誰かの物語。


グラスに映るのは、満ちきらぬ三日月。

カラン、と音を立てる氷のように、

ゆらめく気持ちがそっとほどけていく。



──そして今宵も、誰かがその扉を開く。


 

「……いらっしゃいませ。今夜は、どんな一杯をお望みでしょうか?」


その声は、グラスの向こうに月を浮かべながら、

そっと物語の幕を開ける。

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