第16話 過去の無と新たな自己の誕生
永遠に続くかと思われた快感の嵐も、やがて終わりを迎えた。身体の奥底を揺さぶり続けた甘い痺れが、ゆっくりと引いていく。熱を帯びた肌から、じっとりと汗が滲み出し、冷たい空気に触れてひんやりと感じる。呼吸はまだ荒く、胸郭が大きく上下しているのが分かる。
一条慧の熱いものが、琴音の身体から完全に引き抜かれた瞬間、身体の中に満たされていた多幸感が、潮が引くようにすっと消え去った。残されたのは、ぽっかりと空いたような、深い虚無感。そして、身体の奥に残る、熱く、ねっとりとした余韻だけだった。
意識が、ゆっくりと戻ってくる。
自分が、誰なのか。
水瀬琴音、という名前が頭に浮かんだが、それが自分自身を指し示しているのか、確信が持てない。過去の記憶は一切ない。両親の顔も、友人たちの声も、琴音の意識には存在しない。そこには、「失われた過去」という概念自体がなかった。
ただ、隣で眠る一条慧の存在。
彼の身体の温かさが、琴音の冷え始めた肌に触れる。彼の存在だけが、琴音の全てだった。琴音の目には、彼だけが世界の中心として映っていた。この男こそが、自分を満たし、自分をこの状態に変えた唯一の存在なのだ。
琴音は、自分の過去は存在しないと無意識に認識する。祭祀によって「新たに生まれ変わった」ことが、琴音にとっての真実であり、完璧な幸福となる。彼女は過去を「失った」のではなく、最初から存在しないものとして受け容れたのだ。
琴音は、ゆっくりと慧の身体に身を寄せた。彼の肌の温もりが、冷え始めた琴音の身体を温める。彼の腕の中で、琴音の心は満たされていく。
もはや、琴音の瞳には、過去への悲しみも、失われたものへの執着もない。ただ、穏やかな光が宿っている。この村の中で、慧と共に生きること。それこそが、琴音にとっての絶対的な真実であり、揺るぎない幸福だった。祭祀の夜は明けていなかったが、琴音の新しい世界は、すでに始まっていた。
因習の檻 - 琴音の祭祀 - 舞夢宜人 @MyTime1969
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます