かつ丼が食べたくて
はむぱん
第1話 目覚めの朝
たぶん西暦九千六百年ぐらい。
八尾乃とわ子は、草に覆われた石の寝台の上で浅いまどろみから覚めた。頬を伝う一筋のよだれを手の甲で拭う。夢を見ていた。
熱い出汁の香りと、衣のさくりとした歯ざわり、柔らかい白飯。甘じょっぱいつゆが染みて、箸を持つ手が止まらなかった。
目を開くと、濃い緑が視界を埋め尽くしている。蔦が絡みつく無数の樹木、幾重にも折り重なる野生の花。遠くに、かつて鉄とガラスで作られた塔の骨組みが、かろうじて原形を留めていた。
人類文明が滅んで七千年あまり。
街も言葉も人の営みも、すべて朽ち果てた。
とわ子はその滅びを知らなかった。
長い眠りの間に全てが終わっていて、気づけば世界は静かに草に覆われていた。
飢えも渇きも知らず、時折目を覚ましてはまた眠りに沈むだけの年月が過ぎた。
その間に、人間と交わした言葉を思い出すこともあったが、それもやがて薄れた。
だが今日、久しく忘れていた感覚が、夢の奥から突き上げてきた。
あの味だ。約七千六百年前、蕎麦屋の隅の席でなんとなく注文したかつ丼。
それもいつか忘れるはずの些細な味だった。
だが、奇妙なことに、何千年の眠りを経ても、その記憶だけは薄れなかった。
とわ子は上半身を起こし、大きく伸びをした。
「……よし。作らせるか」
声はひどく乾いていた。数千年ぶりに喉を使ったせいだろう。
緑に覆われた世界の中で、ただ一人、永遠を生きる者がようやく腰を上げる。
かつ丼が、食べたくなった。
それだけの理由で、再び世界を動かすことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます