第12話5

 破裂した蛍光色の赤が、脳を通じて音になった。

 飛び起きた烏月の両頬はひりつき、理由の分からぬ熱を持つ。

「酷い有様だ」

 烏月を見下ろす橘は、眉間に皺を寄せ吐き捨てる。睨む彼の隣には、無遠慮に部屋を見渡す狛暮の姿があった。

なぜ烏月のアパートに二人が居るのかが、まったく分からない。

青いゴム手袋をした手で鼻の下を擦りながら、狛暮はため息混じりに溢す。

「橘、当たりだよ」

 何が当たったのか、それすらも烏月にはわからない。だが、橘の喉が激情に大きく膨れたことはわかった。無理やり激しいものを飲み下し、嫌にゆっくりとした詰問を烏月へと降らせる。

「馬鹿だとは思っていたが、ここまでとは。おい、どこに隠した」

「なにが」

 止められない欠伸ついでに、烏月は応える。

 遠慮の無い狛暮に荒らされていく部屋の様子は、他人が受けている災禍を見ているようで、現実味は薄い。

 欠伸を繰り返していた烏月の足元に、容赦なく大量のパケ袋が投げつけられた。

 生理的な涙を手で拭いながら、とりあえずといった風に尋ねる。

「なにこれ」

 だが、目の前に仁王立ちしている橘も、未だに部屋の中を好き勝手に漁り回っている狛暮も、説明をしてはくれない。

 仕方なく足元の山から一袋手に取る。中に閉じ込められた白い錠剤に、腫れぼったい目を注いだ。

 忽ち、憑依した既視感が焦燥感へ、そして冷や汗へと姿をかえていく。拳を口元にあてた烏月の脳内は、目まぐるしく回りだした。

 パケ袋の中身は、昨日土方風の男から貰ったドラッグだ。

 震えた二酸化炭素が手の皮膚を生暖かく湿らせる。ローテーブルの上へ疚しく隠したがりの目を持って行った。

「あ?」

 テーブルの上には二つのグラスと、中身の減った破れたパケ袋が一つ放り出されていた。再び手の中の物を見下ろし、さらに足元に積まれた小山を崩し見る。どれも皺一つ無い、真新しい代物だ。

「なにこれ」

 足元の山は、昨日ちょろまかしたドラッグでは無いことはわった。しかし、なぜ烏月のアパートに山積みになるほど大量にあるのかは分からない。

 自分一人だけでは払拭できない混乱から救い出してもらおうと、橘を見上げる。疑いの眼差しを降らし続ける男は、毅然と口を開いた。

「うちは今、大変な事態が起きているのだがわかるか」

「今まで寝てたんだから、知るわけが無いだろ」

「昨夜社内に残っていたもの十数名が、現在病院で治療中だ」

「は、なにそれ、やばぁ。で、それと俺にどんな御関係が?」

 しゃがみ込んだ橘の手は、自然な動作で烏月の胸倉を掴む。

「聞いたぞ。昨日連れ帰った薬中にドラッグを流していた売人と知り合いらしいな」

「単なる顔見知りの他人だって。それ以上の仲なんてねーよ」

 掴む手を退かそうとしたが、びくともしない。

「社内に堂々不審者が入った。無闇矢鱈にドラッグを社畜どもに強制投与したのちに逃走。被害にあった者たちは、お前のいうあっちの世界だ。難を逃れた者の中に千樫がいて、色々と教えてくれたよ。それでお前は、そいつとどんな取引をしたんだ」

「取引って、俺には関係なんてーー」

 襟首を引かれ、強張った橘の顔が近づく。

「お前気づいていないのか? 売人は、夢幻だ。俺たち夢研を疎ましく思っている奴がわざわざお前に会いたがっていたそうだが?」

 橘の言葉をきっかけに、烏月の脳裏に双子の月は浮ぶ。夜に染まった暗い記憶の中で、金色の薄ぼんやりとした光に浮かび上がった土方風の男の顔。これは間違いなく昨夜の記憶だ。

「話は、地下でゆっくりと聞かせてもらおう」

胸倉を引き摺られた烏月は顔を盛大に顰めるだけで、反抗することなく大人しく立ち上がった。


 地下の尋問室を満たす人工的な照明の白さは、項垂れた烏月の目を覗き込んでは、徒に明るさの針を刺す。

「薬欲しさに、売ったか? ここを」

 対面に座っていた橘は組んでいた腕を解き、左手の先でデスクを軽く叩く。

「違う、俺はただ夢幻が作ったドラッグを試してみたかっただけでさ」

「そのために、しなければならない報告を怠った? 夢現の男とそのような取決めをしていたのではなくて?」

「そんな取決めなんかするか、してどうなる」

 烏月は負けじと言い返し、手のひらでデスクを叩いた。だが、それを上回る大きな音が間髪入れずに返され、デスクは痛みに震える。

「お前の大好きなドラッグが手に入るんじゃないのか? 夢研が、周りから、特に夢幻からどんな目で見られているか、お前なら良く知っているはずだ」

 歯痛が酷そうな面持ちをしている橘の言わんとしている事を、烏月がわからないわけが無い。

 人は夢幻と関わる事を嫌がる。だが話題に上がれば面白おかしく盛り上がり、時には無責任な擁護で周りに噛みつく者も現れる。国も夢幻への締め付けを強くしたいのだが、人と変わらぬ姿、腹を介さないとしても人から産まれる事実は、人に奇妙な親近感を形成するらしい。それ故、無責任な集まりは都合よい人権を夢幻に与え、その都合よい権利は国を縛りつける枷となってしまっていた。

 そしてこれは烏月の大まかな想像となるが、夢幻からすると、そんな権利に価値はない。

彼らにとっての人とは、可愛がる理由のない家畜やペットと同等か、もしくはそれ以下でしかない。

 そのような中、夢研は人の社会から外れた夢幻が問題を起こせば社会のルールを元に、力ずくで夢幻を裁く。当然、夢幻にとって鬱陶しい存在でしかない。

橘のように、契約を交わし人の営みの中で暮らす夢幻も居るのは確かだが、それは少数に過ぎない。

 人の世であれ、野良犬を煙たがる者も居れば、保護する者もいる事と、似たようなものだ。

 そして、社会性の主である無数の人は、夢研を正義のヒーローと持て囃す者もあれば、人殺しと後ろ指を者も居る。

 烏月は、そんな中途半端な場所で走り続けてきたのだ、分かっている。

 しかし、だからと言って濡れ衣を当然のように着せられることに納得できるはずがない。

「おかしいだろ。なんで俺が黙ってただけでここが襲われるんだって」

「さてな、何かしらの取引があったんだろう」

「だーかーら! その取引ってのはなんなんだよ、してどうなる」

「だから、ドラッグが手に入るとかだろう。部屋にあった山がそうじゃないのか? それとも、もっと良い利益がお前にあるのかもな。相手が会いたがる程度には用があったそうじゃないか」

 橘は余ったハンバーグの種から空気を抜くような、そんな両手の中で持て余し気味の理由で烏月を疑っている。その杜撰さは腹が立つ。

「だから、同じことを繰り返させんなよ。利益なんて俺にはねーよ」

「悪いが、こっちも忙しいんだ。お前が正直にならない限りは、ここで大人しくしてもらうぞ」

 橘は立ち上がって、話を切り上げた。後を追い、烏月も座っていた椅子を倒す。

「正直って、だから理由になってないんだよ! お前、俺を信じる気がないだけだろ」

 責める烏月の言い分に、橘は止まった。ゆっくりと振り返った顔には、表情の欠片も無い。

「自分だけが可哀想などと都合よく人を蔑ろにするくせに、今更お前の何を信じればいいのか俺にはさっぱりだ」

 人の情を人でなしが語るとは、おかしな話だ。烏月はそう言って皮肉ってやりたかったが、言葉の糸口を見失ってしまった。

「お嬢様が気にしていたぞ。お前、人ではないものを囲っているらしいな。そいつが、裏で糸を引いている可能性だってあるんじゃないのか」

 無口がすべてを終わらせようとした時、橘に新しい糸口を差し出された。

「囲って、すげぇ語弊があるんだが? あいつは全く関係ないって」

 邪気の無い糸を掴むことは、烏月には出来ない。

「お前と同じで、この世界は正しく無いと言うのだろ? なれば信用するに値しない」

 去り際、垣間見てしまった橘の苦い様相に、烏月の顎は重たくなる。

 聞こえた施錠の音は大きかった。


 尋問室から出た橘は、地上に戻る出入口の役割を果たす研究施設内へと足を向けた。

「狛暮さん」

 壁際に追いやられたデスクに向かっていた狛暮の背中へ声をかけると、睨んだ顔が振り返る。

「ああ、終わったんだ。何か言ってた?」

 橘と気づくや否や、目元からごっそりと温度は抜け、声からも抑揚は失せる。そのまま歪な湾曲を描く指は、隣のキャスター付きの椅子をすすめた。

「一応は。当然ですが、知らぬ存ぜぬです」

「当然ってのは、どっち。あいつが知らないと嘘をついて当然、それとも知らなくて当然?」

「どっちも当てはまりますね」

「面倒臭いやつだなぁ」

 目を閉じた顰め面でぼやき、狛暮は癖毛をまとめていたリボンを解いた。手櫛で後頭部の頭皮を引っ掻くと、猫の舌が毛繕いをしているのと似た気持ちの良い音がする。

「あいつの部屋から、ほかに何か出ました?」

「でたよ。錠剤から液状まで。調べてみないとわからないけど、液状の方はさ、錠剤よりやばいよ」

 やばいと言う曖昧な主観が掴みにくく、顔の僅かな角度で橘は訪ねる。

「もしかしたら、今回ドラッグを作ったやつは創造主になりたいのかもしれない。君みたいに単なる好奇心の化け物であってほしいけど、どうかなぁ」

「創造主、ですか」

「夢幻は、心臓が止まってるだろ? 命を差し出さなきゃ夢幻にはなれない。これは通例だし、避けようもない手順だと僕は思ってる。けどね、このドラッグは命も蝶も必要とせず人を夢幻に近い何かにしようとしてる。どうしてこんな事ができるのか、成分を調べても全く納得ができない。見えない何かが入ってるみたいだよ」

 あの日から閉じたままのシェルターを狛暮は眺めた。表面をいくら綺麗にあらない流したところで、凹みや刺し傷はどうしても消せはしない。それを隠すように、人が通るに十分な穴が開けられていた。

「欲求に従う君達と、理性もないジャンキー供。真っ向から殴り合ったらどっちが生き残るかな。ま、どっちが死んでも変わらないか。あいつの世話大変だね」

狛暮の抑揚は、無関心だ。

「あんたも手伝ってくださいよ。馬鹿は手がかかって仕方がない」

 助けを求めた橘の声に手を振って応えた狛暮は、ノートパソコンへ意識ごと身体を向けてしまった。



 烏月が尋問室から移動させられたのは、金属とは違うが金属と似た質感の壁で囲われた、夢幻を閉じ込めるための狭い牢屋だった。足を伸ばして寝転がっても余裕はある。そのまま両手を広げる事も一度なら左右に寝返りを打つ事だってできる。

 だが、心象的にここはあまりにも狭い。

 どれだけ正常に呼吸をしても喉に息苦しさはつきまとう。

 明かりは些か足りては居ないが、書物を渡されれば読む事はできるだろう。

 娯楽の一つもないこの部屋に、烏月を押し込んだのは橘だ。彼は、唯一の出入り口である扉についた小窓から中を覗いて、似合いだと鼻を鳴らし言った。

「夢幻と接触されても、ドラッグへ逃げられても困る。そこでおとなしくしておけ」

 一人牢に取り残された烏月は、しばらくの内は腹正しさを音に変え喚いていた。しかし、どうにもならないと悟ると、大人しく座り込み頭を落とすしかできない。

 扉を斜向かいに、壁に背中を預け物思いに耽る頭から、いつまでも「なぜ」が付きまとう。

 なぜ、と脳裏の橘に問いかけ、今回の件と自分は無関係だと言い募っても、一度だって烏月を信じてはくれない。勿論、目を向けているだけの扉が、開くことも無い。

 辛く嫌な事しかないこんな場所から早く解放されたかった。

「早く、帰りてぇな」

思わず口をついた自らの呟きを聞いて、両手で顔を覆った。

 海藍は自ら飛び降り、夢幻になった。

「この世界から逃げ出したい」

 そう思ったからこそ、わかってしまう。

 きっと烏月には、青い蝶はやっては来ないのだと。

 

 時間の経過という概念は、この牢屋では簡単に消失していく。

 牢屋から逃げる手立ては、寝ることだけ。だが、目を開けてしまうと、時間を当たり前のように探してしまった。

「希さん、いる?」

 独りこんな場所にいる事が耐えられずに、いつも突然現れる青年を虚空に探した。当然返答は無い。しかし、寂しい暇を与えられている烏月へと一つの疑問が内から投げかけられた。

 希はなんだ、と。

 烏月は、目を閉じる。

 うろうろと蠢くものがある脳内に希の姿を思い浮かべ、問いただした。

 お前はなんだ、と。

 重ねて問いかける。

「お前は、本当に存在しているのか」

 不意に、光が脳裏を一閃した。

 思えば、烏月がドラッグに溺れた時にだけ、希がそばに居たのでは無かっただろうか。

 頭蓋の中を光が明るく染め上げ、音なく告げる。

「――ジャンキーの夢、ね」

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