第3話2-1
会議室で一時間ほど仮眠を取った烏月は、嫌々三階オフィスの自席に戻り、仕事にとりかかる。
グレシアにせっつかれ一番の急務となっている夢現との共存に関する報告書は、随分前から進んでいない。現場から一歩離れた烏月は、実働班に席は残っていても、実態は一般事務をこなすだけの社員でしかない。
時間が経ってしまった海藍との日々を元に、今更報告書を作成しろと言われても、子細に思い出せることは少ない。さらに思い出そうとすればするほど、感情は二人だった日々を美しく描き直してしまう。
そんな烏月が作成したものなどこの先、何の役に立つというのか。報告書を読み直しながら、在るかも分からない価値を探した。
夢幻との共存について
結論から言うと、何もわからない。
お前なら知っているだろうが、現段階の調査、研究において、夢幻の発生に必要な条件は以下だとされている。
・なんであれ、人格を一時的にでも変えてしまうほどの強い情念
・なんであれ、生きているもの、命と呼ばれるもの
・青い蝶
これらが混ざり合って、夢幻が新たに誕生する。
しかし、強い情念とは一体何であるのか。対象Kから鑑みるに、確かに情念が必要ではあるが、人格を変えてしまうほど強烈であり、また強迫性が必要になるとは思えない。
また、生きているもの、命と呼ばれるものというが、ざっくりとしすぎている。では、ミジンコ一匹でも条件がそろえば夢幻は発生するのかといえば、そのような事象は今のところ確認されていない。
青い蝶だがこれもまた、発生理由、生態は何もわかっていない。
強い情感を持つ人に群がると考えられてはいるが、視認できるのは夢幻が生まれるその時か、夢幻の死に際のみである。そのため、捕獲に成功した事例は今のところ無い。
要するに、対象Kと深く関わりがあり、彼女の咲かせた花が蝶になるまでを余すことなく見ていた俺ですら、わかる事など契約無く生活を共にすることは難しいということぐらいだ。
奴らは他人に興味は無いのだと思う。名の通り、夢、幻のような力を使い、自らの欲求に応え、邪魔をする者があれば悩まずに殺す。抗おうとしたところで、人と比べる事が烏滸がましいほどに、強く頑丈だ。
そして、生前に培った情や倫理が残っているだろうと訴えた所で、無駄だ。橘だって、契約に縛られているだけで頭の中では好き勝手猟奇的なことを考えているに決まっている。
姿が似ているから分かりあえると思っているのであれば、それは傲慢だろう。
対象Kの花から生まれた蝶の行方は不明。飛び立った後の蝶についても何もわかってはいない。
ただ、対象Kを傍で見守っていたこの俺から言わせると、向こうの世界へと飛んでいったはずだ。否、それすらも定かではない。単なる俺個人の希望論だ。
到着したのか、それとも未だに彷徨っているのか、はたまた新たな夢幻となったかもしれない。
わからないが、彼女が幸せならばいいと思う。
共存と簡単にお前は言うが、妥協じゃどうにもならない事ばかりだ。
歩み寄りとは、お互い近づいてこそだろう。
彼女にとって俺と共に生活をしていたと言っていいのか、同じ空間にいたと言うのか、それはわからない。
グレシア、はじめにわからないと書いたが、訂正する。
夢幻との共存は、契約関係があってこそ。互いに尊重しあう共存関係は、彼女と少なからず過ごした俺は、はっきり無理だと断言しよう。
終わりまでを、視線の口で読み直した烏月は、デリートキーを長押しし、内側から痛む額の皮膚を強く擦った。
「報告書ってどう書くんだっけ?」
途方に暮れた独り言につられ、左隣の席から飛んできた一瞥はラジオ電波と似ていた。チャンネルを合わせれば、鬱陶しそうな表情から吹き替えが聞こえてくるだろう。
両足をゆっくりと伸ばした烏月は、頭の中で独り言ちた。報告書を再び一から作り直すなど、正気の沙汰ではない。
固まった膝の関節が痛みと共に稼働し、身体はデスクから遠ざかっていく。空いた距離に組んだ足を収め、両手で後頭部を支えしばらく目を閉じる。
溜息を掛け声に立ち上がった。背中に無数の電波を受けつつ、オフィスから抜け出していく。
廊下を突き当り左に折れた場所にできた狭いデッドスペースは、パノラマだ。マジックミラー越しに広がる土埃臭い光景の中、浮いた出窓へタバコを咥え近づいていった。
ビル内は、上から下まで全室禁煙となっている。喫煙室はいくつか設けられてはいるが、足を延ばすのは面倒くさかった。出窓に寄りかかり頭を出して、紫煙を吐く。
酸欠とニコチンにもたらす酩酊感に喜べたのも束の間、すぐに物足りなさが脳内を刺激した。
「早く帰りてぇなぁ。ちくしょう」
深くゆっくりと、ニコチンを肺で味わい、窓枠でもみ消した吸い殻を外に投げ捨てる。
しがない光景を見るともなしに眺める烏月は、未だに枯渇していた。
我慢のできない欲求は、微かに残っていた戸惑いを押し潰し、全身をまさぐり始める。
「選り好みをしないってのは、こういうとき助かる」
ポケットの底に半ば潰れ入っていたのは、一本の真っ白なタバコだ。フィルターのないそれは、左右の先端から枯れた葉がのぞいていた。
指で形を整え咥える。しみじみ息を吸い込むと、走った光彩に脳は舞い上がった。だがすぐに物足りなさを抱え、さらに刺激を求めた欲求は烏月の身体を操りだす。
抵抗することなく、ライターの火を移した。
脂っこくねっとりとした甘い香りは、すぐに化学薬品の焼ける悪臭に変わる。それが良かった。
得た興奮と幸福感に今にも頭蓋骨を突き破って脳が踊り出してしまいそうだ。
この感覚があるからこそ、烏月はどうにかこの世界で生きていけている。
海藍に会えないことも、彼女と共に正しい世界で生きられないことも耐えられる。終わらない仕事も、グレシアや橘の嫌味も。そしてどうしようもない人間関係も、ドラッグがあるからこそどうにかこの場所で生きていけている。
あれこれと思い馳せていた烏月の目の前は、いつの間にか光で塗りつぶされていた。光はリンゴを彷彿とさせる形となって集まり、蕾のように花開いた。中から溢れ出てきたブラックホールが広がっていく。すべて飲み込む暗い世界の奥に、一点輝く星があった。星が段々と近づいてくると、隠されていた世界が見えてくる。
そこには海藍が居た。
海藍が、星の中で手を振っている。
烏月は誘われて手を振り返した。すると、彼女の背中から青い蝶の羽が生え、浮かんでいってしまう。
光の奥へ遠ざかっていく海藍は、烏月を見つめたまま手を振り続けていた。
「待って!」
上半身が重力に引かれ細く固い物が腹の肉に食い込み、臓器を押す。腹の中で生まれた鈍痛に驚き飛びのくと、まともに立っていられない足がもつれた。背中から転倒し、後頭部を強く打ちつける。
つん、とつむじに沁みる痛みが頭部に覆いかぶさった時、星でも彼女でもなく天井を見上げていることに気が付く。
「会いたい」
縋った口に、真っ白なタバコは無い。膝を震わせ立ち上がろうとした烏月の背後で、遠ざかっていく足音があった。
「おい、見たか? あいつ薬やってんぞ」
「どうしてあんな奴がここで働いてんだ」
廊下は徒に声を響かせたがり、潜められていた声を大きくする。烏月は頭を揺らしながら曲がり角を覗いた。小走りに遠ざかっていく背中は二つ。片方は朝、橘からの伝言を教えてくれた若手だ。も一つは分からないが、きっと彼の同僚だろう。
「あいつが付き合ってた女、夢幻になった上に蝶になったんだろ? 夢幻になっても関係きらないって、好き者だよな」
「もしかしたら、もう人間じゃなかったりしてな、あいつも」
「そうだったら、早いとこ花にして、踏みにじってもらわないと」
若い背中が嘲笑すると、汗ばむ顔を覆ってしまいたくなるようなカッコよさがあった。
出窓に戻った烏月は再び外に頭を突き出す。
埃っぽい風が汗ばんだ額を冷やすと、気持ちは良い。だが、その分虚しさは胸に積もっていく。
「どうでもいいんだ、本当、どうでも」
風に連れられてきた解体業の埃臭さに、喉がのたうち咳き込む。無くならない口蓋垂を突かれる刺激に、生理的な涙は浮かぶ。
誰に蔑視されようが、陰でどれほど噂されようが、烏月にはどうでもよかった。
所詮、グレシアの存在に慄いて、面と向かって言ってくる者は居ないのだから。
「雑魚ってのは可哀想なもんだよな」
口内に残った甘ったるい香りが、沈んだ烏月の独り言に混ざる。
グレシアが、実働から烏月を放さない理由は、先ほどの若手たちが言っていたように、夢幻と関係を結んだからだろう。だが、それだけの理由であれば他に探せば少なからずいる筈だ。
「大量生産の部品なの、俺は」
特別でもなんでもない事は、烏月自身よくわかっている。だからと言って超えられたくない一線が無いわけではない。
「正しい場所に居る奴らには、俺たちの何もわかるはずがない。引っ掻きまわすんじゃねぇよ」
どのような扱いを受けようと烏月には関係ない。けれど、海藍との思い出に遠慮も会釈もなく、面白半分の爪を立てられると、歯茎が痛み疼く程度には鬱陶しかった。
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