夢幻
千馨.H
第1話1-1
今まで不変の安寧を与えてくれていた床の消失感に驚き、烏月悠(うづき ゆう)は覚醒した。
周章狼狽、両手を突き出す。見慣れたアパートの床はしっかりと手の下にあった。
「あせった……」
皺だらけのワイシャツとスラックスは汗臭い。酒焼けの嗄れ声は、小さな独り言ですら喉に擦過傷の痛みを塗り付ける。
未だに落ち着かない心臓は、耳の中で薄紙同士を擦り合わせるような音を鳴らしていた。
両手で脂っぽい顔を覆い、目を擦りながら受け止めた吐息は熱い。
「なんだよ、まだここだ」
舌打ちを零しながら見たローテーブルの上は、汚かった。カラになった酒瓶と、半分中身の減ったグラス。茶色くなった酒のシミの近くにバラ色の錠剤が散らばっていた。なによりも惨憺たる有様なのは、ローテーブルの向こう側に散らばった、グラスの死体だ。
「最低だ」
細かく砕けたグラスの身体は、窓からの日差しを受け銀河を生む。美しくはあったが、このまま床の宇宙を放置しておくと痛い目を見る事はわかり切っていた。なにせ、烏月はこの部屋にいる間、正気でいる事の方が稀なのだから。
両手をポケットに入れ、タバコを探す。
触れた指先の感覚だけで、潰れたソフトパック越しに残りの本数を数えた。
残りは、三本。
閉め切られた窓から不法侵入の朝。床に散らばるグラスの銀河。目に入るすべてが、烏月のやる気を削いだ。
勢いを半ばまで絞ったライターの火は、うっとりと空気に身を預け左右に揺れていた。
この灯りが、烏月は嫌いではない。
手首で揺すったソフトパックから一本の白い尻が顔を覗かせる。すかさず口で捕まえ息を吸った。火のついていない紙たばこ独特の、甘くほろほろと崩れる葉の臭いが、口の中から鼻の奥へと抜けていく。
タバコに火をつけ、一口目の紫煙をじっくりと吐き出す。その間、烏月はライターの火を眺めていた。
視線だけで灰皿を探す。真正面の窓の下、ひっくり返って転がっているのを見つけた。
拾いに行くのは面倒くさかった。窓から見えた洗濯物を取り込むのはもっと面倒くさかった。
烏月は腹を必死に折り曲げ、腕を伸ばし、散らばっている銀河の中から一番大きなガラス片を摘まむ。ローテーブルの上に並べれば、一端の灰皿だ。
「そういや、昨日は希さんと顔合わせるまえに潰れたな」
ぼやいた舌を紫煙に浸した。喉の調子は、タバコを吸った後の方がずっと良い。
烏月は一本吸い切った頃に、ようやく今日を始めようと動き出した。
「いま何時だ」
子供が嫌々する様に、顔を左右に振ってスマホを探す。先ほどタバコを探した時には、ポケットの中には無かった。
覗き込んだローテーブルの下には無い。ベッドの枕元を目で浚っても見当たらない。団子状になっている掛け布団をめくり見ると、寂しく独り寝をしているスマホの姿があった。
液晶画面で確認した現在の時刻は、九時七分。
始業時刻は朝の九時。
「まぁ、いっか」
烏月はライターに火を灯し、ゆっくりと眺めた。
人里から離れた解体業の作業所と運送業の倉庫が広がるトラック地帯は、朝から晩までトラックの往来と、けたたましい物音が絶え間ない。
時々、聞こえてきてはならない騒音も多いこの場所に、烏月の職場はあった。
五階建てのビルは、全面マジックミラーに覆われている。その上に、発光ネオンで作られた『夢幻調査研究センター』の看板がでかでかと掲げられていた。
十一時までには出社しようと目標を立てアパートを出たわりに、烏月が会社に到着したのは十一時半過ぎだ。タバコを買いに立ち寄ったコンビニで、三冊立ち読みした事が原因だろう。
「はざー」
三階のオフィスに入ってすぐ、烏月は酒焼けでやる気のないしゃがれ声を絞り出す。働いている者を誰一人として振り向かせる事はできなかったが、特に不満はなかった。
自席に向かう途中、彼に気がつく者も居たけれど、透明人間を相手にする暇人はここには居ない。
烏月も、他人の為に暇を割くほど暇ではない。
長らく愛用しているバネの軽いオフィスチェアに重い腰を落とす。PCの電源を入れようと手を伸ばした所で、背後から若い声が投げつけられた。
「烏月さん、出社したらすぐに会議室に来るようにと、橘(たちばな)さんから伝言もらってます」
「マジかよ。座る前に言ってくんねぇ、そーゆーの。動くのだるいって」
腹の弛んだ烏月の返答に芯は無い。荒々しいため息を挟んだ若手は、アイデンティティを殺して同じ言葉を繰り返した。
「出社後、すぐに会議室に来るようにと、橘さんから伝言もらってます」
PCの電源を入れた烏月は、オフィスチェアに背中を預けた。
「君が行けば? そのまま俺の席に座れるかもよ」
「烏月さん!」
「はぁーい」
へらへらと腹の表面をわずかに波打たせる返事をするだけで、烏月は動こうとはしない。
悪意込められた舌打ちが背後から聞こえ、荒々しい打鍵音が続く。
力一杯の指圧で叩かれるキーボードは、痛いだろう。烏月は憐れみをあくびに変え、涙を浮かべながらPCが立ち上がり切るのを待っていた。
腰のおさまりを良くしようと身じろいだ時、腸内で気泡の動く感覚に気が付く。
社内メールを確認しつつ、横目で左右を伺う。真面目な同僚達は、石膏のように身じろぎ一つしない。
今しがた届いた新着メールを確認した烏月は、そっと右の尻タブを持ち上げ、音を殺しすべてを絞りだした。
「はいはい、行きますって。会議室ね、どうせ終わってるでしょうに、今から行ってどうすんの」
周りに聞かせるよう酒焼けの喉を必死に震わせ、あえて大ぶりに手と尻を動かし立ち上がる。オフィスから出る間際、そっと自席を伺い見ると、失敗作の石膏像が烏月を見送ってくれていた。
四階の一番奥まった場所にある会議室は、引き戸がきっちりとしまり烏月を通せんぼしている。
このまま、何をしても扉が開かなければいいのに。
そんなことを考えながら、マジックミラーの壁越しに外を眺めた。目の前の開けた道路を、一台のトラックが猛スピードで駆け抜けていく。
車体が道路の果てに吸い込まれていくまで視線で追いかけ、ドアノブを捻った。
簡単に回ってしまったドアノブを恨めしげに見下ろし、そのままの体勢で往生際の悪いため息をひとつ吐き出す。
「早く入ってこい」
扉一枚隔てた男の声に促されてしまえば、諦めを受け入れるしかない。
ええい、の掛け声を腹の中でひっそりと響かせ、烏月は扉を引いた。
開けた途端、襲いかかってきた酸味強いコーヒーの香り。いまだに本調子ではない体は、敏感に反応し喉の手前を激しく痙攣させる。
固い風船のように頬を膨らませ、ゆっくりと扉をしめるや、烏月はトイレに駆け込んで行った。
「お前、またか。最悪だな、早死にする前に我が社へ貢献だけはしてくれ」
三十分以上トイレの一室を占拠した烏月が会議室に戻るや、かけられた言葉は労わりではない。星の流れる尾っぽを集めた長い金糸を背中に下ろした少女の、甘声の唾棄だ。
「死人に電池が入ってる顔していますよ、あんた」
胸を膨らませる楽しい事も嬉しい事も、なにもかもに対し興味の無さそうな、男の追撃が入る。
「ねぇ、優しさって知らない? 人間関係にはとっても大切なんだけど。あった方が色々と円滑に進むよ、知らんけど」
心にもない助言を杖に、烏月は出入り口に一番近い席に座るや、身体を伏せた。
部屋の中央には、灰色の長机で作られた大きな四角形があった。そこに等間隔に置かれた椅子は、三席以外すべて空席だ。
烏月の真正面に座っている少女は、今時珍しい濃紺色の生地で仕立てられたジャンパースカートの制服姿をしていた。長机の一辺を悠々独占しながら、持て余し気味であることが見て取れる。
その右手、角と角で触れる長机の別の一辺には、几帳面に短髪を整えた男が、わざわざ少女の近くに椅子を寄せて座っていた。
二人は、同じ柄のカップとソーサーで手元を飾っていた。男の前に置かれた角砂糖入りの大瓶は良く目立つ。
「遅刻するわ、来た途端トイレにこもってゲェーゲェー吐くわ、お前の方が多方面への優しさが足りていないだろう。どうだ? 優しい私がコーヒー淹れてやろうか、汚れた胃の中がもっと綺麗になるんじゃないか?」
「この場で吐いたろか? その場合、優しいグレシアちゃんが掃除してくれんだろ」
「否、その場合、お前自身に清掃をしてもらう。お嬢様は、雑巾一つまともに絞れない」
他意の無さそうな男の発言に、グレシアの顔が苦みを浮かべてそっぽを向く。
烏月は両手で熱っぽい顔を擦って、伏せっていた身体を長机から離した。
「橘、朝から熱烈な社内メールどうも。わざわざ俺を待ってないで、さっさと会議なんか終わらせてくれれば良かったのに」
言いながら、上着の内ポケットからタバコを取り出す。
「そうはいかない。お前は、うちの大事な大事な事務部の幹部社員だ。元実働班エースなるお前を外野に置いて、大切な話ができるわけもなく。それから、若いのを困らせるな。烏月さんが動きませんってな。橘に泣き言のメールが入ったぞ。下の者には優しくしてやれ」
突くグレシアを流した烏月は、身体を上から下に叩きライターを探した。
見つけたライターで咥えたタバコの先端を火に炙る。終わりの黒へと変わっていく臭いがした途端、グレシアから飛び出したのは、蚊柱と変わらぬチンピラ同等の文句だ。
「おい、ここでタバコなんて吸ってみろ、殺すぞ」
やおら、橘の逞しい片眉が神経質に持ち上がり、目玉だけが別の生き物のように上下に蠢く。そのあと、落ち着いてグレシアを捉えた。
「お嬢様さま、その年になってもおしり叩きがお好きなようで」
「叩いたらセクハラだぞ。んな事したら解雇だ、解雇。場合によっちゃお前の顔がネット上に出回るかもな」
「そうなりますと、私は早々にお嬢様との契約を打ち切らせていただきます。どうぞ、あとはお好きに夢幻の研究やら調査やらをご勝手にしてください」
淡々とした様相を崩さず意見を並べる橘を相手に、グレシアの顔に怒りの色が浮かぶ。だが、すぐに飲み干す仕草で顔色を取り繕い、投げやりに舌を短く回した。
「ごめんなさい、気をつけます」
口内に残ってしまったものを噛みあぐねながら、橘へと見せつけるよう少女は背筋を伸ばす。独善に道を正された背骨の悪態は、離れた席に座っている烏月にまで届いた。
「で、この会議の内容はなんですかぁ」
タバコをポケットに隠した烏月は、頬杖で身体を支え、進まない会議の先を促した。
「烏月、新しい電池いるか?」
しかし、前置きなく橘は話を別の方向へと反らしてしまう。さらに、椅子の足を削って立ち上がり、他人の意見なぞ聞く気もない様子で、颯爽と会議室を出て行ってしまう。
残された二人は、香りもニュアンスも違う二酸化炭素を、それぞれのタイミングで撒き散らした。
「あいつさ、まさか本当に電池取りに行ったとかないよな。人は電池で動かねーって、お前教えておけよ」
扉の閉まりきる音を聞いた烏月は薄目、薄口を開けて言った。ついでに、迫り上がってきたものを飲み込む。
「馬鹿か? あれだってそれぐらいの事は知っている、はずだ。何だ、お前が電池如きで動くのならありがたい話じゃないか」
思うところがありそうなグレシアは、すぐに悪巧みを秘めた微笑みを浮かべて見せた。
「しかし、あれも案外とお前に気を使っているものだな」
続く言葉を勿体つけて止め、唇を半開きにしたまま、少女は目の前のカップを指で弾く。
「電池という戯言も、あれなりの最大限の優しさだろうさ、多分。自業自得なお前を苦しめて楽しむ気が無ければ、の話だけどな」
橘の出ていった扉を眺めているグレシアには、広きを俯瞰する老齢なる影と幼い見た目のアンバランスさが際立つ。
烏月は、得体の知れない少女を払い除ける余計な一言を探そうとしたが、面倒臭くなってやめた。
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