第14話 初デート②

 家の前には、迎車のタクシーが静かに停まっていた。


 白洲しらすが玄関の鍵を閉めている間、心愛ここあはそのすぐ横で、ワンピースの裾を指でつまみながら、ぴょこぴょこと足踏みしていた。

 待ちきれないわけではない。ただ、気持ちが高ぶって、じっとしていられないだけだ。

 ちらりと横目で白洲を見ると、相変わらず無駄のない動きで鍵を施錠し、手早くポケットにしまい込む。そして、静かに振り向いた。

 

「車じゃないんですねっ?」


 心愛の問いかけに、白洲は一拍おいて静かに頷く。


「ええ。水族館のホームページに“公共交通機関でお越しください”と明記されていましたので」


「……まじめ~~っ!?」


 ぽかんと目を丸くして、それから笑いながらつぶやく。


「てっきり、ディナーでお酒をたしなむのかと思ってましたよっ。運転しなくていいように、みたいな……!」


 そんな彼女の憶測を、白洲はあっさりと肯定した。


「ディナーも、予約済みです」


「……ッ!!」


 その言葉に、心愛の中で“できる男ポイント”が一気に跳ね上がった。


(なにそれ……え、え、めっちゃ大人じゃん……予約してるの!? しかも自然に言った!! 惚れる……!!)


 内心で勝手に騒ぎながら、なぜか意味もなくその場でくるりと回ってみたり、スカートの裾をぱたぱたさせたりと、挙動が不審になっていく。

 白洲はそんな様子をちらりと見やり、ほんの一瞬、眉を下げた。


「……えっと、行きましょうか?」


「あっ、は、はいっ!!」


 照れ笑いを浮かべながら、慌ててスカートを整える。けれどその瞬間――


 「どうぞ」


 白洲がさりげなく、タクシーのドアを開けて彼女を促した。

 腕を伸ばして軽くドアを押さえながら、車内の段差を確認しつつ、心愛の目線の高さに合わせて自然に体を傾ける。まるでそれが当たり前かのような所作だった。


「足元に気をつけて。……段差があります」


「う、うむ……くるしゅうないっ!」


 一瞬でテンパった結果、謎の武将ボイスが口から出た。

 自分でも「なに言ってんの!?」と瞬時に気づいたが、後の祭りである。


「……?」


 白洲が首をかしげる。その静かな疑問符に、心愛は顔を真っ赤に染めながら、そそくさと車内へ乗り込んだ。

 白洲も続いて乗車し、静かにドアが閉まった。


 タクシーが滑るように走り出す。


 その車内には、真顔の男と、照れすぎて変な動きをしていた女と――二人分の少しだけ温度の違う緊張が、確かに同乗していた。


 ◇

 

 タクシーが都心部を抜け、湾岸エリアへと向かう頃。

 車窓から見える風景が少しずつ開けてくる中、心愛はふと気になったように口を開いた。


「……あの、白洲さんって……お酒、飲むんですか?」


 白洲は顎に手を添え、少しだけ考えるように目線を上げた。


「……まぁ、付き合いもありますから、多少は。ただ、好きかと言われると……どうなんでしょうね」


「えっ、でも白洲さんって……ワインとか、めっちゃ似合いそうですよねっ!」


 心愛はパッと顔を輝かせる。グラスを片手に静かに語る彼の姿を想像して、勝手にテンションが上がる。

 だが、白洲は微妙に首を振ってみせた。


「蒸留酒は……なんとなく控えています。血中コレステロールや肝機能の数値が、ここのところ少し……」

 それを皮切りに、中年特有の“健康診断トーク”が始まった。

「γ-GTPがですね、去年は基準値ギリギリで、今年ようやく……」


「え、えっ、がんま? なんとか……?」


 心愛の理解が追いつかない中、白洲は淡々と語り続ける。

 体質、体重、飲酒量、各種データ……理詰めで身体を管理している中年男性の圧倒的な説得力である。


「まぁ、飲むとすれば日本酒か、グラスワインを少し。ビールは……腹が出るので避けてます」


 そしてふと、白洲は問い返すように声をかけた。


「心愛さんは……お酒、飲まれるんでしたっけ?」


「へあっ!? わ、私、何か言いましたっけ!?」


 突然の逆質問に、心愛の声が裏返った。


(やば……どうしよう……!)


 何をどこまで話したか、記憶を巻き戻す暇もなく、白洲はさらりとこう続ける。


「……お祖父様から、何となくですが」


 月城つきしろ鷹臣たかおみ――白洲の勤めるコンサル会社の重役にして、心愛の祖父。

 そして、この“お見合い同棲”という奇妙な制度を考案した張本人だ。


(……え!? まさか、あの成人祝いの時のこと、話したの!?)


 心愛の脳裏に、記憶の地獄絵図がよみがえる。


 成人祝い。祖父と母に勧められるまま、初めての日本酒を飲んで――

 気がつけばカラオケ大会が始まり、挙句の果てには「おじいちゃん!野球拳で勝負だよ!!」とマイク片手に挑みかかった、あの夜。


「……っ、ど、どこまで聞きましたかっ!?」


 必死に問い返す心愛に、白洲は少しだけ困ったように眉を下げる。


「……“あまり飲ませない方がいい”とだけ、伺っています」


「…………うう、気をつけます……」


 心愛はソファの背もたれに身を沈めながら、小さくなって答えた。

 そんな彼女を横目で見ながらも、白洲の表情はどこか柔らかい。笑っているわけではない。だが、その目元にはほんのわずか――微笑の気配が滲んでいた。


 そうしているうちに、窓の外には巨大なガラスのドームが姿を見せ始めた。


「……あっ! 見えてきましたっ、水族館っ!」


 心愛が身を乗り出し、指を差す。その瞳は、期待と好奇心に満ちていた。白洲もその様子に気づき、静かに呟く。


「若者にも人気のスポットだそうですね」


「そうなんですよ! 最近の水族館、めっちゃ進化してますからね! ……それに、サメもいっぱいいますし!」


 “えっへん”とばかりに胸を張る心愛。


「サメって、実は300種以上いるんですよ? でも日本に来るのは大体20〜30種くらいで、そのうち展示されてるのはほんの一部なんですけど……でも! この水族館、ネムリブカとシロワニがいて、しかもちゃんと共生展示なんですっ!」


「……はぁ。詳しいんですね」


「えへへ、サメは奥が深いんです〜。見た目が怖そうだけど、実は臆病だったりとか、泳ぎ方にも個性があって……!」


 心愛のテンションは上がる一方だったが、白洲はさして驚くこともなく、ただひとこと。


「……イルカショーや、SNS映えスポットもあるそうです」


「イルカも可愛いですけどね……やっぱ、サメですよねぇ……」


「……そうですね」


 その同意は、どこまでも静かで――だが、不思議と否定の色はなかった。

 

 ◇


 チケットカウンターの前で、心愛はそわそわと落ち着かない様子だった。

 前には子ども連れの家族、後ろにはカップル。そのどちらにも属さない自分たちの立ち位置を、なんとなく意識してしまう。


「……ね、ねえ白洲さん。これって、あの……デート、なんですよね?」


 思わず確認してしまった声に、白洲はチケットを受け取りながら、淡々と答える。


「人が多い場所ではぐれるといけませんから、なるべく近くにいてください」


 思っていた返答じゃなかったけど。――つまり、否定はしないということで。

 心愛は内心「よっしゃ!」とガッツポーズを決めながら、券売所横にあるスタンプコーナーに目を奪われた。


「うわ、これ入館記念のスタンプですかっ!?」


 そそくさとスケジュール帳を取り出しつつ、並んでいた子どもたちに交じって自分も列に加わる。


「……ふふ、記念にぺたり、っと!」


 押されたのは、イルカの絵柄と「2025 SUMMER」の文字。

 手元の手帳を嬉しそうに見つめながら、彼女はスキップ気味に白洲の元へ戻った。


「見てくださいっ! かわいくないですかこれ!」


 白洲は、わずかに目を細めながら頷いた。


「……ええ。とても、可愛らしいと思います。」


「へへへ……♡」


 その何気ない一言で、心愛のテンションはまた一段上がった。

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