4月6日9時 札幌市中央図書館に行こう
薄く広がった雲の向こうから陽の光がこぼれ、昨日一日を部屋で過ごした無職の目を焼く。風は相変わらず冷たいが、一昨日よりは随分暖かい。よって、マフラーは部屋に置いてきた。私はコートの襟を手繰り寄せ、風にも太陽にも負けまいと顔を上げた。白く輝く薄曇りの中に、当然のごとく巫女装束の女が浮いている。周りが白いと袴の緋色が映えるな。
ここは札幌市電、図書館前駅。その名の通り、図書館最寄りの駅だ。バスと路面電車を乗り継ぐこと数十分。私はいま、札幌市中央図書館の前に降り立っていた。
公共交通機関の中では、幽霊がはしゃぎまわっていたことをここに付しておく。バスも電車も、満員とまでは言わなくとも乗車率は高めだったが、誰一人その幽霊に反応するものはいなかった。どうやら本当に他の人には見えないらしい。かくいう私も人目を気にして幽霊の動きを完全無視していたので、もしかしたら全員無反応を決め込んでいただけなのかもしれない。
思考を切り上げて駅から離れ、目の前の大きな建物へと歩みを進める。薄い雲から太陽が顔を出し、生垣の上でしぶとく生き残った雪がキラキラと白く光っている。そこらをうろつく鳩の鳴き声を他所に建物を見上げると、そこには建物に見合うだけの大きな文字で「札幌市埋蔵文化財センター」と書いてあった。おや、私は図書館に来たはずだが。
くるくる鳴いている鳩と共にしばし建物の周りを巡る。どうやらこの大きな建物のうち、向かって左側が「札幌市埋蔵文化財センター」で、右側が「札幌市中央図書館」らしい。エントランス前からだとひさしに隠れて「札幌市中央図書館」の文字が見えなかったのだ。
誰に憚ることもないのだが、少し恥ずかしい。思わず照れや自嘲の綯い交ぜになった笑みをこぼしたところを、幽霊がじっと見ていた。やめろ、間抜けな私を見るんじゃない。視線を切って玄関に向き直る。しょうもない一幕のことは忘れよう。私は気を取り直して、札幌市中央図書館に足を踏み入れた。実は、これが初めての入館だ。
札幌市中央図書館は、想像よりずっと開放的だった。太陽を抽象化した壁画風モニュメントのあるアトリウムを抜けて中に入ると、カウンターや展示コーナー、児童書コーナーがまず目についた。背の低い棚を入り口近くに集めることで全体が見渡しやすくなっている。
これが中央図書館か。ここしばらく区民センターの図書室しか見てなかったから、その広さに驚いてしまった。隣を見ると、謎の女も何かしらの感銘を受けているようだった。呆けた顔でせわしなく辺りを見回している。図書館ではお静かに。
カウンターの方を見ると、窓口が役所並みに多い。貸出・返却窓口はもちろんのこと、書庫閲覧、インターネット利用、レファレンス、データベース閲覧等々、たくさんの案内が並んでいる。しかも、それぞれのカウンターに1人以上の図書館員が常駐している。日曜なので利用者も多いが、それでも余裕をもって捌けている印象だ。
レファレンス窓口には、なんと図書館員が3人もいる。まさか、全員レファレンス専属なのだろうか。あまりにも真摯に利用者の課題解決を目指している。情報探索のプロである司書に調べもののお手伝いをしてもらえるレファレンスサービスは、今の私の目にあまりにも魅力的に映るが、しかし、対面での相談はハードルが高すぎる。
私はここに「明治中期~大正の、札幌の神社に縁のある巫女。あるいは、札幌で巫女役を務めた女優」を調べに来た。内容を分割して相談していけば、これ自体はそこまで不審なことではないだろう。図書館員も親身になって手伝ってくれるはずだ。
しかし、プロフェッショナルなヒアリングの末に、「海からついてきた幽霊に取り憑かれていて……」などと調査の発端を白状してしまう可能性は大いにある。もしそうなってしまえば、職員による善意の病院送りも視野に入る。……いや、よほどのことがない限り図書館員は利用者の秘密を守らなくてはならないから、実際のところ、おそらく119番には繋がらない。しかし、それでも善良な司書を困惑させてしまうことは確かだろう。他人に迷惑をかけないことは無職に残された数少ないプライドである。大事にしていこう。
レファレンスサービスを断念した私は、館内案内の前でしばし思案する。どこから見に行こうか。
まず、分かりやすい資料の探し方の一つに、児童書を漁るというものがある。大抵の児童向けの事典は字が少なく絵や図を載せていて、端的な理解の助けになるからだ。教育目的のものなので良書が多く、さらに図書館側としても選書に力を入れがちなため誤りや偏りも少ない。特に今回の調査では巫女――宗教の領域も入ってくるので、思想の強すぎるトンデモ本が弾かれているであろうことは非常にありがたい。が、今の私は児童書を漁れない。
この図書館の児童書コーナーは「こどもの森」というらしい。私はこの森に分け入る勇気がなかった。なぜなら今日が日曜日で、しかもまだ春休みの期間だからである。今年から札幌市の春休みは2日伸びたのだ。今の児童書コーナーはまさに「こどもの森」と呼ぶにふさわしい状態となっており、謎の浮遊物に取り憑かれた無職が足を踏み入れていい空間とはとても思えなかった。
森の中を軽く見渡すと、母親と思しき女性にお説教をされる子供の姿が目に留まった。漏れ聞こえてくる言葉を総合するに、どうやらあの子は本のページを破いてしまい、しかもそれを隠したまま返却しようとしたらしい。幼き下手人は項垂れ、眉根を寄せて口をぐっと引き結びながらお叱りに堪えている。
まごうことなき悪事ではあるのだが、衆人環視の中でお説教というのも気の毒だ。何とも居た堪れない気持ちになった私は「こどもの森」から視線を外し、一般書コーナー「一般図書の森」に足を進める。私の住処はあちらのようだ。子供たち、健やかに育てよ。
時折見かける館内図に助けられながら「一般図書の森」の端まで行き着き、ようやく目的の棚を見つけた。「こどもの森」から離れ、ずいぶん端の方まで来たものだ。人も少なくて気分がいい。
ここは、日本十進分類法で17の棚。すなわち「神道」のエリアだ。昨日「札幌市図書館 蔵書検索・予約システム」で見つけた「図解巫女」(※10-1)がここにある。ちなみに、日本十進分類法――略してNDCとは、大雑把に言うと内容によって割り振られる図書の住所みたいなものだ。図書館の本の背表紙についているシールでおなじみの、あの番号である。文学が9から始まることだけ覚えている人も多いのではなかろうか。
日本古来のなんやかんやに宿る霊的パワーがどうのこうのといった怪しい本たちを無視して、「図解巫女」を探す。幸い神道エリアは狭く、棚をなぞるように背表紙を眺めているとすぐに該当するタイトルが見つかった。
「図解巫女」を手に取って目次を開くと、「No.005 巫女の装束」という章題が目に入る。まさにそのものズバリだ。該当ページに目を通していく。章の終わりに図が示されていて、非常に読みやすい。時間もないし章末の図説を中心に見ていこう。
そうして私は、「No.005 巫女の装束」から「No.015 女性神職の衣装」までの服飾に関する章を読み進めていった。
結論から言うと、幽霊の着ている衣服は、正規の巫女装束の特徴とほとんど一致していた。「
とはいえ、最初に「ほとんど」とつけたのは理由がある。巫女説の採用を妨げるほどではないが、小さな差異もあった。
まず、「肩に羽織っている長くて赤い布」にあたる記載は見つけられなかった。これだけきれいに情報が抜け落ちているので、もしかしたら、巫女装束とは関係ないただの防寒具なのかもしれない。あるいは、女の所属していた神社特有の装身具の可能性もある。
惜しいところで、「No.015 女性神職の衣装」の章末イラストに「宮中の女官が用いた女房装束」があり、そこに肩から垂れ下がる長い布が描かれていた。カラーイラストではないので赤いかどうかは分からないし、幽霊のもののように黒いボーダー柄が入っているわけでもないが、形状的には似ている。
名前が分かれば格段に資料を探しやすくなる。「女房装束」、覚えておこう。
また、袴の形状についても一般的な巫女装束との違いがあった。以前女の姿を描いたときにも気になっていたことだが、彼女の袴はスカート型ではなく、股――正式には「
「No.007 緋袴」によると、「明治になって教育者の下田歌子が女学生のために
「それ、行燈袴じゃないんですね」
後方でキョロついている女に小声で確認すると、彼女は首を傾げた。声が小さすぎて彼女の耳まで届いていないようだ。
イラストを指で示すと、彼女はしばらくそのページを眺めた後、頷いた。何の頷きだ。一応真意を問うてみると、先程の質問は聞こえていたが「行燈袴」という言葉が通じていなかったらしく、意味を理解した上で改めて返答したのだとのこと。これは言葉を知らないというよりも、そもそもスカート状の袴を知らないようだ。浮遊する幽霊は脚を開閉し、襠のない袴の着心地を想像して確かめている。はしたないからやめなさい。
「明治になって教育者の下田歌子が女学生のために行灯袴を発明」し、それが普及したのが具体的に明治何年からなのかは分からない。確かに、明治~大正の人物であるというこの女と「行燈袴」の時代が被らない可能性はある。「行燈袴」、これを調べてみてもよさそうだ。
それと、衣装とは別のところになるが、「No.10 髪留め」に巫女の髪型についての記載を見つけた。
これによると、巫女は伝統的に長髪らしい。曰く、「長い黒髪は日本文化の誇りとされ、神社巫女には長い黒髪を維持するように望まれることが多い。そのため、髪が短い間は「
該当ページを指して、付け毛について問うてみる。すると女は一時逡巡を見せた後、首を傾げた。付け毛をした覚えはないらしい。伝統をないがしろにしてもよくなったのはいつ頃なのだろうか。このあたりも調べる価値があるかもしれない。
「女房装束」「行燈袴」「長い黒髪」。私は新しく出てきたキーワードを再確認し、「図解巫女」を元の場所に戻して別のエリアへ移動を始めた。
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