第6話 海江田の好きな人
トイレから教室に戻り、二限目の生物が始まる。
……海江田、なんだよアイツ。
そう思いながらも俺は席に座り、また教科書を出してノートを開いて、考えるのはすぐ目の前にいる柚原さんのことである。
ふと黒髪をかき上げたその一瞬、首筋がちらりと見えた。
透き通るような白い肌に、うっすら浮いたうなじのライン。……なんだよその破壊力。つい視線が吸い寄せられる。
そして、三限目、四限目、弁当、五限目、六限目、時間は進んでいき、文化祭の役割を決めるための放課後となった。
教卓の前に立ったのは、クラス委員の柳田と高橋さん。
柳田は、短髪に少し気だるそうな表情。いつものことだ。
一方の高橋さんは、ポニーテールで、ちょっとキリッとした目元の女子。 制服の着こなしは真面目だけど、テンションはわりと高め。よく笑うし、声も通る。
柳田が軽く咳払いして、ぽつりと話し出す。
二人が立つと自然と教室が静まる。男子も女子も、いつもよりちょっとだけ真面目な顔つきになる。
柳田は一度、こほんと咳払いをしてから、俺のほうをちらっと見て、それからゆっくり口を開いた。
「……えーと、朝にゴリ松が言ってたと思うけど。文化祭、ちゃんと決めていこうってことでまず決めようと思うのは店名だ」
そこに、すっと横から高橋さんの声。
「今回の文化祭、2年5組はたこ焼き屋をやることになってたと思うけど、誰か店名にアイデアがある人はいる?」
しかし誰も何も言わない。
すると一拍置いて、彼女は自信たっぷりに笑って言った。
「そうなると思って、実は私たちで決めてきました!」
おおー。頼れるクラス委員!
柳田が肩をすくめてから、黒板にカツカツカツと文字を書き始める。
「俺たち2年5組のたこ焼き屋の名前……『ニコちゃんたこ焼き』でいこうと思うんだ」
「2年5組だから、ニコってことで。みんなどうかな?」と高橋さん。
教室内では「いいじゃんそれ」「ニコちゃんか〜」と軽い笑い声があがり、すぐに雰囲気は柔らかくなった。
誰も異論を挟む者はいない。
「ん?杉浦、なんか言いたそうな顔してるな」
と、柳田が俺に振ってきた。
お?
そこで俺は瞬時に考える。
ここで何か一言、みんなが笑ってくれるような言葉を。
「じゃあ……たこ焼き1人前25円にする?」
「バカ野郎安すぎるだろ」
「じゃ、ニコニコで2,525円で」
「それだと高すぎんだよ」
で、クラスにほどよい笑い声が。
ふぅー。一安心である。柳田のやつめ、急に振ってきやがって。
柳田の奴、黒板の前で俺を見てニヤついてやがる。
まったく。幼馴染というのは、厄介なものである。
「じゃあ、次は役割を決めていこうと思いま~す」
高橋さんが言った。
と、そのとき、―――ガラッ!
教室のドアが突然勢いよく開かれ、全員がその方向に視線を向けた。入ってきたのは、ジャージ姿のゴリ松だ。
「おーい、お前ら!文化祭の話し合い、ちゃんとやってるか?」
「やってますよ」
「進捗を報告てくれぇ~」
ゴリ松は教卓のイスを教室の端に置いてそこに座った。
「たこ焼き屋の名前、ニコちゃんたこ焼きになりました」
「へえ~、いいじゃん、名前の由来は?」
「2年5組だからです」
「がはは、そういうことな」
「じゃあ、役割決めていこうか」
高橋さんがそう言って、柳田が手慣れた動きで、黒板に項目を次々と書き出していった。
教室の装飾、ブースのデコレーション、看板の制作、メニューの決定と食材の調達、文化祭前の広報活動、チラシの配布、お金の管理と会計。
俺は、正直どれに入りたいとか、これがやりたいとか、そんな熱量はなかった。
だけどひとつだけ、譲れないことがある。
……それは柚原さんと同じ役割になりたいということだ。
さすがに「俺、柚原さんと一緒がいいです」と手を挙げる勇気はない。
だから俺は、柚原さんがどこかの班に手を挙げたら、すかさずそこに便乗するつもりで、じっと彼女の動向を探っていた。
幸運なことに俺は柚原さんの真後ろの席である。
早押しクイズでもするように神経を集中させ、柚原さんの手の動きを見張る。
「じゃあ、まずは食材の買い出し班を決めます。ちなみにこれは、前日の準備になるので、部活が忙しい人はここがいいと思うけど」
と高橋さんが言った。さすが、配慮が行き届いてる。声も通るし、進行もスムーズ。
こういうの、地味に助かるよな。
さらに柳田が教室をぐるっと見渡して、ぽつりと口を開いた。
「海江田はサッカー部の部長だし、買い出し班に入っといた方が楽なんじゃね?」
その問いかけに、海江田は「あ〜」と気の抜けた声を出した。
ゆるく背中をかきながら、「まあ、そうだな」とだけ言って、ひょいと手を挙げる。
そして……驚いたことがあった。
海江田はほんのチラっとこっちを見た。
しかし、俺と視線が合うわけではない、たぶん……いや、確実に、海江田が見たのは柚原さんである。
俺はつい、昼のトイレでの会話を思い出す。
海江田が『好きなやつ』って、誰なんだよ。
まさかとは思うけど……いや、まさかな。
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