ココロのヒンジ

西野 夏葉

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 こんなあたしも、これまでの十数年の人生において、何人かの男子とお付き合いをさせていただいた。

 そりゃあ本当は、一人のひととずっと一緒にいられたらいいと思う。でもこの世界においては、何事についてもいつか終わりが来るようにできている。人の命は永遠でなく、命よりも気持ちの方がずっと軽く、つんと指先で突いただけで簡単に揺れるような、心もとないモノだ。


 だからあたしの気持ちが相手と反対の方にかしいでしまうことも、また、相手の気持ちがぐいと別の引力によって離れてゆくこともあった。所詮そんなものだと思う。特に若い頃なんてだいたいそんなもので、付き合った男の人数で女の価値が決まるとか、まあその逆もありそうな気がするけど、とにかく場数を踏んでいた方がえらそうな感じ。若い頃……とか言っちゃって、まだ相対的に見ればあたしも「若い」に入ると思っているし、できるならずっとそうでありたいと願ってはいる。しかしながら「ずっと」なんかこの世界にないことも同時に理解していた。

 


 そんなあたしが今、絶対に陥落させようとしている、クラスの男子。

 休み時間でも単語帳なり参考書を開いて、頬杖をつきながら、紙に刷られた字ばかりを追って、周囲のクラスメイトのガヤガヤの中にそっと溶け込んでいる。いかんせんその行動に裏打ちされた成績の良さがあるからイジメの対象にはならないし、見た目もいわゆるガリ勉のそれではなくて、普通に小綺麗で、そこそこ整った顔立ち。いつも学ランの一番上のボタンを外している。


 正直言って、あたしが一番「ちょろい」と思うタイプだった。

 この手の男子は恋愛ごとにはひどく奥手で、すれ違う女子の香水やシャンプーの香りだけで、詰め込んだ年号も方程式も、テロリストの犯行声明が記録されたテープよろしく自動的に消去されるはずだ。どれだけ心血を注いで真面目にツンとしていても、ふとしたときに手や肩に触れただけで、夏の屋外で食べるソフトクリームと同じで、溶けてデロデロのベタベタになる。


 どうもあたしは、そういう男子をどろどろに甘やかして自分へめろめろにさせ、飽きたら紙ナプキンのように丸めてポイするのが好きな生き物らしい。それが人道的にどうなのかとか、そういったことは知らない。何年か後になって「そんなこともあったね」なんて遠い目をしながら語りたいだけなのかもしれない。


 それがなんだ。事実だろうが。

 ヒトは欲望に勝てないようにできているのだから。



 あたしはその男子の前の、空席に腰を下ろした。椅子の背もたれを抱きかかえる姿勢になりながら、つ、と顔を近づける。



「ねね、高宮たかみやくぅん」



 いきなり向かいに座ってそんなふうに話しかけているのに、びくりと驚くわけでもなく、相手はそっと単語帳を目線より下にずらした。そしてあたしの顔を一瞥すると、もう一度単語帳を目線の高さに持っていく。



「何か」



 てめえ。ここは朝のダイニングテーブルじゃないし、あんたはいつもそこで新聞を読みながら朝食をむさぼるあたしの親父かよ。同じモーションを目の前でやりやがって。


 ぐっと一瞬だけ奥歯を噛みしめ、あたしはまた、余所行き用の声色をつくった。



「単語帳とにらめっこもいいけど、たまにはあたしとお喋り――」

「しない」



 取り付く島もない。誰も語尾を継げなどと頼んでいないのに、こいつはあたしが何を言いたいかを、台詞の途中で理解したらしい。ただのガリ勉のくせに、よくもコケにしやがって。絶対に逃がしてやるものか。


 あたしは食い下がった。



「えー、いいじゃん。他ならぬあたしの頼みだよ」

「だからこそ、余計に嫌だ」

「どうしてさ」

「僕は元気さと騒がしさ、あと積極性と無遠慮を取り違えてるやつは嫌いだ」

「それがあたしだっていうの」

「他に誰かいるのか? その自覚もないなんてずいぶんと幸せなことだ。そのままいつまでも他人の庭の花壇を元気に踏み荒らしてろ。僕の庭以外でな」

「……」



 いや、ごめん。


 ちょっと泣きそう。


 ってか、だめだ。泣いてるわ、もう。



 確かにいきなり首を突っ込んだあたしも悪かったかもしれない。でも、そんな言い方ってある? 何の予告もなくミサイル飛ばしてくるなよ、それも的確に。いたいけなクラスメイトの女の子にする仕打ちじゃないだろ。……いや、こいつだったら、たとえ相手が純真無垢な幼稚園児だったとしても同じセリフを吐いてそう。



 視界が急速にじゅわっと滲みはじめたのとほぼ同タイミングで「うわあどうしたの理央りお!」と声を上げながら、周りの女友達がわーわー駆け寄ってくる。高宮なにしてんのよ、とかいう非難の声も聞こえてくるけど、高宮は今もかぶりつくように単語帳をむさぼり読んでいた。あくまで、俺は悪くねえ、みたいな顔をして。



 クラスメイトたちに肩を抱かれながら、あたしはひそかに決意を固めていた。あの能面を絶対に打ち崩す。あの時は実は女子から話しかけられるのに慣れてなくて……とか照れながら言うようにしてやる。そしてその瞬間にあいつをゴミ箱へシュートするのだ。



 あたしを泣かしたらどうなるか、思い知らせてやる。




 ★




「高宮」



 数日後の昼休み。

 あたしは再び、周囲と国交を断絶した国に潜入するジャーナリストよろしく、高宮にアプローチをかけた。


 このときの高宮は、珍しく参考書に目を走らせておらず、頬杖をつきながら、白く粉をふいている黒板を眺めていた。日直のクラスメイトの女子が今も黒板消しをなでつけているけど、あまりにもそれが非力過ぎて、さっきからチョークの粉が薄くのばして塗りたくられているだけだった。


 あたしは前回と違って、白々しい「くん」付けをやめて、声もふだん女友達と話しているときと同じ色のまま、声をかけてみた。



「なんだよ」



 ちら、と黒い目がこちらを向く。なんだか、こないだよりは声色が柔らかめだった。



「暇?」

「暇じゃない」

「暇でしょ。黒板に何も書いてないのにぼんやりしてさ」

「たまには僕だって、何も考えずにのんびりしたい時間くらいあるんだよ」

「うそばっかり。言っとくけどね、何もしないことをしている、みたいな言い訳は通じないから。しない、ってあんたが自分から言ってんじゃん」



 はぁ、とわざとらしさがカンストした溜息を吐いた高宮は、観念したような面持ちで、組んだ手を机に置いた。こないだ成績不振者として親が学校に召喚されたとき、向かいで同じ姿勢をしていた担任を思い出して、ちょっとイラッとする。

与田よだみたいな〝陽の者〟が、僕になんの用だよ」

「へえ。あたしって、おひさまの下にいるんだ。だったらこないだ冷たい態度だったのも、それが原因かな?」



 目を細めながら、あたしは高宮に顔をぐっと近づけ、彼の表情を覗き込む。高宮の後ろに壁があったなら強く叩いたところだが、生憎そこには何も無い空間が広がるだけだ。


 高宮がやっと口を滑らせた内容によれば、要するに高宮の中であたしは「陽キャ」の部類にいるらしくて、だからあまり話すことに積極的になれなかった……ということらしい。

 いかにも自称陰キャらしい手前勝手な考え方だと思う。始まる前から勝負を投げるな。宝くじは買わなくても買っても当たらないけど、人付き合いは手に入れるべく動けば絶対手に入るものなのに。


 ひゃひゃ、と笑いながらあたしは近づけていた顔を引っ込める。レリーフみたいに固まっていた高宮の表情が僅かに緩みはじめるのを感じた。やっぱ怯えてんじゃん。別にあんたを取って食ったりしないのに。


 なんてったって、さ――。



「手に取るように、とは言わないけど、あたしも気持ちわかるよ」

「どうしてわかるんだよ」

「中学生のときのあたしは、今の高宮とおんなじだったからだよ」



 そう。

 いま、あたしの交友関係にいる子たちが知らない秘密。

 とはいえ真相を知ろうと思えば誰でも知ることはできても、あたしの過去を暴くためにそこまでするような物好きがいないというだけだ。

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