いつも、隣に
「ゆき……こ……?」
明美は目を大きく見開いて、彼女を見つめる。
いるはずがない。
ここは、闇が導く精神世界。たとえ読子の術に巻き込まれたとしても、闇と繋がりのない由紀子は部外者であり、明美と読子の対決に関われるはずがなかった。
「どうして……ここに?」
明美の問いに、由紀子が答えられるはずがなかった。
わけもわからぬまま、ここに辿り着いたのだから。
………………………………
屋上が闇に包まれた直後、まるで疲労困憊でベッドにもぐりこんだ時のように、由紀子の意識は暗闇に落ちていった。
そして時折、目が覚める。
覚めても、意識がはっきりするわけではない。息が詰まるような眠気の中で、どうしても起きることができない。
でも、目はうっすら開く。
そこは、由紀子の部屋であったり、小学校の教室であったり、オンライン授業の画面の前であったりした。
ぼんやりと目の前の出来事を見ているうちに、再び眠気が襲い、また意識がなくなる。
そんなことを何度も繰り返しているうちに、ある瞬間、自分の身体から、細い金色の糸が伸びていることに気が付いた。
かすむ視線で、その先を追っていく。
視線の先には、長い黒髪が揺れていた。
――……読子なの?
声をかけようと口を動かしたいが、全身がねばつく泥濘にはまったように動かない。
空気すら重く、声どころか周囲の音すらスローモーションになっていた。
近づきたい。読子は明美を目指しているはずだ。読子のいく先には、明美もいる。読子のそばに行かなきゃ。
一心不乱に、読子に近づきたいと念じると、身体が糸に引っ張られるように、宙を滑り出した。
そして由紀子は、読子とともに、明美の記憶を追いかけ始めた。
読子を追っているうちに、気がついたらここにいた。
ここにいて、目の前で明美が、読子を殺そうとしてる所を、目の当たりにした。
………………………………
「違うの、由紀子……。黒子がさ、しつこいからちょっと脅かしただけ。」
明美は引きつった笑いを浮かべながら、しどろもどろに由紀子に言う。
なぜ自分がこんな白々しい言い訳をしているのかわからなかった。自分でも声が震えているのが分かる。
さっき由紀子に映像を見せていた時の、高揚した感覚を全く感じなかった。
だって、さっきのあれはただのお仕置き。彼らは自分の愚かさを理解してもらったら、家に帰れるんだから。
由紀子だって、私とひとつになれて嬉しいはずでしょ?
私は、最近冷たかった由紀子に、ちょっとだけ意地悪をして、仲直りしたかっただけ……。
思考にノイズが走る。明美は頭を抱える。回線不良の動画のように乱れた画像が脳裏に写る。
待って。
彼らは……いつから、あの映像の中にいるの?
もう何日目?あの子は、いつ彼らを解放するの?
それに……私はさっき、由紀子になんて言った?
どんなひどい言葉を投げかけた?
え、待って?
私は由紀子と仲直りするために、彼女を映像に閉じ込めるの?
再び思考にノイズが走る。
由紀子ったら……すっかり黒子に毒されちゃって。
まあ、由紀子も私を見下してるから、仕方ないか。
あんな噓泣きまでして。また私を騙すのね。
ああ、残念。由紀子のこと好きだったのに。
邪魔するなら、仕方ないよね。
頭を振りながら、由紀子に憎しみを向ける。
「由紀子、あなたも邪魔をするの?やめてよね。あなたが私に動画投稿しろって言い始めたんじゃない。」
ノイズ。頭の中に贖罪と悲しみが広がる。
「……由紀子、泣かないで。違うの。私、ただ怖かっただけで……。」
ノイズ。
「心配しないでユッコ。黒子もアンタも、私の大事な投稿ネタなんだから。私のプロデュースで有名人に……。」
ノイズ。
「やだ……違う。こんな事……知らない……私は……。」
ノイズ。
「来んな、裏切り者。」
ノイズ。
「見捨てないで……。」
ノイズ。
「「キて、由紀子。わタしはあなたヲ……。」」
声が割れ、明美の姿そのものが、ノイズでブレる。
ノイズが走るたびに明美の表情がくるくると変わる。
由紀子は青ざめた顔でそれを見ていた。
明美がもう、人間の形を保てなくなっているように見えた。
画面が壊れたスマホのように、明美の姿が時折極彩色になり、引き伸ばされ、存在が曖昧になる。空間に亀裂が走り、次の瞬間にはまた戻る。
一瞬、亀裂の入った空間から、無数の目が、こちらを見た。
由紀子はそれと目があった瞬間、自分の中でタナトスが囁くのを感じる。
異質な……見てはいけない、眼光。
きっとあれが……「忌み物」。
由紀子の体を構成する細胞のすべてが、その視線を受け止めることを拒否する。
「忌み物」の気配に気がつき、読子の心に闘志が芽生える。
由紀子が「忌み物」の本体を、引き出してくれた。
あれを祓えば、全てが終わる。
でも、先に由紀子を守らねばならない。
読子は動けない中で、なんとか由紀子を助けようと必死に踠きながら叫ぶ。
「……由紀子さん、近づいちゃダメ!ここを出たいと、強く念じるの!現世への回廊を……。」
読子が言い終わらないうちに、明美が読子に手を向ける。
新たな闇の腕が虚空から伸び、読子をさらに拘束する。視線や口を執拗に押さえ込まれ、読子は力に集中できない。
反撃の目ができたのに……。
歯がゆい事に、このままじゃできない。
この空間……明美の精神世界ごと、「廊」で「忌み物」を閉じ込めてしまえば、もう「忌み物」は現世に害をなせない。
でも、今それをすると、「忌み物」と繋がった明美も、その精神世界にいる読子も由紀子も、明美の中に囚われている魂たちも、全て道連れに「廊」の中から出られなくなってしまう。
多大な犠牲を払って事件は終わるが、誰一人生き残れない。
さりとて、憑依されたままの明美が現世に戻ってしまえば、もっと多くの命が失われる。
何を選び、何を捨てるか……全てを天秤にかけ、ひとつでも命を救わねばならない。
その判断を、読子は迫られていた。
束縛する闇の苦痛に顔を歪めながら、読子は一か八かをかけて、念話を由紀子に送る。
――由紀子さん、私の言葉じゃ、明美さんを説得できない……。
由紀子は、読子の声にハッとして視線を向ける。闇に包まれながらも、読子は強い視線を由紀子に向けていた。
――あなたの声なら、本当の明美さんの耳にきっと届くはず。
由紀子の登場で、明らかに明美の心は動揺した。由紀子なら、闇を拠り所とする明美の心を、あるべき場所に戻すことができるかもしれない。
読子は自分の直感を信じて、由紀子に伝えた。
――明美さんに語りかけて!明美さんが現実を望めば、闇を引き剥がせる!そうすれば明美さんから「忌み物」を……!
その言葉を最後に、闇が巨大な塊となって、読子を包み込む。
読子の声が途絶え、闇の塊が不気味に震えている。
中で読子がどうなっているか、由紀子には想像もつかなかった。
後には怯える由紀子と、闇に飲み込まれる寸前の明美だけが残された。
………………………………
由紀子は困惑する。
突然、舞台の中心に立たされてしまった。
明美はノイズを走らせながら、頭を抱え、フラフラと立ち尽くしている。
あんな状態の明美に、果たして自分の声は届くのだろうか。
逃げ出したい。自分の命が惜しい。
明美も読子も見捨てて、全てから目を背けて、この場から離れたい。
震える思考が、言い訳を並べたてる。
読子……私はただの女の子なんだよ?
何の力もない、頭も良くない、ただの普通の高校生。
あなたと違う……戦う武器も、逃げ出す知恵もない。
こんな私が、どうやって明美を助けるって言うの?
由紀子は浅い呼吸を繰り返しながら、怪異に悶える二人の友人を見る。
明美を包む闇が次第に濃くなりつつあった。ノイズが減り始め、明美が立ち直りつつあるのを感じる。
でもそれは、明美ではないのだろう。
明美の声、明美の形をした、悪意の権化。
そしてその闇は……私の親友の体を奪った挙句、彼女の苦悩と恐怖を糧に、凶行を繰り返す。
怯えた目をしながら、由紀子は立ち上がった。
そんなの……絶対に嫌だ。
自分が何もできない事なんて、最初からわかっている。
でも、他ならぬ読子が……ともに明美を救おうと励まし合った読子が、私を頼った。
彼女はきっと、由紀子にも出来ることがあると、信じてくれたのだろう。
考えるんだ。
自分がここにきた理由を。
なぜ読子が、由紀子を頼ったのかを。
由紀子はゆっくりと明美に近づき始めた。
一歩ずつ、明美をしっかり見据えて、伝えたい言葉を考える。
明美にとって、由紀子は何であろうか。
由紀子にとって、明美は何であろうか。
明美のことを、一番理解しているつもりでいた。
一番の友達だから、明美が何でも話してくれていると思っていた。
明美のそばにいてあげれば、その苦しみを分かち合えていると思っていた。
だけどそれは、彼女の一面でしかなかった。
記憶の世界の明美は、大海に乗り出した小舟のように、絶えず荒波に揺蕩っていた。
明美は、明るい性格になったわけではなかった。
フォロワーが増えて、自分の活動に満足しているわけでもなかった。
由紀子の知らない所で努力し、挫折し、世間との軋轢に悩みながら、必死で由紀子と笑っていた。
由紀子は、明美をまるで理解できてなかったし、救いの手を差し伸べることすら、ままならなかった。
私は明美の全てを、理解してあげられなかった。
私は……友達として失格だったんだろうか?
こうやって、明美を救えるなどと驕るのは、ただの自己満足なのだろうか?
筒井由紀子は、樋口明美の手を取る資格など、最初からなかったのだろうか?
明美がゆっくりと顔をこちらに向ける。
ノイズが走り、表情が変わる。
狂気が、作り笑いが、憤怒が、目まぐるしく顔に浮かぶ。
でも、ほんの一瞬、泣き崩れそうな明美の顔が現れ、由紀子に何か言いかけて、消えた。
それを見た瞬間、由紀子の心から熱いものがあふれ出し、自然と足が歩みを速める。
――違う。そうじゃない。
由紀子は涙をふくと、明美に駆け寄る。
きっと、明美だって私の全てを知っているわけじゃない。
読子だって、友人になったばかりで、彼女のことをほとんど知らない。
でも由紀子にとって、誰が何と言おうとも二人は友達だ。
だから助ける。
自己満足でしょ……って、他人は言うかもしれない。
相手が同じように思っているとは限らないでしょ……って言われるかもしれない。
でも、違うんだ。
まるで頼りない、あるかどうかもわからない細い繋がりを、自分がどれだけ大切にするか。どれだけ愛おしく想うか。
それが、友達でいると言うことなのではないだろうか。
どれほど深く明美を理解してあげられたかじゃない。
今、目の前で苦しんでいる明美を、自分がどう受け止めるかが問題なんだ。
片想いでもいい。永遠じゃなくてもいい。
ただひたすら……彼女のそばにいてあげたい。
だから……。
――だから任せて、読子。わたし、明美を連れ戻す。
由紀子は迷いを捨てて、明美に手を伸ばした。
………………………………
それは、闇にとってイレギュラーな事だったのだろう。
読子の存在が目障りなのはわかっていた。
だから早々に拘束し、宿木から遠ざけたかった。
それは半ば成功した。
成功したが、読子に頼りない光が纏わりついていた。
目を逸らせば消えてしまいそうな、ほんの小さな蛍のような光。
深淵の住人たる「忌み物」にとって、取るに足らないはずのそれが、ここにきて宿木の心を大きく揺さぶっている。
闇は考える。路傍の小石が邪魔ならどうするか。
そして結論づける。
いっそ目の前から消してしまうのが、一番だろう。
………………………………
……子…………き…………由紀子…………わた…………どうすれば…………。
消え入りそうな意識の中で、明美は自分がどうありたいのかわからなくなっていた。
この副音声のような思考は気味が悪かった。それがあの子の正体だと知って、恐ろしくも感じた。
でも、「あの子」のおかげで、私は強くなれた。
怖いからといって、今更、「あの子」を手放せば、また、あの鬱々とした日々が戻ってきてしまう。
いやだ……暗い自分に、戻りたくない。
注目も、羨望も、賞賛も、捨てたくない。
「あの子」に依存しなければ、私には何もない……。
何度も目の前の景色の印象が変わる。
目に映るものへの感情が定まらない。
闇に包まれた級友への
改めて認識した闇への悍ましさが、次の瞬間には陶酔へと変わる。
助けに来てくれた由紀子への愛しさと安堵が、次の瞬間には……殺意へと変わる。
……いや……うそ……ちがう……ちがうのっ…………
再び焦点が定まった時、自分の手が何をしているか理解して、明美の心が破裂しそうになる。
「…………ん……あ……。」
明美の手が、由紀子の首にかかっていた。
ありえないほどの力を込めて、必死に抵抗する由紀子の命を刈り取ろうとしている。
明美の思考が支えを失い、真実を探して迷走する。
――邪魔しないで。消えて。
誰か、そう囁いた。
由紀子が苦しそうに喘ぎながら視線を向け、明美と目が合う。
……私が、いったの?
信じたくない。
今しがた殺意を呟いたのは、自分だった。
「あの子」が……もう一人の「私」が……由紀子を拒否している。
でも……本当にそれは、「あの子」の感情なのだろうか?
やっと得た居場所、称賛、羨望を奪おうとしている由紀子を、私は心のどこかで否定してないだろうか。
「あの子」は、私の心が欲するままに行動しているだけで、本当に由紀子に消えてもらいたいのは、樋口明美自身ではないのか?
疑念が渦巻き、「あの子」を止める事ができない。
「……明美。気にしないで」
由紀子の声が、静かに二人の間を駆け抜け、明美の耳に届く。
その声に、怒りや恨みは感じなかった。
ただ、ふわりと優しげな愛情と、ほんの少しの寂しさが漂っていた。
「いいの……私、あなたを救えなかった。明美に怒られても……仕方ないの……。」
由紀子は、自分の全てを曝け出して、明美に語りかける。
闇が由紀子を殺そうとしていようが、明美の感情が由紀子を排除しようとしていようが、かまわない。
ただ、伝えたい。
明美が後悔しないように。
明美が自分の生き方を受け入れられるように。
最良の結果でなくとも、最悪の結末であったとしても、明美が救われるように、伝えなきゃいけない。
これは私が……私だけが唯一できる、明美への表現だから。
「明美……。私、明美の友達でいられて……嬉しかったよ。」
意識が遠のく。由紀子は、ここが終わりだとしても、満足だった。
その言葉は、感情の堰を切った。
とめどなく溢れたものが多すぎて、それを何と呼べばいいか、明美にもわからなかった。
でも、ただひとつ……たったひとつ。
それだけは絶対に間違いようがなかった。
だから明美は、それを在らん限りの声で叫んだ。
「ダメぇぇぇっ!由紀子を連れて行かないでぇぇぇ!」
いやだ。
由紀子のいない世界ならいらない。
注目も、賞賛も、羨望も、全部いらない。
だから返して。
私の親友を返してっ。
私の親友を奪うあなたなんか……!
あんたなんか、いらないっ!
根底が、崩れた。
明美の心は「忌み物」を拒否した。
「忌み物」は宿木を足場として、現世に顕現する。
寄る辺を失った闇の住人は曖昧な存在となり、それにつながるすべてが、その骨子を失う。
明美の精神世界のすべてが揺らぎ始めた。
………………………………
読子はその音を、闇の腕の中で聞いた。
それまで、闇に飲み込まれんと、必死に耐え続けていた。
耐えきれば、由紀子が道を開いてくれると、信じるしかなかった。
意識と生への渇望を刈り取ろうとする闇の囁きに、全身全霊で抗い続けていた。
それでも「忌み物」の力は、真綿で首を絞めるように、確実に読子の存在を闇に葬り去ろうとしていた。
だから……由紀子がもたらしたその一瞬を、絶対に逃すわけにはいかなかった。
目を見開き、自分の中にある力をすべて絞り出す。
「
読子を包んでいた闇は形を保てず、吹きすさぶ風に巻き込まれるように散りぢりになる。
無数の塵が舞い上がり、空間全体が鳴動する。
読子の作り出した回廊に、崩れた闇がうなりを上げて吸い込まれていく。
読子は遮られる視界の中で、必死に級友の安否を気遣う。
闇とのつながりが断ち切られた以上、この空間が閉じられようとも、肉体のある二人は現世に帰れるはずだ。
それでも、実際に目で見るまでは、安心はできない。
力を制御しながら必死に目を凝らすと、闇の欠片が飛び交う嵐の中に、小さくうずくまっている影が見えた。
震えながら、倒れた相手を必死に守ろうと、抱え込んでいるのは、明美だった。
轟音の向こうから、かすかに涙声が聞こえる。
「由紀子……由紀子……お願い……返事して……返事してよぉ……。」
ピクリとも動かない由紀子を抱きながら、明美は悲痛な声を繰り返す。
読子は一瞬息が止まりそうになるが、慎重に力の一部を二人に向ける。
読子の力が二人に触れると、一瞬明美はびくりと体をこわばらせた。
読子は慎重に由紀子の魂に触れると、ほっと、肩をなでおろす。
――安心して、明美さん。由紀子さんは、眠っているだけ。
明美に伝えると、怯えていた明美は顔を上げ、声がした方……読子の方を見た。
明美の視線の先に、乱れ飛ぶ闇の嵐の中心で懸命に力を使いながらも、しっかり明美を見据え、少しだけ微笑みを浮かべる読子の顔があった。
それは、恐ろしくも美しい、優しい笑顔だった。
「……黒子、ありがとう……。」
明美の声が届いたかどうかはわからない。
でも、読子は表情を引き締め、全力で力を制御し始めた。
飛び交う闇が激しさを増し、明美は由紀子をかばうように包み込むと、ぎゅっと目をつぶった。
読子は、嵐の中心を、闇の行き先を自分の中に定める。
そして、すべてがつながったと感じた瞬間、自分の中に向かって、一気に闇を包み込んだ。
………………………………
………………………………
………………………………
目を開ける。
吹きすさぶ風も、散り散りになった闇もなく、ただ、静寂に包まれた薄暗い回廊がそこにあった。
読子は回廊に座っていた。
回廊には、もう一人……いや、もう一つの影があった。
闇の住人は戸惑いもせず、静かに回廊で立ち尽くしいた。
ゆらゆらと闇色の光をたたえた「忌み物」。
それが、回廊を見回そうとするたび、空間にノイズと亀裂が入り、一瞬、亀裂から眼球が読子を見る。
吐き気のする恐怖と向き合いながら、読子は姿勢を正し、相手を見据える。
意識的に、形を持った「忌み物」を廊に閉じ込めたのは初めてだった。
「廊」が「忌み物」のすべてを飲み込んで、その口を閉じた今、「忌み物」はもう現世に干渉できない。
もう一度、「忌み物」が現世に害をなすためには、宿木を見つけ、再び顕現できるようになるまで待つしかない。
たとえ、この状態から読子を殺したとしても、だ。
それと同時に、この状態は「忌み物」とって、楽しいゲームの終了を意味する。現世に留まる理由の消失を意味し、彼らは次のゲームを夢見て、自分の世界に戻る。
だから「
「
楽しみを邪魔されたとて、腹立ちまぎれに壊してしまうと、不便だ。
その理由以外、「廊」が見逃してもらえる理由が見当たらなかった。
でも読子は、歴代の廊の歴史を知っている。
「忌み物」は、その気になれば「廊」を粉々に壊せる。
彼らがデメリットを超える理由を持てば、いつでも読子を深淵の彼方へと、追いやることができる。
彼らは……狂気と悪業を想うがままに撒き散らす、異界の神だから。
だからこそ、畏怖と敬意をもって、闇に額づく。
それは闇に対する崇敬と懇願だった。
「廊」の力はいわば祭壇。
読子の役割は、一人その祭壇の前に座り、いずれ異神に供されるその日までに、どれだけの人を救えるかという暗澹たるものだった。
それを理解しているから、読子は心から嫌悪する存在に、最大の畏敬で願う。
「お願いします。どうかこのままおかえりください。」
闇は、しばらく無反応に読子を見据えていた。
やがて、ゆっくりと体を揺らしながら、読子に近づいてくる。
読子は平伏しながら、歯を食いしばる。
闇が近づくほどに、自分の精神が不安定になっていくのを感じる。
金属が軋み合うような、ハウリングを無限に繰り返すような騒音が耳と頭の中に響き、吐き気がする。
苦しい、悔しい、悲しい、妬ましい……自分の中の負の感情が、誰ともなくむしろ自分以外への敵意として、心に芽生える。
――違う……これは私の感情じゃない。絶対に違う。
読子は何度もそう心で連呼して、やり過ごすしかなかった。
闇が通り過ぎるまでのその時間は、恐ろしく長い時間に思えた。
闇は読子を見る様子もなく、廊の中を進んでいく。
さいわい、回廊の奥が暗闇に没する所まで「忌み物」が到達するころには、読子の中の異音は、少しずつ静まっていった。
いつしか、真っ暗な回廊に、読子だけが取り残される。
ためていた息を吐きだし、読子は顔上げる。
隅々まで力を送り、もう何者も薄暗い回廊の中にいないことを確認したとき、読子はやっと、自分が役目を果たしたことを、実感した。
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