オールド・ラング・サイン

西野 夏葉

1/2

 明けてしまうのが惜しい夜なんて、あたしにとっては毎日だった。

 朝なんか来なければいいのに。そうしたら全部、夜のせいにできるのに。母親が幼いあたしと弟を捨てて家を出ていったことも、父親が毎日のようにあたしを辱めるとともに弟を殴っていたことも、巡り巡ってそんな弟の手すら放してしまったあたしが今や暗闇でしか生きられなくなったことも何もかも、夜のせいにできるのに。

 


 シーツの中から手を伸ばして、枕元のパネルを操作した。アルファベットと数字の組み合わせで、部屋のスピーカーからは好きな音楽チャンネルを流すことができる。が済んだ後の、ひなびた漁師町みたいなべたつく空気感が嫌いなあたしは、いつも相手の男に断りもなく音楽を流す。罪悪感はない。供給者と利用者という身分の違いこそあれ、最低限、互いに尊重されるべきだと思っている。


 今日はよく選曲する「別れのワルツ」を流した。ひとたびその曲のメロディが流れるたび、だいたいどの男も情欲を吐き出した瞬間みたいなうめき声をあげて、やがて笑い出す。厳密には違う曲だけれど、拍子が違うだけで、世間の大多数が「蛍の光」として認知しているメロディだからだ。ただし終電はとうになく、ここから叩き出されても家には帰れないし、そもそも退出予定時刻まではまだ時間がある。


 しかし、今日の男は馬鹿みたいに大袈裟な笑い声をあげたりするわけでなく、まるで地元のシャッター商店街でも見渡しつつ零すような声色で「懐かしいな」と一言だけ呟いた。この曲を流したら、男が勝手に思い出話とかありもしない武勇伝を語って残り時間を食い潰してくれるのがいつもの流れだったのに、今日はそんなふうにコトが運びそうにない。仕方なく、ほどよく人畜無害そうな声をつくって、訊いた。



「〝蛍の光〟を最後に歌わされたの、いつ?」

「高校の音楽の授業だったかな」

「卒業式じゃないんだ」

「最近はこの曲も、あと〝仰げば尊し〟とかも歌わないよ」



 彼が卒業式で歌ったのは、レミオロメンの「3月9日」だったそうだ。笑えるよな、とどこか自嘲的に笑ってきたので、あたしも曖昧に口元を笑ませる。



「笑えるって、なんでなの?」

「あの曲って、実はメンバーの友達の結婚を祝うための曲らしいぞ」

「え、卒業ソングじゃないんだ」

「歌詞の内容が卒業ソングっぽいって勝手に言われ始めてから、歌われるようになったんだってさ。歌詞の中に〝卒業〟なんて単語、どこにも出てこないのにな。あほくさい」



 客が繰り出す大半の話は、いつも右から左に通り抜けてゆく。でも、ぼんやりと覚えた顔や背格好の一部分と、話したことの断片を繋ぎ合わせて、使い終わったドライヤーのコードをくるくる巻くみたいに、ひとまとめで保存しておくのが常だった。自分の身体を通り抜けてゆく男なんて死ぬほどいたはずなのによく覚えてくれていた……とリピーターを呼び込むためのテクニックだ。


 いつもはそれを意識して接客をするけれど、今日の彼はそんなことをいちいち考えなくても覚えていられそうだった。レミオロメンには何の罪もないのに「あほくさい」と言ってのけてしまう大雑把さと、それに似合わない小綺麗な見た目や、さっきまであたしにおっかなびっくり触れていた手つきが、記憶に刻まれてゆく。


 彼が「っていうか、なんで蛍の光なの?」と訊ねてきて、あたしは意識をふたたび手繰り寄せた。

 基本的には「終わったんだからとっとと夢から覚めろ」という無言のメッセージである。但し、もっと延長してくれそう……だとか、単純に自分も楽しく会話ができたら、途中で曲を変えたり、止めたりもする。そんなふうにいろんな意味合いはあるけれど、たまには少しだけ、自分の本心に近づく理由を述べてみたくなった。



「夜が明けなければいいのに、っていう願いを込めてる」

「夜が好きなの?」

「大好きなわけじゃない。でも、ずっと暗ければ、見たくないものとか思い出したくないこと、忘れてしまいたいことを隠しておけそうな気がするでしょ」



 彼はすぐに返事を寄越さない。限りなく光量の落ちたダウンライトが照らす部屋の中、別れのワルツが二周目に突入した。

 いつも流すから分かっている。このチャンネルは二十四時間、こうして延々と何某かへの別れを惜しみ続ける。

 あたしが惜しんでいるのは、本当に、夜が明けることだけなのだろうか。



「忘れてしまいたいことは、確かにあるよな」



 こうして同情するように話す彼は、そういうことを忘れるためにあたしを呼んだんじゃないのか……と、自分を叱責したくなった。余計に思い出させてどうするのか。もっとも、彼が忘れてしまいたいことが一体何なのか、今のあたしには分からないけれど。


 ずっと天井を眺め続けていた彼が、身を縮こまらせながら、あたしのほうへ寝返りを打ってきた。出会ったときは何のにおいもしなかった彼から、今はほんの少し、汗のにおいがする。



「たとえば、きみは何を忘れたいんだ?」



 夜に紛れて捨ててしまいたいことなんて、たくさんあった。逆に、ずっと忘れたくないことを探すほうが容易い。いっそ自分であることすら忘れてしまいたい気持ちだったけれど、あたしはいつもこの質問をされるたびに、それらしく繕って用意した嘘を並べてきた。


 でも、無数の嘘の中に、たった一雫の真実を溶かし込んだところで、誰にも分かりはしない。彼にとってのあたしは、所詮ただ金を出して時間を買っただけの存在だ。あたしの言葉が本当かどうかなんて、いちいち確かめることなどしないだろう。


 数秒間、見つめ合っていた。彼が逸らしそうになくて、あたしのほうから逸らす。シーツで影になった彼の胸板の奥が、まるで夜中の闇に見えた。



「――家族を、捨ててしまったこと」

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