1.水底の光(6)

 紫苑は千草と二人、夜の回廊を歩いていた。向かう先は、清藍の待つ奥宮だ。

 清藍から、神依としての運命を聞くと決めた。だからこそ泰然としていたいのに、心が波立って落ち着かない。そのせいか、雨の音が一際騒がしく聞こえていた。

 紫苑の胸の内を推し量ってか、先導する千草も先から無言だ。

 奥宮に入り、雨の音がだんだん遠ざかっていく。

 永遠に続くかのように思えた道のりの沈黙を、千草が静かに破った。

「……紫苑さま」

 清藍の部屋の前に着くと、千草は足を止め、紫苑に向き直った。

「ご準備はよろしいですか?」

 頷く前に、紫苑は両手を胸に当てて深呼吸をする。相変わらず心臓は騒いでいるが、幾分か気持ちは静かになった。

「緊張、されますよね」

 千草の言葉に、紫苑は苦笑しながら頷いた。こればかりは嘘をつけない。

「紫苑さま、差し出がましいことを承知で申し上げます」

 いつも穏やかで慎ましい千草が、決然とした表情と口調で紫苑に向き直ってきた。

 紫苑が驚いて目を丸くしていると、千草はいつもの優しい微笑みを浮かべて言った。

「私は、紫苑さまが神依でよかったと心から思っております。そしてこの先も、お仕えさせていただきたいと願っております」

 思いがけない告白に、紫苑は胸を衝かれた。

 こちらに来てまだ日が浅く、誰かに頼らなければ何もできない紫苑は、千草から見れば赤子同然だろう。それなのに千草は、紫苑でよかったと言ってくれる。

「わからないことはすべて、これからも私がお教え致します。紫苑さまはどうか、その素直な御心のままでいらしてください」

 そう言って千草は静かに頭を垂れた。

 千草がそこまで言ってくれる理由が、紫苑にはわからない。しかし、そのままでいいと言ってくれる千草の言葉に、間違いなく心は軽くなっていた。

 紫苑は咄嗟に、千草の手を取っていた。初めて触れる千草の手は思いのほか大きく、少しひんやりとしていた。

「紫苑さま……!?」

 弾かれたように顔を上げた千草は、文字通り驚いた顔をしていた。

 ここには書くものがないから、明確に気持ちを伝えられる手段がない。

「…………」

 ありがとう。

 そう、唇の動きだけで伝えた。

「……っ、はい……」

 正確に読み取ってくれた千草は、紫苑の手を握り返す。

 少しずつ、千草への恩に報いていきたいと、改めて紫苑は思いを強くする。

 その覚悟を得るために、自身の運命を知らなければならない。

 紫苑は目の前の扉を見つめ、身体ごと向き直った。

「よろしいですか?」

 再びの千草の問い。

 紫苑は千草の手を離し、頷いた。

「では」

 千草が扉の叩き金を三度打つ。

 ほどなくして扉が開き、中から現れたのは、清藍の側近である灰簾だ。

「紫苑さまをお連れ致しました」

「お待ちしていた」

 灰簾が内側から大きく扉を開き、紫苑と千草を中へ招き入れる。

 中に入ると、佇立した清藍が出迎えてくれた。

「紫苑、よく来てくれた」

 鷹揚に微笑む清藍に、紫苑の胸は無意識に高鳴る。よくよく思えば、清藍への恋を自覚してから、これが初めての対面だ。

 意識した途端に熱くなってきた頬を隠すように、紫苑は頭を垂れた。清藍の出迎えを受けての礼であるから、きっと不自然な行動ではないはずだ。

「灰簾、千草、すまないが紫苑と二人にしてくれるか」

「はい」

「かしこまりました」

 長の命令を受け、二人の側近はすぐに首肯する。

「御用がございましたら、いつでもお呼びください」

「ああ」

 一礼する灰簾に、清藍は頷く。

「紫苑さま、私も失礼致します」

 千草は紫苑に目礼し、微かな笑みを見せてくれた。

 側近たちが部屋から去り、いよいよここには清藍と紫苑の二人だけになった。

 こうして対面するのは今朝ぶりだ。しかし、あのときとは雰囲気も心構えも、互いにまったく異なっている。

「その装いは、千草からの助言があってのものか?」

 清藍の問いは、紫苑が纏っている藍色の衣装のことを言っているのだとすぐに気づいた。

 紫苑は左右に首を振り、自らの胸に手を当てた。

「其方の意志によるもの、なのか」

 重ねての問いに、紫苑は首肯した。

「なるほど……ならば、私も覚悟を決めなければな」

 眼差しを決した清藍は、壁沿いに設られた長椅子に紫苑を誘った。

 長椅子の前に置かれた卓には、紫苑のために用意されたと思われる帳面と鉛筆、そして巻き留められた書がいくつか置かれている。

「長い話になる。掛けなさい」

 促されるままに紫苑が長椅子に腰を下ろすと、そのすぐ隣に清藍が腰を下ろした。

「さて、どこから話すべきか」

 逡巡する様子の清藍を見て、紫苑はさっそく帳面に疑問を書き綴った。

[神依とは何なのかを 教えてください]

「……そうだな。それが、其方がもっとも気になっていることだろう」

 清藍は背筋を伸ばし、紫苑に向き直る。紫苑もまた、すべてを受け止める覚悟だと示すべく、居住まいを正した。

「神依について話す前に、確認したいことがある。其方は、天宮の家がどういった血筋であるかを、知っているか?」

 清藍のその問いに、紫苑は左右に首を振る。両親にも、祖母にも、未だかつて聞かされたことがなかった。

「薄々感づいてはいたが、やはりそうであったか」

 すると清藍は、巻き留めの書を一つ手に取り、それを卓上に広げた。

「まず、これを見てほしい」

 広げられた紙面には、何らかの系図が描かれていた。

 枝の伸び方から、血縁関係を示しているように見えるが、線はところどころで切れており、時々花の印の付いた名前があったりと、一貫性がなく変則的だ。

 系図の最後には、清藍の名前があった。

「これは、歴代の長の相関図だ」

 大凡の予想が当たっていた紫苑は、目礼して清藍に続きを促す。

「神使の長には、その代でもっとも力の強い者が就く。蛇や龍といった種族や、血縁などは重要視されない。……とは言っても、私を含め大半が龍ではあるが」

 清藍のその説明に、紫苑は早速疑問を抱いた。

 見せられている相関図の中に時折、歴代の長と思しき名と花の印の付いた名が繋がり、その間から伸びている名がある。これは夫婦関係、そしてその子ということではないのだろうか。

 紫苑は花の印が付いている名前──桔梗ききょうを指差し、問うように清藍を見つめた。

「その印が付いている名こそ、歴代の神依たち。皆、其方の祖先にあたる者だ」

(──え?)

 そう言われ、紫苑は再び系図に目を落とす。

 指差している桔梗の他にも、すみれあおいあざみ浅葱あさぎ紫陽しようあやめ

 紫苑を含め、皆、花の名前を冠していた。

 清藍の語りは続く。

「天宮家は、古くから神に仕える神官の家系だ。その血に宿る霊力は凄まじく、他の神官一族と比べても突出した強さを誇っていた。彼らはその力を保つために、同じ神官の家系との婚姻を繰り返し、それは今も尚続いている」

 そこまで聞いて、紫苑は自身の両親のことを思い出す。

 両親は実は恋愛ではなく、家同士の見合いで結婚したと言っていた。

 しかし恋愛結婚だと言われても疑わないほどに仲が良く、いつも幸せそうに笑っていたが、もしかすると例に漏れずそういう縁組みだったのかもしれない。

「強い力を持つ者同士の婚姻を繰り返す中で、やがて天宮家には、一際強い力を持つ者が生まれるようになった。神の憑座よりましにさえなり得る、比類なき力を持つ者。彼らはやがて、神依と呼ばれるようになった」

 清藍の眼差しが、再び紫苑に据えられる。

 言葉はなくとも、その意図は自ずと察せられた。

「そう。其方もまた、天宮に連なる神依の一人だ」

 清藍はそう言うが、紫苑自身、実感がない。

 古来から天宮家が守り続けた力を紫苑が受け継いでいるなど、聞いたこともないし、それを感じたことすらないのだ。

 俄かには信じられず、紫苑は帳面に手を走らせた。

[本当に僕にそんな力が?]

「社の水晶に導かれるのは神依だけだ。それに私は、其方が来る直前に神から神託を受けた」

[その神託がはずれるということは]

「神とその眷属である神使が、嘘を言うことはない」

 そこまで断言されてしまうと、紫苑に否定の余地はない。

 しかし、自分にそんな力があるなど、やはり信じられない。

 紫苑が呆然と自分の手のひらを見つめていると、その手を清藍に引き寄せられた。

「もう一つ、其方に伝えねばならない大事なことがある。聞いてくれるか?」

 そう言う清藍の声色は、神妙だった。

 紫苑は清藍の手を握り返し、続きを促した。

「天宮家に生まれた神依は、人の身には過ぎる力がゆえ、時の権力者たちに狙われる運命にあった。その力を争いに利用するため。或いは、その神さびを得んがために」

 神依に課せられた運命に、紫苑も納得せざるを得ない。

 紫苑が満足に受けられた教育は初等程度ではあるが、強い力を求めて争うのは今も昔も変わらない人の常であることはわかっていた。

「神依が争いの火種になることを、誰一人として望まなかった。そこで神は、神官たちと神使に、それぞれあることを命じた」

 清藍はもう一つの巻き留めの書を開く。書道の半紙一枚程度の大きさの黄ばんだ紙面に、濃い墨で文字が書かれている。いかんせん古い字体であるため、紫苑には読み取れない。

「これは過去……人間の時間で例えるなら二千年ほど前に、天宮家と神使の間で取り交わされた約定を記した書面だ」

 どういった内容が書かれているのかと、紫苑は清藍を見つめる。

 清藍は指でなぞりながら教えてくれた。

「“一つ、神依を神使に献上すべし。これすなわち、神の膝下での庇護と心得よ。”……意図は文面の通りだ」

 紫苑にもなんとなく理解できた。言葉は堅いが、つまり神依を神使の世界に送ることで、人間の手が届かないようにするものだ。

 約定には、もう一つ項目があった。

 それを読み上げる直前、清藍が一度瞑目し、深く呼吸するのを、紫苑は見逃さなかった。

「……“一つ、神使の長は神依を伴侶として娶るべし。これすなわち、神への輿入れと心得よ”」

 伝えられた瞬間、時が止まったように錯覚した。

 先の文面をもう一度反芻する。

 “神使の長は神依を伴侶として娶るべし。これすなわち、神への輿入れと心得よ”

 現代の神使の長は清藍を、神依は紫苑を意味する。

 つまり、これは。

「神の威光を笠に、権力者の手を遠ざける狙いがあったのだ。神への輿入れを控える者に手を出そうものならば、相応の天罰が降ることは明白であったからな」

 すべては神依を守るために取り交わされた、古くからの誓約。

 そしてそれは連綿と受け継がれ、今も尚続いている。

「其方の一族が“天宮”を名乗るようになったのは、最初の神依……桔梗がこの雨の宮に輿入れしたことが切っ掛けだ。神使との縁戚の証として、音を譲り受けたと聞く」

 雨の宮に初めて来たとき、紫苑は自身の姓と音の響きが似ていると感じていた。

 この一致は偶然などではなく、古くからの繋がりを示していたのだ。

「何も知らずに来たというのに、急にこんなことを知らされて、驚いただろう」

 初めて知らされる様々に紫苑が反応できずにいると、清藍が苦笑混じりの声色でそう口にした。

「無理もない。見ず知らずの場所に連れてこられた挙句、会って間もない私に輿入れする約定だと言われて、困惑しないはずがない」 

 その言葉に、紫苑は左右に首を振る。

 典雅で優しく、大らかで、そして誠実な清藍。

 そんな彼に、紫苑は一目で恋をした。

 人だとか神使だとか、同性だとかを考える隙もないほどに、ただただ清藍が好きで。

 この恋が叶わないものだとしても、清藍の傍にいたい。

 離れるなんて絶対に厭だった。

(どうか伝わってほしい……)

 紫苑の心の内を聡く読み取った、昨夜のように。

 貴方が好きだという気持ちを、受け取ってほしい。

 紫苑は再び清藍の手に触れる。

 それに連なるように、紫苑と清藍の視線が絡んだ。

「……最初は、形式だけのつもりだったのだ」

 暫し見つめ合ったのち、清藍はぽつぽつと語り始めた。

「神依降臨の神託が下ったときから、私は古来の約定に則り、其方を伴侶に迎えるつもりでいた。しかしそれはあくまでも体裁だけで、神依としての責を負わず、好きに過ごしてくれて構わないと思っていた」

 そういえば千草が言っていた。当初の予定では、千草がすべて説明する手筈になっていたと。

 だが、と口調を苦くした清藍は、片手を持ち上げ、紫苑の髪に触れた。

「其方を一目見た瞬間、私は心を奪われた。美しいばかりでなく、いたいけでいじらしい其方を、愛おしく思った」

(え……?) 

 都合の良い夢を見ているのではないかと錯覚する。

 熱っぽさを帯びている清藍の双眸から目を離せなくなる。

 語られる清藍の言葉の数々、これはまるで。

「そうやって其方が私をまっすぐに見つめてくるからこそ、独り善がりではいられなくなった。其方が笑っていられる幸せが人間たちの元にあるならば、ここに居させるべきではないと思った。……其方を一度帰そうとしたのも、そう考えたためだ」

 心地良く響く清藍の声は、熱を持って優しく響いた。

 心の空虚だった部分が満たされていく。胸の奥が苦しくて、でもそれは厭なものではない。

「あのとき、私に縋ってこの世界に残ってくれた其方を幸せにしたい。あらゆる禍事まがごとから其方を守ると約束しよう。だから……」

 紫苑の髪に触れていた清藍の指が、頬を滑り、声を紡がない唇に触れる。 

「紫苑、其方を正式に私の伴侶として迎えさせてほしい」

 それは、紫苑が一番欲しかった言葉だった。

 返事の代わりに、紫苑は清藍の胸に飛び込む。髪や衣に染み込んだ蓮の花の香りが、紫苑の胸を満たしていく。

「……其方も、私と同じ気持ちでいてくれていると思って良いか?」

 優しく問われ、紫苑はこくこくと頷いた。

 背中に清藍の腕が回され、触れた箇所からぬくもりが伝わってくる。

 恋が叶った喜びと、居場所を得た安堵感。

 そして、清藍の愛を得られた幸福。

 想いが千々に混ざり合って、紫苑の胸はいっぱいだった。

「大切にする、紫苑」

 髪を撫でる清藍の指は慈しみに溢れていた。

 もう一度紫苑を抱きしめてくれた清藍の腕は強く、優しい。

(僕はきっと、清藍に会うために生きてきたんだ……)

 このままずっとこうしていたい。

 それほどまでに、幸せだった。

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