第2話「灰白の谷、ふたたび」

 谷に向かう道は、前よりも静かに感じられた。

 昼を過ぎても太陽の輪郭は雲の向こうにぼやけたままで、空は終わりのない朝のように、白んでいた。


 ここは“灰白の谷”。まだ地図にも正確な線が引かれていない、未踏の地。

 十年が経ってもなお、探索の網が届かない場所は多いが、この谷はその中でもとくに孤立していた。

 灰色の岩肌に囲まれた谷底には、湿気と風が滞留し、細くて低い植物が苔のように生えている。


 前回、アイリスはここで“彼女”に出会った。

 それはほんの一瞬の邂逅だった。

 幻のようで、けれど鮮烈に心に焼きついた姿。


 ふたたび足を踏み入れたとき、谷は何も語らなかった。

 岩の合間を吹き抜ける風すらなく、霧が地面から湧きあがっているように、じっと漂っていた。


 足音が吸い込まれていく。

 どれほど歩いても、誰かに気づかれていないような、そんな不思議な心細さがあった。


 けれど、その静けさが、どこか懐かしくもあった。

 彼女の気配は、いつだって音のないところからやってくる。


 ——いる。


 そう思ったのは、足を止めた瞬間だった。


 霧の向こう、谷底の奥。

 灰色の岩の裂け目に、うっすらと“人のようなもの”が立っているのが見えた。


 風は吹いていない。

 それなのに、そこだけが、ゆっくりと、確かに動いていた。

 存在が揺れているのではなく、“こちらへ向かってきている”と、アイリスは感じた。


 「……あなた」


 声にはならなかった。

 けれど、心の中でその言葉をつぶやいた瞬間、彼女はアイリスを見た。


 はっきりと。


 人のようで、人ではない。

 肌のようなものはあったけれど、それは植物の葉の内側のように薄く、透けていて、

 その身体の中心には、ゆるやかに脈打つ光があった。


 髪のように揺れるものは、風に吹かれているわけではなく、

 彼女自身の内から溢れる律動によって漂っている。


 目——そう呼んでいいのかもわからない——

 けれどたしかに、彼女はアイリスを見つめていた。


 その瞳の奥に、ざわりと感情が波打った。

 言葉ではない。だが、たしかに“通じて”いた。


 恐怖はなかった。

 むしろ、前よりも強く、はっきりとした好意のようなものが、心に満ちていた。

 安心というにはあまりに異質で、でも、どこか懐かしく——


 「また、会えたね」


 そう思った瞬間、彼女の胸元がふわりと光った。

 その脈動に応えるように、谷底の岩の隙間から、ひとつの草がきらめきを帯びて伸び上がってきた。


 それは銀の露を抱いたような花を持つ、不思議な植物だった。

 空気の中で、わずかに音もなく揺れている。


 彼女は、ゆっくりとその草の方に顔を向ける。

 導かれるように、アイリスもその足元へ視線を落とす。


 そのとき、胸の奥に、やわらかい波のようなものが流れ込んできた。

 記憶、とも、感情、とも言えない。

 ただ、何かが“伝わってきた”。


 草のなかにあるもの。

 記録。

 痕跡。

 想い。


 彼女の視線が、そのすべてを語っていた。


 アイリスはそっと歩み寄る。

 谷底の岩肌はしっとりと冷たく、足元の小さな苔が靴に吸い付いてくる。

 花のそばで、一瞬だけ空気が震えた。

 触れてはいけない気がした。

 けれど、無視して通り過ぎることもできなかった。


 「……これが、鍵……?」


 声に出す代わりに、ただ心の中でそっと問いかけた。

 彼女は答えない。けれど、否定もしなかった。


 風のない谷で、一枚の葉がはらりと落ちる。

 その音が、まるで返事のように響いた。


 彼女は静かに、ふたたび霧のなかへと姿を沈めていく。

 その輪郭が空気に溶けていき、やがて完全に見えなくなったとき——


 アイリスの胸には、確かな感触だけが残されていた。


 それは、好意だった。

 どこか寂しげで、それでも温かく、自分という存在に向けられた“肯定”だった。


 わたしは、拒まれていない。

 むしろ——何かを託されようとしている。


 そっとしゃがみ込み、アイリスは銀の花をひとつ、丁寧に採取した。

 その手のひらには、震えるような感覚がずっと残っていた。

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