第4話「見返される空」
拠点へ戻る道すがら、私は何度も空を振り返っていた。
けれど霧はもうすっかり戻っていて、星も影も、すべてが白に溶けていた。まるで、何もなかったかのように。
それでも、胸の中にはまだあの“網目”が残っていた。
目に焼きついたというより、感覚そのものが少しずつ変わってしまったような──そんな深い余韻があった。
シャワーの音がいつもより長く感じられた。
お湯の温度は変わらないはずなのに、皮膚の奥で冷たさが残っている。
制服の袖に腕を通すとき、ふと手の甲が震えた。
──昨日までと、何かが違う。
でもそれを言葉にしようとすると、するりと逃げてしまう。
壁に貼られた観測スケジュールをぼんやりと眺めていると、背後から声がかかった。
「おかえり。遅かったね」
振り返ると、コリナがカップを両手で抱えて立っていた。
湯気が、彼女のまつげのあたりで揺れている。
「霧が晴れたの。……少しだけ、星が見えた」
私はそう言いながら、彼女の顔を見た。
すると、コリナはゆっくりと瞬きをしてから、ぽつりと口をひらいた。
「やっぱり……そうだったんだ」
「え?」
「昨日の夜、部屋から空を見ようとしたの。でも、なんだか見たくなくなっちゃって。……変でしょ?」
彼女は、照れくさそうに笑った。
私はかぶりを振った。
「変じゃない。……私も、昨日はずっと落ち着かなかった」
ふたりで食堂に移動し、窓際の席に並んで腰を下ろす。
テーブルにはスープとパンと、ぬるめのハーブティー。
「ねえ、こういうのって、説明しづらいけど……空気、ちょっと変わった気がしない?」
私は頷いた。
「わかる。霧の中なのに、呼吸がしやすくて、胸に残る感じもやわらかかった」
コリナが目を細める。
「そう。軽くて、なんだか懐かしい匂いがした。……どこで感じたのかは思い出せないんだけど」
私は、その言葉に少し驚いた。
私も、あの夜の霧の中で似たようなことを思っていた。
記憶をくすぐるような匂い。遠くに置いてきたはずの何かが、そっと触れてくるような。
「……星が、何か伝えようとしてる気がする。言葉じゃないけど」
そう呟いたのは、どちらからだったか思い出せない。
けれど、ふたりともその言葉に頷いた。
「ねえ……昨日の夜、感じたその気配、“あのときの”と似てた?」
コリナの声は、少しだけ沈んでいた。
私は少し迷ってから、うなずいた。
「……はっきりとは言えない。でも、似ていた気がする。記憶に触れられた感じがして」
コリナはそれ以上聞こうとはしなかった。
ただ、スープの湯気を見つめながら、小さく息を吐いた。
「なんかね、最近よく夢を見るの。言葉にならない夢。誰かが歌ってるみたいな、でもそれが水の音みたいで」
私は少し驚いて彼女を見た。
それは、かつて私が見た幻とどこか似ていた。
けれどその驚きは口にせず、私はゆっくりとコリナに向かって微笑んだ。
「……今度、その夢のこと、もう少し聞かせて」
「うん。いいよ」
その夜、部屋に戻って観測ノートを開いた。
書きたいことは山ほどあったのに、ペンは一行で止まった。
──夜空は、こちらを見ていた。
私はペンを置き、ページを静かに閉じた。
霧の奥にあるもの。星の手前に浮かぶもの。
それが誰なのか、何なのかはまだわからない。
けれど、こうして誰かと“見つめ返す感覚”を共有できたことが、今夜は少しだけ嬉しかった。
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