シンクロニシティ-ヘッドライト

志乃原七海

第1話「わたし、好きな人ができたの」



第一話:十二月二十四日の失格者


12月24日。クリスマスイブ。

街のショーウィンドウは競うように輝き、吐く息は白く凍てつくほど寒い。聖なる夜だか何だか知らないが、とにかく本当に寒い。

周りを見渡せば、腕を組み、互いのマフラーに顔をうずめるカップルだらけ。俺、佐藤健一、32歳。しがない営業サラリーマン。そんな俺には到底似合わない、きらびやかな世界。


でも、今日だけは。今日だけは、俺たちのためにこの世界があるはずなんだ。


ジャケットの内ポケットを探る。そこにあるのは、ベルベットの小さなケース。中には、七年も付き合ってきた恋人、小林春菜のために用意した、安月給をはたいて買ったダイヤの指輪。これを渡して、プロポーズする。七年という月日は、決して短くない。そろそろ、けじめをつけなければ。


俺はケースを固く握りしめ、都内でも有名なフレンチレストランで、彼女を待っていた。


「……まだかな」


テーブルに置かれたスマートフォンが、とっくに約束の時間を過ぎていることを告げている。手持ち無沙汰に腕時計をチラチラと見るたび、胸の鼓動が嫌な速さで脈打った。


「お客様、お飲み物のおかわりは……」


ウェイターが、作り物の笑顔で近づいてくる。その目が「連れの方はまだですか?」と雄弁に語っていた。

「いや、あの……もう少しで。すみません」

何度目かのやり取りに、ウェイターの表情から笑顔が消え、かすかな呆れが滲む。俺の耳に、隣のテーブルのカップルのひそひそ話と、隠しきれていない失笑が届いた。


帰るか?


惨めさが、シャンパングラスの泡のように心を埋め尽くしていく。もう、限界かもしれない。そう思った、その時だった。


カラン、と軽やかなドアベルの音と共に、春菜は現れた。

いつものように少し早足で、しかし、そこに謝罪の言葉はなかった。

「ごめんごめん! ちょっと用事があってさ!」

悪びれもせず、彼女は俺の向かいの席にどかっと腰を下ろす。その態度に、用意していたはずの言葉が喉の奥に張り付いた。


重苦しい沈黙が、テーブルの上を支配する。カトラリーの触れ合う音だけが、やけに大きく響いていた。

行くしかない。ここで引いたら、男じゃない。

俺は腹を括り、震える唇を開いた。

「あのさ、春菜! 俺……」


「ごめんなさい!」


俺の言葉を、刃物のように鋭い一言が遮った。

「え……?」

「わたし、好きな人ができたの」


時間が止まった。レストランの喧騒も、窓の外のイルミネーションも、全てが色を失っていく。

春菜は、俺の顔をまともに見ようともしない。

「だから、もう会えない。さようなら」


彼女はそれだけ言うと、椅子にかけていたバッグをつかみ取り、まるで何事もなかったかのように早足でレストランを出ていった。


残されたのは、プロポーズに失敗した哀れな男一人。

隣の席から、今度は隠す気もない大きな失笑が聞こえた。さっきのウェイターが、侮蔑とも同情ともつかない視線を向けてくる。もう、耐えられなかった。

伝票をひったくるように掴み、レジに万札を叩きつけて、俺も店を飛び出した。二万円だと?さろくに食べてねーのによ!

なんでアイツの分まで払うんだよ!

パーキングに止めていた真っ赤なスポーツカー。今日のデートのために、無理して中古で買った見栄の塊だ。それが今となっては、滑稽な道化の乗り物のようだった。

運転席に転がり込み、エンジンをかける。唸りを上げる排気音に掻き立てられるように、俺はあてもなくアクセルを踏み込んだ。


涙で滲む視界の中、街の光が猛スピードで後ろへ流れていく。どこへ向かうかなんて、どうでもよかった。


気がつけば、一体どこまで来たのだろう。

華やかだった街のイルミネーションはとうに消え失せ、窓の外は漆黒の闇に包まれていた。カーナビの画面には、「検索位置不良」の赤い文字が嘲笑うように点滅している。笑えるぜ、俺の人生そのものじゃないか。


そこは、ガードレールすらない真っ暗な山道だった。曲がりくねった峠道を、俺の車のヘッドライトだけが、頼りなく揺れながら進んでいく。


その、光の帯の中だった。

ふっと、白い何かが浮かび上がったのは。


人影だ。


「うわっ!」


思わず急ブレーキを踏む。タイヤが悲鳴をあげ、車体が大きく傾いた。心臓が口から飛び出しそうだ。まさか、幽霊か?

勘弁してくれよ。こんな時に、こんな場所で、絶対に乗せちゃいけないっていう、王道パターンじゃないか。


無視だ、無視。アクセルを踏んで、このまま走り去るべきだ。頭ではそう分かっているのに。


なぜか俺は、サイドブレーキを引いて車を止めていた。

自暴自棄が、恐怖に勝ったのかもしれない。


パワーウィンドウを下げると、凍てつくような冷気が車内になだれ込んできた。

「よう!」

俺は、自分でも驚くほど軽い口調で、その人影に声をかけた。

「こんな場所で、何してるんだ? 寒くないのか?」


人影は、ゆっくりとこちらを向いた。

闇に目が慣れてくると、それが長い髪の女だとわかる。場違いなことに、足元はピンヒールだ。


女は、静かに答えた。

「寒いです。見ればわかるでしょう?」

その声は、冬の夜空のように澄んでいて、どこか人間味に欠けていた。


「いや! すまない。てっきり、幽霊かと思ってさ」

俺は自嘲気味に笑った。

すると彼女は、ふっと表情を緩め、こう言った。


「幽霊じゃありません。生きてます」


そう言うと、彼女はこともなげに片足のヒールをカツンと脱いでみせた。


「ほら、足、あるでしょ?」





小説「ヘッドライト改変」

第二話:同じ夜の遭難者


「ほら、足、あるでしょ?」


カツン、と乾いた音を立てて、彼女はヒールをアスファルトに置いた。白い素足が、ヘッドライトの光に浮かび上がる。そのあまりに現実的な仕草に、俺は自分が馬鹿げたことを言ったのだと気づいた。


「ああ、悪い。そりゃそうだよな」


俺は気まずさを誤魔化すように頭を掻いた。彼女はヒールを履き直すと、ゆっくりと車に近づいてくる。闇に沈んでいたその顔立ちが、徐々にはっきりと見えてきた。整っているが、血の気が引いたように白い肌。感情の読めない大きな瞳。まるで、精巧に作られた人形のようだった。


「で、結局あんたは、何でこんなところにいるんだ? その格好で山登りってわけでもないだろ」


俺が尋ねると、彼女はふっと自嘲するように唇の端を上げた。その表情に、ほんの少しだけ人間らしい色が差した気がした。


「彼氏と、喧嘩したんです」

「彼氏?」

「ええ。この先の展望台で。それで、カッとなって……車から降りて、歩き出しちゃった」


彼女は、来た道を指差すように顎をしゃくった。その先は、どこまでも続く闇しかない。

「わたし、馬鹿ですよね?」

彼女は、楽しそうに、でもどこか寂しそうに笑った。

「すぐに引き返してくるか、せめて引き留めてくれると、信じてました。結果、この通り。置き去りです」


その言葉に、俺は胸の奥を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。

置き去り。

そうだ、俺も同じだ。クリスマスイブの夜に、七年間という時間の果てに、置き去りにされたんだ。


「……馬鹿なのは、お互い様かもな」

思わず、そんな言葉が口からこぼれた。

「え?」

「いや、こっちの話だ。とにかく、このままじゃ凍え死ぬぞ。乗ってけよ。麓の町まででよければ送ってやる」


自分でも驚くほど、自然な申し出だった。数分前の「絶対に乗せちゃいけない」という警戒心は、彼女の告白によってすっかり氷解していた。彼女は俺と同じ、聖なる夜の遭難者なのだ。


彼女は少しだけためらう素振りを見せたが、やがて小さく頷いた。

「……ありがとうございます。お言葉に甘えさせてください」


静かに助手席のドアを開け、彼女が乗り込んでくる。ふわりと、冬の空気とは違う、甘く冷たい香りが車内に満ちた。

ドアが閉まると、車内は再び二人だけの閉鎖された空間になる。先ほどまでの喧騒が嘘のような、気まずい静寂が訪れた。


俺は黙って車を発進させる。ヘッドライトが再び前方の闇を切り裂き、曲がりくねった道を照らし出す。


「あの……」

先に沈黙を破ったのは彼女だった。

「あなたも、何かあったんですか?『お互い様』って」


核心を突く質問に、俺はハンドルを握る手に力が入る。話したところで、惨めになるだけだ。

「……まあ、色々とな」

「色々」

彼女はオウム返しに呟くと、それ以上は聞いてこなかった。その気遣いが、今はありがたかった。


しばらくの間、エンジン音とタイヤが路面を掻く音だけが響いていた。カーブを一つ抜けるたびに、窓の外の景色はほとんど変わらない黒一色だ。本当にこの道は町に続いているのだろうか。


不意に、彼女がくすりと笑った。

「何がおかしい?」

「いえ。こんな真っ赤なスポーツカーに乗っているから、きっとすごく幸せな人なんだろうなって、最初思ったんです」

「幸せな人、ね」


俺は、自嘲の笑みを浮かべた。

「残念ながら、ハズレだ。こいつはただの見栄と、虚勢の塊だよ。今日、この日のためだけに用意した、張りぼての幸せだ」

ジャケットの内ポケットで、ベルベットのケースが冷たく固い感触を主張している。

「そして、その張りぼてすら、さっき派手にぶっ壊れた」


「……そう、ですか」


彼女の声は、どこまでも静かだった。同情でもなく、好奇心でもない。ただ、俺の言葉を事実として受け止めているような、不思議な響きがあった。


その時だった。

カーブを抜けた先の闇に、ぼんやりとした光の点が見えた。

「あれは……」

「展望台、みたいですね。わたしが降ろされた場所です」


彼女の言う通り、近づくにつれてそれは小さな駐車スペースと、簡素な東屋のある展望台だとわかった。夜景スポットなのだろうが、今は俺たちの車以外に一台も停まっていない。


「……よかったら、少しだけ、寄り道しませんか?」


彼女が提案した。

「ここから見える夜景、きっと今の私たちに、お似合いだと思いますから」


その誘いを、俺は断ることができなかった。まるで、見えない糸に引かれるように、ウインカーを出し、誰もいない展望台の駐車場へとハンドルを切った。


車を止め、エンジンを切ると、世界から一切の音が消え去った。

眼下に広がる光の海。あれが俺たちがさっきまでいた街なのだろう。宝石をぶちまけたようにきらめいているが、その光はひどく冷たく、遠い。俺たちは、あの光の世界から弾き出されたのだ。


「綺麗ですね」

彼女がぽつりと言った。

「でも、どこか他人事みたい」

「ああ……」


俺も同じ気持ちだった。

あの無数の光の中に、ついさっきまで俺の居場所があったはずなのに。春菜と笑い合う、幸せな未来があったはずなのに。


その時、彼女が俺の方を真っ直ぐに見つめて、言った。


「もし、やり直せるとしたら。あなたは、どうしますか?」

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