名もなき英雄たちの詩

蓮池 ROSE

【アベルと詐欺師】

 ある時計職人と詐欺師の物語


 石畳が印象的なとある街に、精緻な時計を作る腕利きの時計職人アベルがいました。


 工房は小ぢんまりとして居ながらもまるで彼の人柄を表すかのように温かく素朴で、時を刻む音と整然とした道具の並びが心地よい秩序と平穏に満ちた場所でした。


 アベルには数人の弟子がおり、華美な細工や装飾は好まないものの彼の誠実な仕事ぶりと温かい人柄に惹かれ、熱心に技術を学んでいました。


 しかし、アベルの人生には、やがて嵐が訪れます。


 それは、言葉巧みで魅惑的な、しかし底知れぬ闇を抱えた一人の詐欺師でした。


 詐欺師は、甘言と巧妙な嘘でアベルの心に入り込み、同情を乞い、気の毒に思ったアベルは疑うこともしなかったので瞬くうちに養子縁組にこぎ着けました。


 詐欺師はアベルに次々と金銭や貴重な材料を要求しました。


 時には、ありもしない未来の大きな利益を約束し、またある時には困窮を訴え、アベルの真面目さや情に付け込みました。


 アベルは、その要求が「無心」であると分かって居ながらも身内であるということと長年の関係性を盾に迫られると、断りきれないことがしばしばありました。


 やがて工房の金庫は空になり、精魂込めて集めた材料は静かに消えていきました。


 さらに恐ろしいことに、詐欺師はアベルを窮地に追い込むよう巧妙な噂を街中に広め始めました。それはこれまでの悪行をまるで全てアベルが仕組んだ事のように。

 彼のあまり表に出ない朴訥な真面目さが裏目に出てしまい、人々の疑念の目はアベルに向けられました。


 街の人々は、詐欺師の口車に乗せられ、まるでアベルこそが悪者であるかのように、陰で囁き、時には公然と非難に加担する者も現れました。


 アベルは、この状況を何とかしようと、街のギルドや役人に助けを求めました。しかし、養子縁組をしてから長いこともあり、それが本当であっても人柄を見抜けなかったアベルに非があると取り合うこともせず、まるでなかったことのように沼の底に沈められた気持ちに陥りました。


 一見して穏やかに見えるアベルの工房の奥深くで、深刻な搾取が進行し、さらに街の人々の誤解という嵐が吹き荒れているにもかかわらず、誰もその渦中に介入できないのです。


 確かにアベルは、あまりにお人好しで世間知らずで、完璧ではなかったかもしれない。


 しかしそれでも誠実に、精一杯尽くしてきた自らの人生を省み、なぜこのような災難が降りかかるのかと、心の中で深く嘆き苦しみました。


 涙を流す余裕さえなく、詐欺師の要求と、その悪事の後処理、そして街の人々の冷遇に追いやられる日々を過ごして居ました。


 それでも、アベルは決して諦めませんでした。


 心に正しさがあれば何とかなる、根拠がなくても誰も信じてくれなくても。


 自分自身さえ味方であれば物事は何とかなるという信念がありました。


 彼の真摯な生き方は、弟子たちの心を捉え、困窮を知った彼らは、わずかながらも自分たちの貯えを差し出し、工房の雑務を積極的に手伝うなど、アベルを支えようとしました。また、アベルの誠実さが街の住人にも伝わり、噂を聞きつけた心ある人々が、わずかな材料や食料をそっと差し入れることもありました。それは、アベルが自身の信念を貫き、正直に生きてきた証でした。彼の静かなる信念が、人々の心に深く伝播し、確かな味方を増やしていったのです。


 長い年月を経て、街の人々はようやくアベルの行いが誠実であること、詐欺師の本性に気がつき始めます。

 そこで街の人々はどうして詐欺師に制裁を加えないのかとアベルを問い詰めます。


 居場所をなくした詐欺師はいつのまにか立ち去りました。突然訪れた嵐は十数年に渡り荒れ狂ったにも関わらずあまりにもあっさり。

 来る時も身勝手なら去る時も身勝手なものです。


 そこでアベルは静かに一つの境地に至ります。


 報復は何も生まないこと、そして詐欺師の行動は、もはや「悪意ある人災」ではなく、まるで「制御不能な自然現象」のようなものだと説く。

 彼には工房の方が大切で、詐欺師を追いかけてまで報復する意義を見出せないこと、そして既に赦しているのだと語る。


 例えば嵐が来て災害に遭ったとしても、わざわざそれに報復しようなどとは誰もが思わないのと同じように、理解を超えた存在として捉えれば心の波は穏やかに在れることを街の人々に説得します。


 それは、初めは困っている人を助けたいと願った自分が起こしてしまった悲劇への、自分なりの決着の付け方でもあった。


 街の人々も被害者だというが、情報を鵜呑みにした人々もまた加害者である。

 それでも彼らを許していると心のうちを語る。


 端的に善悪で物事を測るのではなく、ただ等身大の相手として見据え続けたいという、アベルの慈悲深い人間性から来るものでした。



 また、アベルは自分自身の内面にも向き合いました。


 詐欺師によって傷つけられた心、そしてその状況を許してしまった弱かった自分を認め、受け入れることを心に誓います。


 かつては人から羨望されることも注目されることも苦手でたとえ悪い噂をされても言い返せないような寡黙な彼でしたが、今はもう「怖いものはない」という静かな強さを手に入れていました。


 その中で、アベルは悟ります。詐欺師もまた、自身の内なる苦境や、満たされない心から来る行動をしているのかもしれないと。

 もしかするとあれは道を踏み外した自分の姿かも知れない、と。


 しかし、アベルが望むのは依存ではなく、自立した関係性でした。だから彼は決めたのです。詐欺師が言動を改め、自らの人生を切り拓く勇気と能力を持っていると信頼し、もし今後助けを求められても静かに見守ることに徹しようと。


 そして今、アベルは言います。「もう十分学んだ。これからは、荒れ果てた私の工房と心の修復に専念しよう。」


 詐欺師に振り回され問題解決に追われる日々から解放され、彼は心の空白を慈しむ時間を自分に許しました。


 焦ることなく、しかしささやかな期待を胸に、自身の心の回復を待っています。


 彼の深い苦しみとそこから得られた知恵は


 きっといつか同じような嵐の中にいる誰かの心を照らす希望となることでしょう。




 我々は皆、困難な道を切り拓き自らの手で心の平穏という名の新たな秩序を創造することが出来る開拓者なのです。


 彼の選んだ道は、時に無謀な挑戦であり孤独に映るかもしれない。


 だが、それは心の奥底に宿る真理を灯す。


 悪意に囚われず、ただ現象として世界を見つめる目。


 過ちを犯した者を憎まず、その存在を静かに受け入れる魂の器。


 彼は知ったのだ。

 人を変える事は叶わない。天候を操ることが出来ないように。


 ただ自らの生き方は選択できる。



 そして、己の心を守り抜くことこそが、最も尊い戦いであると。


 風は吹き荒れ、水面は揺れても、

 内なる平穏は、誰にも奪えない。


 彼の物語は


 受け入れ、手放し、そして立ち上がる勇気の詩。


 己が道を照らし


 静かに歩む開拓者の賛歌として時を超えて響き渡るだろう。

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