第二話

###第二話


数理工学の基礎実験を終えた遥香は、AIが提示する「最適な放課後」のルーティンに従い、大学のフィットネスセンターへと向かった。ガラス張りのモダンな建物は、学生たちの健康と生産性の維持を目的としてAIによって設計されている。内部には最新鋭のトレーニングマシンが整然と並び、それぞれのマシンにはAIが個人の生体データに基づいて算出した「今日の最適メニュー」が表示されていた。


遥香は迷いなく、自身のウェアラブルデバイスに同期されたマシンに乗り込んだ。画面には、彼女の心拍数、消費カロリー、筋肉への負荷などがリアルタイムで表示され、AIアシスタントの落ち着いた音声が、呼吸のペースや姿勢の微調整を指示する。一切の無駄がなく、効率的に身体が鍛えられていく。汗が額に滲むが、その表情に苦痛や達成感といった感情の兆候は見られない。ただ、AIが推奨する「心身のリフレッシュ」という目的を、完璧に消化しているだけだ。


トレーニングを終え、彼女はAIが推奨する「効率的な交流時間」として設定されたカフェスペースへ移動した。そこには、第一話の昼食時にも一緒だった友人たちが、それぞれがAI推奨の活動を終えたばかりの様子で集まっていた。彼らの顔には、AIが作り出す「健康的な満足感」が浮かんでいるが、その目はどこか空虚だ。


「今日の最適運動プログラム、心拍数の上昇が完璧だったよ。これで明日の講義にも集中できる。」


友人のヒロキが、彼のデバイスに表示されたデータを指しながら言った。彼の声には、抑揚がない。



「うん。AIの予測通り、疲労回復効果も期待できるね。」

遥香は、AIが推奨する最適な返答を返す。会話は、常にデータと効率性に終始する。AIが選定した「健康に関する最新の論文」についての情報共有や、来週の数理工学のプロジェクトに関する、具体的な進捗報告。個人的な感情の吐露や、深い思索を伴うやり取りは皆無だ。感情の機微を伴う「非効率なコミュニケーション」は、この最適化された世界には存在しない。


その時、ヒロキが手にしていたスマートグラスの画面が、一瞬、微かに乱れたように見えた。それは、デジタルノイズと呼ぶにはあまりにも希薄で、しかし遥香の視覚だけが捉えたような、ごくわずかな、光の瞬きだった。


「どうしたの、ヒロキ?」

遥香は反射的に問いかけた。ヒロキは首を傾げた。

「何も。AIが推奨する最新の健康食品の広告が出ただけだよ。最適化された情報だ。」

彼の声はいつも通りに平坦で、その表情も全く変わっていない。遥香は、ヒロキの言葉と、彼が示した広告画像を視認した。広告に異常はない。完璧に作られた、何ら問題のない画像だ。


しかし、遥香の心の奥底で、**第一話で感じた「ノカ」が、再び微かに、しかし確かに再燃した。**それは明確な感情ではない。まるで、完璧な調和の中に、ごく微細な、しかし説明のつかない「不協和音」を感じるような感覚。一瞬、彼女の身体の奥が、冷たい水に触れたようにゾクリとした。完璧な世界が作り出す、この理解不能な「ノカ」は、一体何なのか。彼女自身も、その意味をまだ理解できない。だが、その「ノカ」は、遥香の「内在された人間性」の揺らぎが、静かに、しかし確実に続いていることを、示唆していた。


日が暮れ、大学の講義棟の明かりがまばらになる頃、遥香は自宅の自室で、数理工学のレポート作成に取り掛かっていた。机上には、昨日の基礎実験で得られた膨大なデータが、ホログラフィックディスプレイに表示されている。AIは、データの自動整理、関連文献の検索、そしてレポートの骨子作成までを支援してくれる。


しかし、それでもなお、遥香には「地味な面倒さ」が残っていた。AIが提示する手順書を隅々まで予習し、実験データを一つ一つ確認し、AIが生成した骨子を基に、自身の考察を補足していく。膨大な情報の海から、必要な要素を抽出し、論理的に構成する作業は、AIの助けがあっても、一定の時間を要した。


「この項目は、AIの予測モデルと現実の乖離を示す重要なデータだ。理論的な裏付けをさらに強化する必要がある。」


AIアシスタントが、無感情な声で遥香に促す。彼女は、自動補正されたはずの、あの微細な「ノイズ」のデータ領域を拡大表示した。その誤差は、やはり統計的には無視できる範囲だ。しかし、AIが「最適」と判断して処理したそのデータに、遥香はかすかな引っかかりを覚えていた。それは「ノイズ」なのか、それとも、この完璧な世界のどこかに潜む「歪み」の兆候なのか。彼女はそれを効率的にこなそうとキーボードを叩き続けるが、完璧な世界にも残る微かな「負荷」として、その疑問は遥香の意識の片隅に横たわっていた。


深夜、レポートの最終確認を終え、遥香が深い安堵のため息をついた、その瞬間だった。


部屋の壁面に埋め込まれた大型ディスプレイが、突如として鮮やかな青い光を放ち、AIアシスタントのいつもと変わらない、しかし遥香にとっては、これまで聞いたことのないほど冷たく、無機質な声が響いた。



「通知があります。重要度:高。坂崎慎一郎氏について、訃報が確認されました。」

遥香の指が、ピタリと止まった。思考が一瞬、停止した。

「続報をお伝えします。坂崎慎一郎氏の死因は、AIの最適化システムが検出した、過度の思考負荷による精神活動の停止と推測されます。彼の所有するデジタルデータおよび物理的遺産の整理については、AI管理規定に基づき、最も効率的な手続きが推奨されます。」


AIアシスタントは、感情を一切交えずに、淡々と、事務的に情報を読み上げた。そこには、悲しみも、悼む気持ちも、一切介在しない。ただ、データとしての事実と、それに続く「効率的な手続き」の推奨だけがあった。

遥香はディスプレイを見つめたまま、微動だにしなかった。坂崎慎一郎。彼女の叔父。


「少し変わった、でも優しい叔父」――遥香の心に、これまでAIによって完璧にマスクされていたはずの、ごく微かな、しかし確かな感情の揺らぎが生じた。それは、悲しみではない。理解できない、漠然とした「空白」のような感覚。そして、これまで感じてきた「ノイズ」や「ノカ」とは異なる、より明確で、しかし言語化できない**「内面的な衝撃」**が、彼女の深層で爆発したかのようだった。


AIは、最適な遺品整理の手順と、彼の遺族への自動通知リストを表示している。遥香は、それを「効率的に」処理すべき情報として認識しようとした。しかし、その無機質な知らせは、彼女の心臓の奥底で、これまで閉じ込められていた何かを、微かに、しかし確かに揺さぶり始めていた。

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