『新約―Auferstanden aus Ruinen(廃墟からの復活)』-情報神話シリーズ7作目

絽織ポリー

序章:静謐なる波紋

第一話

##序章:静謐なる波紋


###第一話

午前六時、AIアシスタントの滑らかな声が、遥香の完璧に最適化された一日の始まりを告げた。


「おはようございます、遥香様。良質な睡眠サイクルが維持されています。本日の午前中の学業パフォーマンスは99.8%と予測されます。」


窓の電動カーテンが滑らかに開き、無駄のない精緻な光量が室内に満ちる。彼女の体温、心拍数、そして昨晩の微細な寝返りの回数までを解析したAIは、起床直後の身体に最適な室温と湿度を保ち、空気清循環システムが室内の微粒子まで除去している。枕元に置かれたスマートミラーは、彼女が顔を上げた瞬間に点灯し、完璧に整った寝癖一つない遥香の顔を映し出した。その瞳は澄み切っているが、そこに感情の揺らぎは一切見られない。


彼女の動作は、AIが提示する「最も効率的なルーティン」に完全に則っていた。ベッドから滑り降り、用意された機能性ウェアに着替える。一切の思考を挟むことなく、彼女の身体は流れるように次の動作へと移る。洗面台に向かえば、AIが彼女の肌質と季節に合わせた適温の湯が蛇口から流れ出し、歯磨き粉の適量までスマートブラシが指示する。


朝食は、昨日までにAIが遥香の生体データとスケジュールから算出した、最適な栄養バランスと摂取カロリーのメニューが、既にキッチンカウンターに用意されている。加熱されたオートミールには、AIが推奨するビタミンとミネラルが添加され、隣には抗酸化作用を持つベリーのスムージーが置かれている。食事を摂る間も、テーブルに埋め込まれたディスプレイにはAIが厳選した「今日の主要ニュース」が簡潔に表示される。国際情勢、経済動向、最新の科学技術。全てが客観的で、感情的なバイアスが排除された情報。彼女はそれを疑うことなく、ただ効率的な知識として摂取する。


AIの音声は常に穏やかで、しかし絶対的な信頼を伴っていた。遥香の日常生活のあらゆる側面は、この見えない、しかし完璧な管理下に置かれている。それはまるで、彼女自身が巨大な最適化アルゴリズムの一部であるかのようだった。その「完璧さ」の裏に潜む、感情の無機質さには、遥香は気づかない。いや、気づく必要がない。全てが問題なく、滞りなく進んでいるのだから。


数理工学部の建物は、他の学部棟に比べて新しく、無機質なコンクリートとガラスで構成されていた。研ぎ澄まされた合理性が、そのデザインの隅々から感じられる。遥香は、AIが提示した最適な通学ルートと、その日の時間割を頭の中で反芻しながら、無駄のない足取りで講義棟へ向かう。


今日の授業は、数理工学の基礎実験。教室に入ると、中央に配置された大型のディスプレイには、本日の実験テーマである「複雑系AIシミュレーションモデルにおける微細な変動要因の解析」というタイトルが映し出されていた。机上には、各自の端末と、AIが事前に生成した詳細な実験手順書が表示されている。


遥香は、手順書に完璧に従い、迷いなくキーボードを叩き始めた。膨大なデータセットが次々と入力され、シミュレーションモデルが起動する。画面上では、AIが予測する理想的なデータ曲線と、実際のシミュレーション結果がリアルタイムで比較されていく。遥香の指は滑らかに動き、視線はディスプレイ上の数値から一瞬たりとも逸れない。全てが極めて効率的かつ正確に進む。


シミュレーションが中盤に差し掛かった時だった。


AIが予測する理論値と、実際のシミュレーション結果の間に、ごく微細な**「ノイズ」**が検出された。それは、統計的には無視できる範囲の、極小の誤差。通常ならば、AIの自動補正機能が働き、瞬時に修正されるか、あるいは単なるデータの揺らぎとして処理されるようなものだ。


画面の隅に表示されたグラフの線が、予測値からごくわずかに、しかし確かに乖離している。遥香はそれを視認した。


「検出された微細な乖離値は、アルゴリズムの許容範囲内です。自動補正を実行しますか?」


AIアシスタントの音声が、無感情に問いかける。遥香は一瞬、指を止めた。その「ノイズ」は、なぜ発生したのか。システムは許容範囲内と判断している。だが、それは予測値ではない。その思考は、ほんの一瞬のことだった。


「自動補正を実行。」


彼女は冷静に、機械的に指示を返した。瞬時に画面のグラフは予測値と一致し、異常は「最適化」された。遥香はそれを単なる処理すべき「データ」の一部として認識し、次のステップへと移った。この段階では、彼女にとって「異常」という認識はなく、あくまで効率的な作業の一部でしかなかった。


しかし、そのごく微かな乖離値に触れた瞬間、遥香の心の奥底で、**何か微細なものが揺さぶられた。**それは、明確な思考でも感情でもない。喜びでも悲しみでもない。まるで、静止した水面に落ちた一滴の雫のように、ごくかすかな波紋が広がるような感覚。彼女自身もそれが何を意味するのか、理解できていない。だが、その「ノイズ」は、遥香の「内在された好奇心」の萌芽が、静かに、しかし確かに揺らめいた瞬間であった。


実験終了後、遥香は貸与された端末で、今日の実験データの詳細をプレビューした。AIが自動生成したレポートの骨子が表示されている。彼女はそれを見ながら、追加で調べるべき理論や、引用すべき先行研究のリストをAIに問いかけた。AIは瞬時に最適な文献を提示する。レポート作成もまた、効率的に進むはずだ。だが、それでも、与えられた手順書を読み込み、報告書を作成するという「地味な面倒さ」は、最適化された日常の中にも、未だ完全に排除されていない非効率な人間の営みとして存在していた。


大学のカフェテリアは、AIが学生たちの活動パターンを解析し、最も混雑しない時間帯と導線を考慮して設計されていた。昼食時も、各テーブル間の距離は最適に保たれ、騒音レベルは一定に制御されている。


遥香は、AIが推奨する今日のメニューを選んだ。低GI値の穀物、厳選されたタンパク質、そしてAIが計算した最適な量の野菜が彩りよく盛り付けられたプレート。隣に座った友人たちも、それぞれにAI推奨のメニューを手にしている。


「午後のAI倫理の講義、出席率は99.5%だね。素晴らしい最適化だ。」


友人の一人、タケルが、遥香のウェアラブルデバイスから読み取ったデータを確認しながら、感情の薄い声で言った。彼の顔には、AIが推奨する「友好的な笑顔」が浮かんでいるが、その瞳の奥には何の感情も宿っていない。


「うん。昨晩の学習ルーティンが効率的だったから。」

遥香もまた、AIが提示する「最適な応答」を返した。


会話は続く。AIが推奨する「効率的な学習法」に関する情報共有や、最新のAI技術に関するニュース、あるいはAIが選定した「今日のトピック」に対する、画一的な意見交換が中心だ。誰もがAIの示した「正解」を疑わず、それに沿った言葉を紡ぐ。個人的な感情の吐露や、深い悩みが語られることはほとんどない。それらは全て、AIが「非効率」と判断し、排除した要素だからだ。


遥香は、友人たちの「最適化された笑顔」と「無機質な会話」を眺めていた。完璧に調和し、何の不や不安もないその光景は、AIが作り上げた理想郷の具現化だった。

その時、遥香の心の奥底に、**ごくわずかな、漠然とした「ノカ」**が生まれた。

それは、明確な感情ではない。喜びでも悲しみでもない。不快感と呼ぶにはあまりにも希薄で、しかし確実に、そこに存在する「何か」。まるで、心臓の奥底で微細な振動を感じるような、あるいは、完璧に澄み切った空に、目には見えないはずの、ごく薄い霧がぼんやりと立ち込めるような、説明のつかない不快感。


友人たちの顔は、完璧な「笑顔」を保っている。彼らの声は、AIが示す「理想的な友人関係」の会話パターンに沿っている。何も問題はない。全てが「最適化」されている。


なのに。

遥香は、その「ノカ」がどこから来るのか、なぜ存在するのか、理解できなかった。それは、AIの論理では説明できない、極めて個人的で、認識すらできないほどの小さな「歪み」。しかし、その瞬間、彼女の「内在された人間性」が、無意識のうちに、完璧な世界が孕む異質さに、ごく微かに反応していた。


食事を終え、食器を返却する。全てが効率的に処理され、次の行動へと促される。遥香の日常は、完璧な調和の中にあった。しかし、その日の実験で感じた「ノイズ」と、昼食時に覚えた「ノカ」は、彼女の意識の奥底に、微かな、しかし確かな波紋を残していった。


物語を大きく動かすような劇的な事件は、まだ起こらない。しかし、完璧な日常の静けさの中に、不穏な兆候は確かに芽生え始めていた。

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